北条寺 美織(左翼手、22歳、左投左打)(中編)
六道というその小さな捕手は、ニコニコと笑って嫌味のない目線をこちらに投げてきている。まるで近所の優しいお姉さんでも見つけた小学生のようだ。
北条寺はまさかこんな選手がいるとは思っていなかった。確かに捕手と打撃投手をよこすとは言っていたが、こんな子供にプロの球を受けさせる気かと心配になる。だから咄嗟に、挨拶を返すことができなかった。
「え、えっと……」
「北条寺さんですよね? お名前は伺っています」
元気よくハキハキとした声だった。
どう答えればいいんだ? 何と言えばいいんだ? 北条寺は悩んで何も言えないままである。
その後ろから、大柄な男もやってきた。こちらは北条寺を見るやギョッとした表情を浮かべた。が、すぐに頭を下げて切り替え、
「はじめまして、国森と申します。今日は打撃投手を務めますので、よろしくお願いいたします」
と挨拶をしてきたのだった。
北条寺としては、国森の反応が自然に思えた。ニュースや女子ソフトボールのことを知らなくても、この場に女がいるというだけで驚くには十分だろうし、それがプロテスト受験者ともなればこうなって不思議ではない。むしろ、すぐに切り替えて挨拶をしてくれただけでも紳士の部類に入るだろう。
「えっと、北条寺です。よろしくお願いします」
六道のあまりの自然体な挨拶と小柄すぎる体格に戸惑っていたが、国森がこちらに驚いてくれたおかげで、逆に落ち着けた。北条寺は二人に向かって頭を下げる。
「よかったですよ、北条寺さんが来てくれて。プロテストがあるというので呼ばれたんですけど、誰も来ないんで室内練習場にいたんです。このままだと練習だけして帰るところでした」
六道はそんなことを言っていて、国森もこれに頷いた。
「じゃあ、早速いきましょうか。俺らのほうは準備できてますから」
「えっ」
あっけにとられる北条寺を差し置き、国森はさっさとマウンドに向かって歩き始めた。六道を見ると、彼もすっかり準備を終えているようで、にっこり笑って言った。
「もう始めてしまっていいそうです。監督たちは勝手に見てるって言ってましたから。もうテストじゃありませんし、気楽に」
「始めるって。あんたが受けるの?」
「はい。ちょっと頼りなく見えるかもしれませんけど、これでもちゃんとキャッチャーで試合に出たんですよ。二軍ですけど」
「そ、そう」
随分小柄に見えたが、六道はプロ選手だったらしい。ということは、北条寺よりも先輩だ。
完全に小柄で童顔というだけで侮ってしまったわけだが、六道はまったく気にしていない。エルボーガードやレガースを使うか聞いてくる始末だった。
「右ですか? 左ですか?」
「ああ、左だよ。レガースはいいよ。エルボーガードだけちょうだい、メットにもフェイスガードがほしい」
「バットはどれがいいですか? このへんのやつは誰でも使っていいみたいですよ。スプレーはこっちにあります」
この際だからと色々装備を注文してみると、さすがにプロ球団ということで色々出てくる。
先輩選手のはずの六道だが、完全に気のいい後輩といった態度だった。なんだか年の離れた弟と買い物でもしているみたいだな、と北条寺は勝手に思いながら渡された装備を身に着け、六道と一緒にダグアウトを出た。
すでにマウンド上のバッティングマシンは片づけられており、国森がボールをポンポンと片手でもてあそんで暇そうにしている。
北条寺はメットをかぶって、バットのグリップを確かめながら打席に入った。一本だけ握りが細めのバットが置いてあって、それが気に入った。バッティンググローブも自分好みのものを手に入れて、スプレーまでふってある。完全装備だ。下着以外は。
グローブは新品を開けたし、スプレーもシュリンクがまだ張ってあるものを使った。試合でもないのにいいのかな、と思いながら「でもまあ、フロントも見てるわけだしな」と切り替え、北条寺は構えた。
マウンド上の国森はグラブをバシバシと叩いて気合十分。やってやるかとじっと息を詰めていると、ホームプレートの後ろにいる六道が話しかけてきた。顔は見えないが、笑っていることがわかるような明るい声だ。
「国森さんは来期から打撃投手をされるんですけど、ついこの間までは試合で投げていたんですよ。だからたぶん、実践的だと思います。今から少しの間敵同士になりますけど、ぼくらは三振をとるつもりでやりますね」
「わかった」
そちらを見ずに答えると、すぐに六道のサインが出されたのか、マウンド上の国森が頷いた。その足がスッと持ち上がり、上半身がグッと逸らされ、バネ仕掛けのような精密な動作でふりかぶり、綺麗なオーバースローで速球が飛んできた。
打てない。手が出なかった。
外角低め。ギリギリを攻め込まれると打てる気がしない。バッティングマシンの球は一度見れば「次は打てる」という気がしたが、これはもう一度同じものを投げられても無理な気がする。それほどのコントロールだった。
「ちょっと外れてましたね。たぶん今のはボールです」
六道がそう言いながら国森に返球する。思わず、ほっとしてしまった。
次は空振りでもいいから振ってみようと決めて、国森の投球動作に注目。
同じように振りかぶってオーバースローで球が飛んでくる。今度は遅い! タイミングがまったく合わない。どうにかバットを止めたが、だめだった。ボールはストライクゾーンの中心を抜け、六道のミットにパシン! と乾いた音をたてておさまる。
「チェンジアップです。ひっかかっちゃいましたね」
「わかってるよ、くそ。まだワンストライク、見てなよ」
六道のささやきに、北条寺は悔しい気持ちをそのままぶつけた。今から敵同士だ、と言っていた割に六道は気軽に話しかけてくる。北条寺はそれがなんだか嬉しかった。気がそがれる、というのもないわけではないが、完全に敵ではないという気遣いを感じる。
チェンジアップにひっかかっても、舌打ち一つで気持ちを切り替えられる。もう一度バットを構えた。
(最初がストレート、次がチェンジアップってことは変化球を私に見せてくれてるってことだな? となると次はカーブか、シュート? 野球の変化球のことは全然わからないけど、だいたい次に来そうなのは……)
よし、と狙い球を決めて北条寺は国森の投球を待った。
六道のサインに答えたのか、彼は深く頷いて足を振り上げ、上から鋭く投げた。リリースの瞬間から、北条寺はスイングのタイミングを合わせている。
国森が放ったのは、フォーク。下に落ちる球だ。
(これだ!)
やはり来たか、と読みが当たったことを確信。ストライクゾーンの下ギリギリの位置へ、ほとんどゴルフスイングのような気持ちで膝を折り、北条寺は一気に振り込む。
カツン! と綺麗な快音。とらえたあとは、一気にしゃくりあげるようなアッパースイング。打球が一直線に空に吹っ飛ぶ。バックスクリーンへ向かって斜め45度に飛んでいく理想的な打球だ。
「うお!」
投手の国森が打球を振り返って見送る。まさか今のを打たれたのか、という驚きがその顔にありありと見えた。
しばらく空を飛んだボールは、少し風に流され、吸い込まれるようにライトスタンドにおちていく。床に当たってボールが高く跳ね上がるのが見えた。
立ち上がって打球の行く先を見ていた六道が、感嘆したような息を吐く。
「ああ、入りましたね。すごい! 今のは完全にストライクをとるつもりだったんですよ、北条寺さん」
「はあ、やったな。まあ次に来るのはフォークだろうと思ってね。ヤマをはったよ」
ふう、と北条寺はバットを杖にしてもたれた。
落ちる球を狙っていたのは間違いないが、どのくらい落ちるかわからなかったから、「やりすぎか?」と思うくらい下を振った。なのにそれが当たるということはとんでもないほどの落差だったということだ。
最下位チームの二軍でこんな有様とは、やはりソフトボールだけの知識では到底やっていけそうもない。相当な努力がいるだろうな、と北条寺は唸った。
「おいおい、今のをホームランとか。冗談だろ、女子ソフトボールってのはそんなにレベルが高いのか」
マウンドから国森が下りてきて、話しかけてきた。やっていられないぜ、とばかりに頭を掻きむしっている。
「文句ないフォークでしたよ。今のは北条寺さんがうまかったですね」
「そういうことにしとかないとな。まあ、これからは打たれるのが仕事になるから別にいいんだがな、まだ残ってるプライドが痛いじゃないかよ」
二人がそうやっていうので、北条寺はわるくない気分になった。ソフトボールにもドロップというフォークにあたる変化球があり、うまいピッチャーもいたものだ。野球のフォークはそれより遠く高い位置から速く飛んでくる。だが対策として落差を読むということは同じだ。運に恵まれたにせよ、初めてにしては上出来だっただろう。だが、国森のフォークの切れ味も称賛に価すると思う。野球歴が一時間もない北条寺が褒めたところで意味もない気もするが。
「いや、確かに今のはすごかったよ。かなり下を振ったつもりだったのに、あれで当たるのかって」
「まあそういわれると悪い気はしないかな。ま、監督もまだ見てるしもう少し投げるか。第二打席ってことで」
国森は女性に褒められて気をよくしたのか、軽く肩を回しながらマウンドに戻っていく。それからしばらくは国森の変化球をいろいろと見させてもらった。
ホームランも打ったことだし、少し見送ってもいいだろう。テストでもないしと力を抜き、気楽に北条寺は国森の投げる球を見た。手を出せそうな球は振ってみたりもしたが、今度はさすがにホームランとはいかない。スライダーらしい球を当てたときは、サードゴロとなってしまった。
「適応力高いですね。国森さんの球が打てるなら、試合にもすぐ出れますよ」
「まあ、それはドラフトでちゃんと指名されてからだけど」
言いながら、北条寺は野球が楽しくなってきている自分に気づく。ソフトボールとは似ているようでかなり違っているのだが、難しいほどにやりがいも感じる。そう簡単に通じないだろうからこそ、面白いのだ。
六道と国森も北条寺の適応力の高さにかなり驚いているようだった。何度も見るうちに、北条寺は国森のピッチングにすっかり対応してしまいつつある。
「ええっ、今のを当てるのか」
国森はスライダーをライナー性のあたりにとられて、驚いている。立っていればだが、セカンドとファーストの間あたりを抜けていっただろう。そのままフェンスに直撃だった。スリーベースも狙える会心の一打だった。
スライダーは何度も投げているとはいえ、驚きの結果である。
「これでも最後の勝負かもしれないと思って、結構気合いを入れて投げているんだぜ」
「最後って?」
思わず北条寺は聞き返した。
「国森さんは現役を引退されたんですよ。来季からは打撃投手に専念されるんです。もちろん、引退試合でも気を張って投げていたとは思うんですけど、真剣に打者と戦うのは北条寺さんとが最後かもしれないってことですね」
六道が解説してくれる。来季から打撃投手とは聞いていたが、確かにそうであれば勝負する機会はもうないかもしれない。
同じように、北条寺が女子ソフトボールをプレイする機会はもうないかもしれない。自分の最後の勝負はいつだったか、と思い出そうとしてやめた。無駄なことだし、意味もない。
「でも、ほんとにすごいですね。二軍の試合だと国森さんのスライダーは結構決まったんですけど」
「まだまだ。ほとんど感覚で振ってるんだよ、もうちょっと投げてほしいな」
過去のことはもう忘れて、未来のために感覚をもっと掴もうと北条寺は貪欲に投球を求めた。テストではないのなら、どれほど見送っても、じっくり見ても空振りしても問題ない。やればやるだけ得になる。
しかし国森の方が音を上げた。
「まだ投げさすのかよ。今何球目だ?」
国森は返球を受けながら、やれやれといった具合で聞いている。六道は「45球目です」と答える。
「投げすぎだろ、さすがに監督ももう満足してるんじゃないか?」
と言われて、それもそうかとバットを下ろした。ダグアウトの近くに立っているはずの上坂監督を探してみれば、彼は腕組みを解いてどこかに歩いていくところだった。もう充分に見た、ということだろう。45球も投げているのを見ていたのだから、よく飽きなかったなという方が正しいかもしれない。
「なら、これでもう充分だろ。プロテストも終わりの時間だし、帰って寝ようぜ」
そうか、もう終わりなのか。もう少し振りたかったが。北条寺はバットを肩にかけて、着替えるためにロッカールームに戻ろうとして、ハッとした。さすがに二人と同じ部屋で着替えるわけにはいかない。
野球は基本的に男のスポーツだから、北条寺は着替える場所もない。トイレで着替えるというわけにもいかない。
「なら、着替え終わったら教えてくれないか。このウェアは借り物だから」
「ああ、えっと。わかりました。急いで着替えてきますね」
六道がそう答えるや、急ぎ足でロッカールームに走っていった。大きなギアバッグを抱えていったが、大丈夫なのか。国森も事情を察したのか、小走りにグラウンドを出て行く。
気を遣わせたかなとも思ったが、男ばかりのチームに女が入るとどうしてもこういうことはある。
私が気にしてもしょうがないなと結論し、なんとなく素振りを始める。ソフトボールの感覚を早く脱して、硬球の感覚に慣れ切らないといけない。さっきのホームランやヒットの感覚を忘れないうちにもう少し素振りをしていたい。
太陽が少し傾いて、西へ落ちていこうとしている。何度か振ったところでそれをふと見上げて、北条寺は自分の事情を思い出した。今夜寝る場所もないのだった。
どうしようかな、とメットを脱いで頭を掻いた。そうしているところへ上坂が戻ってくる。
「やあお疲れ様。先ほどの打撃を見させてもらったが、十分な力があると思えたよ。フロントや編成部も君の力を見届けたと言っている。ドラフトについて、このあともう少し話し合いの時間をとりたい。大丈夫かな」
「はい、まあ。今夜寝る場所がないことが心配ですが」
「そういえばそんなことを言ってたな。まあ、少し歩いたところにビジネスホテルがあるから、そこへ予約の電話をしておけばいいだろう。それで、あの二人はどうだった?」
さすが地元というか、上坂はあっさりと北条寺の悩みを解決して、それからすぐに別の質問をしてきた。あの二人と言うのは六道と国森のことだろう。
妙に人懐っこい小さな捕手の六道は、ずっと元気で明るかった。おかげで緊張感も少なく打席に立てたと思う。
投手の国森も、北条寺を見た驚きこそあったが努めて紳士的にふるまってくれた。ジロジロみられることもなかったから、ありがたかった。
「仲良くやって行けそうです」
北条寺は素直に答え、これに対して上坂は満足そうに頷いた。だが、彼はまず残念なニュースから話し始める。
「最初に言っておかねばならないのだが、今期のドラフトは来月にある。だが、このドラフトはその年に大学を中退した者は対象とならないのだ。つまり、君は今期のドラフトでどうしても指名されることができない。これは日本のプロ野球では破られたことのない掟だから、どうあがいても一年待たねばならないということだ」




