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第27話 さようなら、王子

ピクニックの翌日。

その日は夕方から激しい雨が窓を叩いていた。遠くで雷鳴も聞こえる。

高円寺の狭い部屋。台所からはカレーの香りが立ち上り、アルフレッドは鍋の火を弱めてエプロンを外した。


「……そろそろ迎えに行かねば」

天気は荒れている。

傘が役に立たないほどびしょ濡れになってしまうだろう。カッパとレインシューズも持っていくか?

そんなことを思いながら玄関に向かった、その瞬間だった。


轟音とともに、稲光が空を裂く。

目の前に、眩い光の環が浮かび上がった。


「……っ!」

息を呑む暇もなく、その環の中心から伸びてきたのは、逞しい男の腕だった。

力強く、逃れることなど許さぬ握力で、アルフレッドの腕を掴む。


「ま、待て――!」

抗う声も空しく、身体は光に呑まれていく。

狭い部屋も、雨音も、カレーの匂いも、一瞬で遠ざかった。


次に目を開けた時――。


そこは明るい光に満ちた玉座の間だった。

靴下のまま、フカフカの赤い絨毯の上に居る。

自分の腕を掴んだまま、目の前にいるのは第一王子クロード。

彼の隣には、目に涙を浮かべる華奢な女性――見知らぬ顔。恐らく、ゲームの“ヒロイン”とやらだろう。

さらに奥には、国王である父と母。

懐かしくもあり、同時にどこか遠い存在。


「アルフレッド!」

「よくぞ……!」


祝福の声が四方から降り注ぐ。

涙ぐむ母、安堵する王、クシャクシャの笑顔の兄。

自分の帰還を、皆が喜んでいる。


――なのに。


胸の奥に広がるのは、喜びではなく、ひどい空虚感だった。

心はまだあの古びた2DKに居て、カレーの香りさえ、鼻腔に残っている。


(……もう、会えないのか)


呟きは心の中で霧散した。

雷鳴よりも重い沈黙が、アルフレッドの胸に降り積もっていく。


そして、ふと脳裏をよぎったのは――激しい雨の中、一人で駅から帰る麦の姿だった。

濡れた髪を振り乱しながら、ヒールをぱしゃぱしゃと鳴らし、いつもの重いカバンを抱えて。

折りたたみ傘を持たせたが、あんなに激しい雨では役に立たないだろう。


(……麦は、無事に帰れるだろうか)


久しぶりに再会した家族にクシャクシャに抱きしめられ、国王や母の呼び声が耳に届くが、胸を占めるのはその思いだけだった。



――――――



麦はスマホの画面を何度も見つめた。

既読がつかない。いつもなら「駅に着いたぞ」と、ちょっと堅苦しい文面で必ず連絡をくれるはずなのに。

今日は雨もひどい。なのに、メッセージすら返ってこない。


(……何かあった?)

胸がざわつく。


強い風の前では無力な折り畳み傘は、役に立たないまま裏返り、ずぶ濡れで帰宅するころには、体も心も冷え切っていた。


玄関を開けると――。

部屋にはカレーの匂いが充満している。

鍋の蓋はきちんと閉じられていて、テーブルには二人分のスプーンと皿が並べられていた。


けれど、そこに彼の姿はなかった。


部屋の隅から隅まで目を凝らす。

ベッドの下、机の引き出し、冷蔵庫の中、ベランダ、トイレ……。

下駄箱には彼の靴が並んでいる。外に出たわけではなさそうだ。

「アル君!」

呼びかけても返事はない。

静まり返った部屋に、自分の息遣いだけが響く。


「……嘘、でしょ」


麦はその場に崩れ落ちた。

覚悟は――できていた。彼は元の世界に戻る。

頭ではわかっていたのに。

あまりに突然で、あまりに唐突で、現実は容赦なく麦を打ちのめした。


床に落ちていたのは、彼のマント。

這いつくばるようにして、それにすがりつき、顔を埋めた。

冷たい。でも太陽のように暖かい彼の匂いがする。

なんて愛おしいのだろう。

でも、もう二度と会えない。

堰を切ったように涙がボロボロと溢れ、子どものように大泣きした。

誰も見ていない、もうどうでもいいと、声をあげて泣いた。

嗚咽で胸を詰まらせ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。苦しい。胸が痛い。


どれくらい泣いたのだろう。

時計の針は進んでいた。

雨に濡れた身体も、ほとんど乾いていた。

そのとき、腹の虫が鳴いた。


「……っ、なんでこうなの……」

こんなときにもお腹が空くなんて。自分が情けなくて、さらに涙が込み上げてきた。


ティッシュが無くなってしまったので換えを持ってこようと立ち上がったとき、テーブルの端にノートが置かれていることに気づいた。


それは、アルフレッドがこの部屋に来たときに、麦が彼にこの世界で体験したことの感想を書き留めてもらおうと渡したものだった。

元はゲームのシナリオのアイデアになればと思っていたが、彼は日記のようにせっせと書き留め、ノート自体隠していたので、まだ一度も見たことがなかった。


一瞬開くのを戸惑ったが、ノートを開く。

ページをめくると、几帳面そうな整然とした文字が並んでいる。

最初の方のページは、この世界に戸惑う気持ちが綴られていた。

やがて、節約レシピや「コンビニの卵サンドは美味」といった実用的(?)な記録も。

涙は止まらないが、思わず笑ってしまう。


そして――あるページで指が止まった。


「これを読んでいるということは、余がこの世界から去ったか、もしくは行儀悪く余のノートを盗み見ているということだろう。」


その後には、麦と過ごした日々のこと、楽しかった思い出、そして拙いけれど真心のこもった感謝が並んでいた。

末尾には、大きな字でこう記されていた。


「栄養バランスを考えて、毎日しっかり食べること!」


そこだけ、下線が引かれ、強調されている。


涙は止まらない。

けれど、体は自然と動いた。

鍋のカレーを焦がさないように慎重に温め、ご飯と一緒によそい、スプーンを持つ。


大粒の涙と一緒に口へ運ぶ。

しょっぱい。辛い。苦しい。だけど、美味しい。


彼がいなくても、一人で大丈夫。

そう言ったことを思い出した。

「大丈夫……私は、大丈夫……」

自分に言い聞かせるように呟く。


ハフハフと大口で食べながら、涙が次々に頬を伝って落ちる。

不思議とほんの少し、力が湧いていた。



食べ終わると、ご飯を小分けにラップし、カレーもジップロックに小分けし、冷凍庫に入れる。

大丈夫。やっていける。

アルフレッドと過ごした日々を思い出しながらも、自分の生活を守るための小さな一歩だった。



―――――




翌朝。

泣きはらした目をアイシャドウで誤魔化し、どうにか出勤した麦。

オフィスでは、鬼のように厳しいことで有名な上司・佐藤が、なぜかそっとコーヒーを差し出してきた。

さらにデスクにさりげなく菓子まで置かれる。


「……どうしたんですか?」

「いや、なんとなくだ。……お前、疲れてるだろ」


普段なら考えられない態度に、麦は不気味に思うが、礼を言いありがたく受け取った。


もらった菓子を食べながら、デスクでぼんやりと考える。

(そういえば……最後まで、“好き”って言えなかったな)


胸の奥がちくりと痛む。

自分の臆病さを、呪わずにはいられなかった。

次回で完結です!

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