第8話 王子、清掃の儀に挑む
朝食を終え、シャワーを浴びた麦が、湯呑みに残った生温いお茶をすする。まだ少しぼんやりとした頭で、今日は休日だが特にやることもないので、仕事でもするかと立ち上がったときだった。
――がたん。
キッチンの隅から、異音。続いて、押入れの奥からゴソゴソと探しものをする気配。麦がそっと覗くと、そこには、両腕にゴム手袋をはめ、腰に雑巾を差し込んだアルフレッドの姿があった。
「なにしてるの……?」
「愚民、活力を得た今、余はこの“城”の衛生を確保する使命に立った」
「えぇ……」
彼の背後には、雑誌のページを切りとった紙が数枚、台所の壁にマスキングテープで貼られていた。《快適な暮らしを保つ!朝10分の掃除ルーティン》《クイックルワイパーの極意》《排水溝のぬめり撃退法》など、やけに実用的な文字列が並ぶ。
麦は頭を抱えた。
「……もしかして、昨晩あの雑誌、全部読んだ?」
「愚民よ。“夜学”というものを侮るな。余は夜を徹して、王の責務を学んだのだ」
彼は胸を張って言った。誇らしげというより、なぜかちょっと必死に見える。
そして、麦の視線を感じ取った彼は、マイクロファイバーを握りしめた。
「共に掃除をしよう、愚民」
「えっ……いやいやいや、私これから仕事しよっかなって……」
「愚民の城に住まう以上、余が片付けるだけでは本末転倒だ。城主としての自覚を持て」
「その理屈で押し切ろうとしてるの、やめてくれない……?そんでもって、ただのボロ2DKだから……」
結局、麦はコロコロを手渡され、半ば押し切られる形で掃除をすることになった。
───
午前十時、高円寺の小さな2DKは、王子との家事戦線の渦中にあった。
「そっちは、洗面所の鏡を拭くのだ! 柔らかな布で一直線にだ!おい、 拭き筋が汚いぞ!」
「ホコリ上から降ってくる! 掃除の基本は上から下に、だ!」
「磨きが甘い!“ぬめり”という魔物は、こうして再び蘇るのだ!」
アルフレッドは、まるで訓練中の騎士を叱る教官のように、麦の掃除ぶりに目を光らせていた。
「うえーん、 お風呂の排水口とか、人生で一番嫌いな場所なんだけど……!」
「愚民、覚悟を決めよ! 魔窟を浄化するには、勇気と根性が必要だ!」
「うるっさいなあもう!」
麦は口では文句を言いつつも、手は止めなかった。嫌だけど、こんなところをアルフレッドに掃除させるのはさすがに気が引ける。排水口に手を突っ込み、歯を食いしばりながら髪の毛を取り除く。排水溝の形状を手探りしながら、えいやっと分解していく。もしかすると、この家に越してきてから初めて掃除したかもしれない……。
アルフレッドもまた真剣な表情で、キッチンの換気扇に挑んでいた。
脚立の上からネジを外し、パーツをひとつひとつ下ろしては、洗剤を吹きかけ、歯ブラシでゴシゴシと擦る。
動きはぎこちない。でも一生懸命。
(あいつ、マジで……一晩で全部覚えたの?)
麦は驚きと同時に、汗を滲ませながら懸命に掃除し続けるアルフレッドが、いつもより輝いて見えた。
───
昼下がり。掃除を終えた2DKの部屋は、あきらかに空気が違っていた。部屋にはうっすらレモンの香りの余韻が残り、洗面台の鏡はくもり一つなく光を反射していた。
麦はソファにへたり込み、力なくつぶやいた。
「……疲れた……もう動けない……」
「愚民、よくやった。余が褒美に麦茶を淹れてやろう」
「いや、私が淹れるから、休んで……」
「いや、余がやるのだ」
そう言って、アルフレッドはぎこちない手つきで冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。注ぎ口が逆についていたのは、ご愛嬌。
彼は麦の隣に腰を下ろすと、雑巾を絞るようにぎゅっと背伸びをした。
「ふぅ……これが“庶民の暮らし”か。想像より数倍、過酷だ。だが、気分がいいな」
麦は隣の彼を見つめる。王子らしくない、けれどどこまでも真面目で、融通がきかなくて、でも優しくて。
ちょっとだけ、肩が触れた。
「……ありがとね、アル君」
小さくそう言うと、アルフレッドはふん、と鼻を鳴らした。
君付けで呼んだことには気にも留めていないようだった。
「感謝するがよい、愚民」
その声には、どこか照れくさそうな響きが混じっていた。




