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北条寺 美織(左翼手、22歳、左投左打)(後編)

「北条寺さん、着替えが終わりましたよ」


 六道がグラウンドに戻ってきて、手を振ってきた。練習着から着替えたのは細めの黒いズボンとオーバーサイズのコート。子供っぽいとも思ったが、彼らしい感じもする。


「ああ、ありがとう。それじゃ着替えてくる」


 軽く手を振り返して、北条寺はダグアウト奥のロッカールームに向かう。上坂監督から言われたことが足取りを重くしていた。

 北条寺は確かに入団テストでその力を見せた。だが、一年待てと言われた。

 なぜか。それは、現在のルールではプロ入りはドラフトを経なければならないと規定されているからである。そして大学を中退した場合、ドラフトで指名される権利はなくなってしまうからである。翌年以降であれば問題はなくなるが、とにかく来年からプロ野球選手だ、というのは無理になってしまった。

 折角プロ野球選手になれると思ったら、これだ。衝動に任せて大学まで辞めてしまうことはなかった。休学にしておけばよかったのに。


(私はこういうところで、ついてないというか、バカなんだな。すぐカッとなってやってしまう)


 深いため息をついて、北条寺はロッカールームまで歩いた。中に入ってカギをかけ、それから床の上にぐったりと両手をついた。しかしそうしていても仕方がないので、のろのろと借り物のウェアを脱いで、セーターとコートを着込んだ。靴もスパイクからスニーカーに戻して、それから肩掛けのカバンを手にする。

 ふと、このカバンの中に何か大学に即復学するための何か書類はないかと思って、探してみた。通常の復学手段ではドラフト会議には間に合わない。間に合わなければ、復学しても意味がない。

 ソフトボール部の退部届はオンラインでメッセージを送った後、部長宛てに送付してある。退学届も一緒に大学教務部へ送った。これは一週間以上前の話だ。

 そのとき、住んでいたシェアハウスからも退去したが、これはオーナーから「出て行ってくれ」と言われたからでもある。もともと、女性限定という話で入居者を募集していたのだ。そこにこの報道がされてしまったので、オーナーは過敏に反応したのだろう。「清掃もいいから、とにかくすぐに退去してほしい」とまで言われてしまったので、どうしようもない。もちろん法的には北条寺に分があるから、争えば住み続けられたかもしれないが、そんなことをしても何の得にもならない。私物のほとんどを処分して、部屋から出た。

 それからもう一週間。大学に書類はすでに到着して、すでに受理されてしまっているだろう。奇跡的な確率で郵便事故でも起きて、紛失している可能性もゼロではないが、そんな都合のいい現実もないだろう。今からでもすぐ復学すればなかったことにならないか。そのための何か書類でも忘れていないか。

 しかし当然というか、役に立たないものしか出てこなかった。絆創膏やアイマスク、コンビニのレシート、封を切ったアタリメといったものがロッカールームに散らばる。


「クソッ」


 諦めも悪く、カバンを逆さにして振ってみても、もはや何も出てこない。ゴミだけだ。それらをなんとか片づけ、ぐったりとしてダグアウトのベンチに戻ってきたが、そこには先ほど見たままの姿の六道が立っていた。


「北条寺さん、どうしたんですか?」


 心配するような目でそう問いかけられて、何と答えたものかと考えてしまう。

 少し悩んだが、正直にありのままを話すことにした。何も解決策は出ないだろうが、気持ちは軽くなるかもしれない。


「勢い余って大学を退学したんだが、そうしたら今度のドラフトでは指名できないって言われたんだ。一年待たなきゃプロになれない」

「そうなんですか? 一年は長いです。でも、北条寺さんのニュースってつい最近でしたよね。退学届はもうだしてしまったんですか?」

「一週間前、先週の金曜日か。普通に考えたらもう受理されてるよ」


 北条寺は頭を抱えたが、六道の反応は逆だった。


「まだ一週間じゃないですか! 今日、木曜日ですよ。土日は、教務課とかは休みだから業務しないですよね。本当に一週間前に出したとしたら、届が到着してまだ四日くらいですし、手続きには入ってないかもしれません。それに、北条寺さんの事情を大学も知っているでしょうから」

「そうだよ、知っているよ。大学のアカウントにも散々クレームみたいなメッセージが行ってたからさ。ソフトボール部の方も同じ」


 知らないわけがなかった。こういう場合、正義を振りかざした人々はすぐさま大学に電話をかけて、文句を言いまくるのが常だ。北条寺もそれで報道のことを知ったくらいだった。大学に電話が鳴りやまず、そのほとんどが北条寺のテストステロン値に関することだったという。


「でも、北条寺さん。それは北条寺さんが悪いんじゃありません。大学だってそれがわからないような人ばかりではないはずです」

「そんなことあるもんか。私は大学の女子トイレだって使えなくなったんだ」


 普通にトイレに入ろうとしただけで、中から出てきた名前も知らない女に物凄い目でにらまれたことがある。北条寺のテストステロン値のことを知っていたのか、それともネット上で言われている「実は男だった」という噂を信じているだけなのか、何もわからない。


「それはちょっと。戸籍も、肉体も、性自認も女性なんですから、男性トイレに入るほうがおかしいですよね」

「そうさ。それでも、そうなったんだ。だから怒ってるんだよ、私は」


 真剣に六道が聞いてくれているので、口がすべって言いすぎている。北条寺はそのことに自分で気が付きながら、止められない。


「六道、あんただって自分の体にコンプレックスのひとつやふたつあるだろう。それを私はわざわざ全国に報道されて、さらし者にされたみたいになってるんだ。しかもそれが正義みたいになって、私はただ普通に生きてただけなのに悪にされてるんだ。こうなったら、どうすりゃいいんだよ。死ねばいいのかよ」

「でも、北条寺さんは少なくとも一年待てばプロになれます。プロ野球はとても人気のあるスポーツですし、そこで活躍して、ファンの人たちが応援するピッチャーの球をバシバシと撃ち返してやったら、さぞかし悔しがる人がでそうじゃないですか。天六コーギーズは最下位チームで、たぶんファンが一番少ないんです。ここに入るということは、もしかしたら憎まれ役になるってことなんですけど、悪らしくヒーローをやっつけてしまっても、たぶん許されるんですよ。スポーツですからね。それに、まだその一年も待たなくていい可能性だってあるんです」


 北条寺は自分の気持ちをぶちまけるような気持ちで話をしたのだが、六道はまるでそういった話を聞きなれた牧師か住職のような態度だった。決して落ち着きを失わずに、「こうしたらどうか」と切り返してくる。別に、北条寺としては解決策を求めて話をしているわけではない。誰かに話を聞いてほしくて、おそらく心の底ではただ同情してほしくて、こんなことを吐き出している。だが六道はほとんどよどみなく、北条寺がするべきこととたどるべき道を示してくる。


「今北条寺さんがするべきことは、すぐに大学に電話することです。しないのなら、ぼくがしますよ」

「ちょっと待て。私の大学の番号を知ってるのか?」

「知りませんけど、監督なら知ってると思いますし」


 うむう、と北条寺は唸った。実のところ、北条寺の個人情報はすでにネット上でさらし者になっていて、数種のサイトで保存されている。少し調べれば、シェアハウスの住所や大学名、ソフトボール部の顧問の名前などまで出てきてしまう始末だった。もちろん、北条寺の実家の住所まで。

 六道はそういったことを調べるとは言わず、監督に聞くと言っている。確かに上坂監督ならニュースも知っているし、出身校も自分の口で伝えたから知っているだろう。


「だって、もしまだ届が受理されていなかったら、一年丸儲けなんですから。かけない手はありませんよ」

「わかった、わかったよ。今からかける、私が自分で」


 六道が大学にかけることに意味があるとは思えないが、そんなことまでされたら折れるしかない。北条寺は自分のスマートフォンを取り出した。

 すると、六道はにっこり笑って自分のスマートフォンをしまい込んだ。


「よかった。実は一度もスマホから電話をかけたことがなくて、かけかたがわからなかったんです」

「お前、マジか」


 思わずそんなことを言ってしまう。いまどきスマホで電話をかけたことがないだと。その点は非常に気になるが、だが、今はとにかく教務課に連絡をとってみる。

 登録しっぱなしだった大学の電話番号を呼び出してみる。教務課はまだやっているだろうか。

 午後五時前だが、つながった。相手の挨拶を待ってから、北条寺は単刀直入に切り出した。


「えっと、なんていえばいいか。退学届を提出したんだけど、撤回したいんだ」


 教務課の職員は「こちらからも連絡しようと思っていたところだった」と返してきた。


「事情はこちらも知っているので、衝動的に送ってきたんだろうと思っていました。普通に処理をしてもよかったのですが、一週間くらいは連絡をとってみて、落ち着くのをまってみようということになっていたのです。だって、せっかく入学金も学費も払っているのですし」

「ということは、まだ私は退学になっていないのですか?」

「なっていません。保留してあります」


 ウオッ、と声がでかかった。

 だがとにかく、退学になると困る事情ができたということを伝えた。教務課は納得し、大学に籍を残すことを確約してくれた。もちろん、北条寺が余計なことをしなければだが。授業は欠席し続けているが、どうせ卒業することはないので問題なし。いずれにせよ、ドラフト指名で契約した後は退学することになる。

 北条寺は感情をおさえたまま、礼を言って電話を切った。


「どうでしたか?」

「籍は残ってた。ドラフトで漏れなきゃ、来季からプロになれるはず」

「そうですか! よかった、北条寺さんが来てくれるなら嬉しいです。上坂監督に報告にいきましょう」

「ああ」


 北条寺は走って、上坂に事情を説明した。


「すみません監督! 退学届を撤回しました!」

「なっ、なんだ? 受理されてなかったのか」

「まだ間に合いました」


 上坂は少し考えてから言った。


「そうか……。まだ大学に籍はあるのか、そして、野球にはかかわったこともないと。志望届も必要なさそうだな。わかった。おそらく予算の都合で下位指名になると思うが、必ず指名すると約束する。それから悪いことは言わないから、一度実家に戻って家族とよく相談をしなさい。それと、ソフトボール部の人にも改めて話をしたほうがいい」


 そう言われても、北条寺はそんな気分になれない。ソフトボールを失った代わりに野球をする権利は得られたが、ここの出来事で感情が揺さぶられ過ぎた。いくら北条寺でも、すぐに立ち直って元気になるということは不可能であった。

 はっきり言えば、実家の住所も父親の名前もネットでさらし者になっているのに、家に帰れるわけがない。


「時間をおけばわかる。球界に来る前に、きちんと筋を通してからのほうがいいはずだ。まあ、今日はホテルで休んでもいいが、実家には連絡をしておきなさい。少なくとも、いつ帰るかくらいは伝えるものだ。自分でもわからないのなら、なんとなく遠い日付でもいい」

「はあ、まあ」


 怒りはまだ忘れられていない。すぐには消えない。何か口を開けば罵倒が飛び出してしまう恐れは、まだあった。だが、いつかきっと帰れるはずだった。そのために、遠い日付で実家に帰ると嘘をつく。

 そんなものでいいのなら、今の北条寺にもできそうだった。


「また追って連絡をする。球団からになるだろうがね。とにかく、今日はもう帰りなさい」

「わかりました」


 連絡先はすでに交換している。北条寺はその場を辞して、ダグアウトに戻ってきた。六道が彼女をまだ待っている。


「国森ってあの投手はどうしたんだ? 帰ったのか」

「ええ、国森さんは彼女を待たせてるとかで帰りましたよ。ぼくも寮に戻ります!」

「待ってることはなかったのに。私はホテルに泊まるつもりだよ」

「はい、でも監督がホテルまで案内してあげろというので」

「道くらいわかるよ、スマホがあるから。でもまあ、一緒に行くか。チームのことでも話してほしいな」


 そう言ってみると、六道は嬉しそうに今まであったことを次々と話してきた。それを聞きながら球場を出て、小道を曲がってホテルに向かう。


「それで、春季キャンプに出てたんですけど、三日目くらいでフロントの人に怒られました」

「そりゃそうだろ。4月までは学生なんだから」

「でも誰も止めなかったんですよ、上坂監督も」

「なんだそりゃ」

「それでも存分野球ができて、お給料も出るんですからいいチームですよ。北条寺さんが来てくれるなら、本当にうれしいです」


 まったく下心もなさそうな、ニコニコとした笑顔で六道は見上げてくる。おいおい、と北条寺は苦い笑みを浮かべざるを得ない。無条件に嬉しがってしまっていいのか、という気がする。自慢ではないが北条寺の悪名は相当なものだ。SNSアプリは削除してしまったが、殺害予告に等しいメッセージが数えきれないほど来ていたくらいである。


「まあ、そうだといいな」


 北条寺は息を吐いた。

 少なくともこの天六コーギーズだけは今のところ私を歓迎してくれるようだ、と信じられた。大学が退学届を保留してくれていたことも、誰かを信じられる一因だった。

 ネットには実家の住所も父親の名前も晒されている。これから先も多分簡単に消えないだろう。どのツラ下げて実家に帰れるものか、連絡なんてできるもんか。そういった思いに背を向けて、ビールでごまかして怒りに染めてきた昼間の特急列車から、たったの半日で意識が変わりつつある。


「国森さんが言ってましたが、SNSのアカウントは消していないんですか?」

「もう見てないけど、アカウントは消してないよ」


 問われて、答える。


「いろんな人がコメントしてるって言ってましたよ。悪いことを書いてる人が一番多いけれど、応援してる人もいるって」

「どうだか。もしそうだとしても、そいつらにだけ反応してたらまたそれはそれでおかしくなるだろ」

「かもしれませんね。でも、応援してる人がいるということは、悪いことじゃないですよ」


 それはそうだ。確かに。

 北条寺は深く息を吐いた。


「なあ六道。私が一軍で活躍するまで、このチームにいてくれるよな」


 気づけばそんな声をかけていた。自分よりも小さな、背丈の低い捕手はこちらを見てにっこり笑う。


「そのつもりです。初めてユニフォームをくれたチームですから」

「私が他のチームのエースを打ち崩したら、一緒に喜んでくれるよな? そのときは」


 そのときはたぶん、胸を張って実家に戻れる気がする。やってやったと言える気がする。


「大丈夫です、そのときは一緒に喜びますよ。ただもしかしたら、ぼくはまだファームにいるかもしれませんけどね」


 相変わらず彼は笑って、そんな風に答えてくれた。思わず北条寺は先輩のはずの六道の頭を軽く小突いた。

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