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国森 浪尾(投手、29歳、右投右打)

 幼く見えても、甲子園優勝を経験している優れたキャッチャーなのだと説明をされても、国森にはわからなかった。それほど、今度の新人である六道は頼りなく見えている。国森の胸元あたりまでしか背丈がないのでは、と思えた。

 だから彼から練習を誘われても、断ってしまった。どうせ投手の力だけで勝ち抜いたんだろうと決めつけた。ついにフロントの目も腐っちまったか、などと毒づく。

 念のために六道の出身校を調べてみれば、確かに甲子園優勝を果たしていた。しかし評価されているのはもっぱら投手の黒坂のほうで、捕手の六道をドラフト指名したのは天六コーギーズだけ。小柄な上に、打撃でも大した成績を残していないので、当然だろう。

 しかも天六コーギーズは一位指名した大学生投手に球団を見て「やはり就職して社会人野球に進みます」などと理由をつけて回避されており、どうあっても戦力を獲得しようとして、ほとんど指名可能性のない選手をとりにいった。少なくとも国森はそのように考えた。

 であれば、ドラフト二位といっても大した裏付けにはならない。ティーバッティングなどをしているところも目にしたが、大した能力があるわけでもなかった。プロのピッチャーが相手ではどう頑張ってもポテンヒットがせいぜいといったところだ。

 国森は投手である。捕手の質がどれほど投手に影響を与えるかは十分理解しているつもりだった。しかしそれでも、六道の評価は低いままである。

 春季キャンプはまだ続くが、国森は今日もグラウンドの隅でごろ寝をして過ごしていた。まだ寒い日が続くが、日差しのあるところなら眠れないこともないし、上着を身体にかけていれば風をさえぎってくれる。

 そんな国森の前に、誰かが立った。


「野球しないんですか? キャッチボールしてくれませんか!」


 さらに声まで落ちてくる。例の新人だった。国森は見ての通り、完全に腐りきっていて、春季キャンプだというのも練習する気も野球をする気も全くなかったのである。監督や編成部が戦力外通告をもってくるのも時間の問題だが、それまで怠惰にチームに居座るという選択をした者なのだ。

 それなのに、彼はそんな事お構いなしで声をかけてくるのだ。こうして誘われるのも何度目だろうか。最初は苛立って語気も強く「うるせぇ、やんねえよ!」と追い返した。これでもう近寄らないだろうと思ったが、六道は翌日も平然と声をかけてきたのである。


「今日は野球しませんか? キャッチボールしませんか!」


 そのときもまた、おずおずといった調子でもなく元気いっぱいに笑顔で誘ってきたのだからたまらない。鋼鉄のメンタルでも持っているのか、と国森は辟易した。

 しかし二軍監督の上坂は六道を高く評価しているようだった。いくら国森が腐りきっていると言っても、試合となれば投げなければならない。二軍の試合とはいえ、観客はある。炎上でもすれば、恥をかくことになるのは彼自身だった。もちろん、前のシーズンとて個人成績がどうなろうと構わないと思っていたのだが、チーム全体に腐り果てた雰囲気があったから、国森だけが責められることでもなかった。

 腐っているのは彼一人ではない。彼だけが目立つわけではない。


「うるせえ、やらねえよ」

「そうですか。わかりました」


 声だけで断れば、六道はスッと身を引いて行ってしまう。あっけなかった。国森は再びグラウンドに身を任せ、目を閉じようとしたが、声が聞こえてくる。


「おう、国森か。そいつはだめだ、やめといたほうがいいぜ」


 名前を出されては気になる。目を開いてみれば、目の前で六道とショートの籾倉が何やら話をしていた。籾倉とて、少し前までは自分と同じように春季キャンプでも寝転がって時間を過ごしていた怠惰な選手だったはずだった。なのに、今や六道と一緒に何やら練習する気になっているらしい。

 なぜ籾倉がそのようにやる気を出したのかはわからないが、長続きはしないだろうと国森は考える。その自分の考えに自信があったため、国森は安心してまた目を閉じた。


「こないだはお前の練習を忘れて俺ばっかり打っちまったからな。投げてやりたいけどピッチャーは中学以来だからなあ」

「平気ですよ、それより守備練習どうやってしましょうか!」

「それなんだよなぁ。お前のティーバッティングじゃ全然守備練習にならねえんだよ、もう少しなんとかしてくれよ」

「すみません、ノック打ちは苦手なんです」

「ノック打ちも、だろ」


 二人はそんな他愛もない話をしながら国森の前を去っていき、しばらくするとトスバッティングでも始めたのか、ボールを打つ快音がしてくる。

 妙に耳に残る音だった。当たり前である。国森とて野球で飯を食おうと一度は決心をして、それでここにいるのだ。打球音が気にならないことなど、あるわけもない。

 ひときわ強い打球音。思わず、国森は飛び起きた。国森のグラブは、近くの地面に一応おいてはいるが、身に着けてはいない。


「うっ」


 野球選手としての直感だけで、国森はその場を逃げた。立ち上がる暇もなく、四つ足で這うようにしてだ。直後、国森が寝ていたところへボールが落ちてきた。かなりの急角度で落下した白球はドッ、と地面を叩いて跳ね、やがて転がっていった。

 それを目で追って、ふうと国森は胸をなでおろした。あやうく怪我をするところだったのだ。

 思わずこの野郎、と怒鳴りそうになって、さすがにそれはまずいと自制する。グラウンドで寝転がって目を閉じるという無茶苦茶をしていたのは国森の方なのだ。どう考えても、国森に非がある。

 六道と籾倉は、ボールの行方など大して気にもしないでトスバッティングを続けていた。

 非があるのは自分の方ではあったが、怒りがおさまらない。国森は二人に向かって歩いていく。何か言ってやろうと思った。

 小さな六道がシールドネットに隠れながら、下手投げでトスを上げている。それを籾倉が懸命に打っている。そこへ国森は大きな声でガッと言ってやるつもりだった。そのつもりだったが、何を言いたかったのか自分でもわからなくなり、


「おい! あんな……」


 と、大きな声で呼びかけはしたものの、尻すぼみになっていく。


「い、いい当たりだったが、トスがなっちゃいねえよ」


 ついに国森は苦し紛れにそんなことを言っていた。何を言いたくてここに来たのか、もうわからない。懸命な練習を見て、そこに理のない苛立ちをぶつけられるほど、まだ国森は悪人になりきれてはいない。怠惰ではあったが、野球を否定することまではできていなかった。


「なんだ、国森。トスバッティングがダメだってんなら、お前が投げてくれるのか?」


 バットを下ろして、籾倉が笑った。六道もそれにつられて笑って、追撃をかました。


「はい、その方がいいと思います。トスバッティングもいいですけど、実戦的じゃないですからね!」

「お前が投げるんなら六道も球を受けられるし、お前の投球練習にもなる、俺の打撃練習にもなる。いいじゃないか。やらねえのか?」


 二人に見つめられて、国森は思わず一歩後ろへ下がろうとしたが、サードベースに足を取られて転びかかった。たたらをふんで持ちこたえたところで、彼は唾をのむ。


「くそ、うるせえな。やらねえよ! 俺を巻き込むんじゃねえよ」


 そう捨て台詞を吐いて、元の位置に戻って寝なおそうとする。国森は六道の誘いを断った時のように、逃げようとしていた。だが六道はこれを逃がさなかった。


「そんなこと言わずに、やりましょうよ。フォークが上手だって聞いてますよ!」

「あん?」


 思わず振り返った。

 確かに国森は高校、大学と投手でやってきていて、フォークが決め球だった。ストッパーとしてリリーフを任されたこともあり、ここぞというところではフォークを使ってきたのだ。そんなことまで、この捕手は知っているらしい。


「フォーク? お前、スライダーじゃないのか」


 フォークのことを籾倉は知らなかったようだ。というのも、大学までは通用したフォークがプロ相手となるとまるで切れ味を失ってしまったからだ。そこからは二番目に得意だったスライダーを練習し、スプリットなど他の球種も練習した。だが、付け焼刃の変化球が通用するほど甘くもなく、なんとかスライダーで食らいついたというのが国森の投手歴だ。そして、そのスライダーさえも攻略されつつあり、現在は完全に腐っているというわけである。


「ちっ、そんなことよく知ってるな。くそ」


 国森は自分の右手を見た。ここへは文句をつけに来ただけのはずだったが、なぜかグラブはしっかり持っている。


(一球だけ投げてやるか。見て驚け、プロに通用しなかったといったってな。こないだまでサボってたやつや、高校三年生に打てるようなタマじゃねえんだ、俺のフォークは)


 グラブをはめて、球をよこすように要求した。


「なんだよ、やる気かよ」


 籾倉が投げた球を軽く受け止め、国森はマウンドに向かう。

 軽く肩を回し、ボールの感触をグラブの中で確かめる。そうしている間に、籾倉はバッターボックスに立ち、六道はマスクをつけてホームベースの後ろに座り込んだ。


「おい、ロジンくらい持ってこいよ」

「そんなもんピッチャーが用意するもんだろ」


 まあよかろう、と国森は思った。ロジンくらいなくとも俺のフォークのキレは変わらない、と信じた。それにロジンバッグを取りに行くことがもう、手間だったのだ。さっさと投げて籾倉を唖然とさせてやる、という気持ちしかない。


「リードはいらんよ、どうせ捕れねえからな」


 六道がサインを出しているのをみて、国森は首を振る。高校生に捕れてたまるものか、という自負もある。


「わかりました。どこに投げても大丈夫ですよ」

「ファウルカップはしてるだろうな。潰れても知らないからな!」

「平気です!」


 その声を聞き届けて、国森はプレートに足をかけた。

 渾身の一投を振りかぶり、力強く投げた。いかに最近さぼって過ごしていたといえども、中学時代からプロ入りまで投げ続けたフォークを忘れるはずもない。体に染みついた、しかしプロには通じなかったフォーク。

 あの頃と同じフォークが放たれた。鋭い回転、急激に落ちるボール、これを籾倉は見送った。六道はミットをほとんど地面にこすりつけるようにして捕球。


「かなり低いな。外れただろ」


 籾倉は平然とそう言った。


「外れましたね。落差はよかったですが、低すぎました」


 六道まで大して驚きもしておらず、立ち上がってボールを投げ返してくる。国森はボールを受け取りながら、動揺をなんとか悟られまいと努めた。


(俺の渾身のフォークを見て、その程度なのか?)


 ショックを受けてはいるが、それがバレると「この程度のフォークでイキってたのかよ」と言われかねないので、どうにか平然としているように振る舞う必要があった。


「おい、国森。こっちはまだリハビリの途中なんだぜ。遠慮しないで投げてこい」

「なんだと?」


 遠慮しているなどと思われているのでは、たまらなかった。いや、ただの挑発なのかどうか、国森には判断できなかった。どちらにしても、なめられていては困る。国森は戦力外通告間近だと思っているが、それでも同じサボリ組や高校生に下に見られるのは我慢ならなかった。


「こっちが久々のフォークで様子を見てやってたら図に乗りやがって。見てろ!」


 当然、次の球はスライダーだった。これはある程度プロにも通用した変化球で、長年決め球にしてきたフォークから乗り換えたものだ。これが処理されるようでは、もはや国森はプロで通じないから帰れと言われても仕方がない。

 六道はサインを出しているが、国森は「サインなんかいらねえよ、俺の好きに投げさせろ!」と拒否。別に今は試合でもなんでもないので、六道も笑って「わかりました」と答えた。


「ノーサインか。大丈夫か? いや、お前の方がな」


 打席の籾倉はバットを下ろして、六道を見つめた。明らかに、怪我を心配している目だった。


「平気ですよ。ちゃんと受けますから」

「ならいいけど」


 のんきに会話をされて、国森はカッとなってボールを握りこんだ。

 打てるもんなら打ってみろ! とばかりに足を振り上げる。思い切り投げた。少しも準備運動のない肩で。

 それでも、プロになってからずっと鍛え続けた変化球、必殺技だった。籾倉なんかに打たれるものか、という気持ちは乗っていたはずだ。鋭く湾曲し、スライダーは打者の意識から逃げるように回転していった。

 籾倉は動じず、狙いを定めていたかのようにバットをフルスイング。スライダーが抜ける先をまるで知っているように、フルパワーで叩き返した。

 打球が国森の右側の空間を飛び、ドッと外野あたりの土をえぐった。


「なっ」


 信じられなかった。国森のスライダーはあっけなく打たれた。


「国森、俺が何回お前のスライダーを見たと思ってんだよ。毎回同じところに投げてっから、まるわかりよ」


 さわやかにニッコリと笑って、籾倉は国森に向かって舌を出した。


「フォークもスライダーもこの程度じゃお里が知れるな。六道、こいつはだめだ。練習にもなりゃしねえよ」

「なんだと!」


 思わずそう言ったものの、所詮は終わった選手。それ以上は続かなかった。フォークはプロに通用しなかった。スライダーはまさに攻略されつつあり、不調の籾倉にすら簡単に打たれた。それは事実であり、何を言い訳しようとも覆らない。

 結局、国森は舌打ちをして元の場所に戻ろうとする。が、脳裏に先ほどの打球が思い出されて、もうそこにはいけない。

 自分が怪我をするから戻らないのか、それとも練習の邪魔になるから戻らないのか。国森にもそれはわからないが、とにかく元の場所で眠ることはできなかった。

 仕方なく彼はダグアウトに歩く。かつてそこは、籾倉の定位置だった。今度は国森が使っても、文句は言われまいと思ったのだ。

 しかし予想に反し、二軍監督の上坂はベンチに腰掛けようとした国森に近寄ってきて、「見てたぞ」と笑いかけてきた。怒られるのかと思った国森は少し驚きながら、愛想笑いを浮かべるしかない。

 上坂はニヤリと笑った。


「フォークもスライダーもこの程度、か。言われっぱなしじゃないか、ええ」

「仕方ありません」


 誤魔化すように言って、先ほどの投球を反芻する。フォークは見抜かれ、スライダーは打たれた。どちらも今の国森にとってはベストの投球だったはずだ。

 なぜなのかと思案してみればすぐに答えは出た。もともと籾倉は一軍で活躍していたスーパールーキーだったから、プロ一軍の球は見慣れている。六道は全球団注目の超大型新人である黒坂とバッテリーを組んでいたのである。国森程度の球はかえって大したことがなかったように見えた疑いすらある。

 単純に、過去にしがみついて放ったフォークは、実力不足。少し前の栄光ともいえない日々の相棒だったスライダーはマンネリだったというわけだ。あの二人は国森と違うのだ。少し練習をしたくらいでは、追いつけやしない。そして今から取り戻す分の練習と研鑽を積むには、すでに国森は歳をとりすぎていた。あっという間に、三十路をすぎる。そうなればもう若い力に打ち勝つことはできないだろう。脳裏に引退がちらついてくる。

 たったさっきまで、「そのうち戦力外通告になるだろう」とのんきに構えていたはずだが、「やっぱりもう俺の力は通用しないのか。じゃあおさらばだな」という具合にはとても割り切れなかった。


「通用しなくてもいいんじゃないのか、国森」

「はぁ?」


 思わず顔を上げると、上坂二軍監督がじっとこちらを見つめていた。


「まだ投げたいんじゃないのか、ちがうか? ここは天六コーギーズなんだぞ、それも二軍だ。最下位チームなんだ。周りを見て見ろ、あいつら二人以外に誰かキャッチボールの一つもしてるか? 素振りの一つもしてるか?」


 言われて見回してみるが、籾倉と六道以外には誰一人練習をしていなかった。寝転がっているか、遊んでいるかだ。


「むろんこのままでいいわけもないが、現状をどうにかしようと藻掻いているやつは、ここにいる価値があるだろう。二軍は調整のための場所でもあるんだからな。どうだ、せっかくならあきらめちまったフォークをもう一回磨いてみるってのは」

「監督、もう俺はやめてくれって言われるまではゴロゴロしてるつもりでいたのに」

「それは容認できんな。だが今はどうなんだ」


 国森は何も答えられなかった。自分でもどうしたいかわからなかったからだ。


「やる気を出しさえすれば、一軍も知っての通りボロボロだから、案外昇格もあるかもしれんしな」

「俺の球なんか打たれるだけでしょ、敗戦処理も務まるかわからないと思いますよ」

「打たれるだけか。ならどうだ、打撃投手でもやってみるか。あいつら喜ぶぞ」

「もう引退させる気ですか? 監督も人が悪いですね」


 冗談か本気かわからない上坂の言葉に、国森はなぜだか涙がにじんでくるのを誤魔化そうと、汗を拭くふりをした。


「けど、できれば今シーズンだけは」

「なんだ、今すぐ引退は嫌なのか」


 国森は答えなかった。

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