第26話 二人の気持ち
電車を乗り継ぎ、大きな公園に着くと、木々が茂り、遠くで子どもたちの声や犬の吠える声が風に乗って届く。
二人は公園内を少し歩き、コーヒースタンドでホットコーヒーをテイクアウトした。
そして芝生広場の丘状に少し盛り上がったところにシートを広げ、二人は腰を下ろす。
眼前には池が広がり、亀たちが気持ちよさそうに日向ぼっこをしているのが見える。
「……うん、平和で良いな」
「だね。もうお腹すいたでしょ? おべんと食べよっか」
麦は少し笑い、弁当箱の蓋を開ける。中には卵焼き、ウインナー、トマト、ブロッコリー、おにぎりが詰まっていた。
黄色い卵焼きを見たアルフレッドはハッとした顔をする。
「……卵焼きじゃないか。大丈夫なのか?」
「うん。……アルフレッドにも食べてほしくって。お母さん直伝のレシピなんだよ」
麦の声は少し強張る。
「……そうか。ではいただこう」
アルフレッドは神妙な顔で、黙って卵焼きを箸でつまむ。
「……甘い。しかし、なぜか懐かしいような味だな?」
むぐむぐと食べながら、アルフレッドは麦に優しく笑いかける。
「うん、美味い」
「口にあったようで良かった。久しぶりに作ったからドキドキだったよ」
麦は口元に手を当て、ほっと息をつく。
過去の痛みも、今の自分も、全部詰め込んだつもりだった。
今度は自分の番。
平気な顔で卵焼きを食べて見せて、もう母親とのことは克服できた、卵焼きだって食べられるようになった、アルフレッドが気に病む問題は何もない、そう言うのだ。
やってみせる、と箸を握りなおしたところで、アルフレッドが呼びかけてくる。
「……むぎ」
「なに?」
「……余の考えすぎかもしれないが、今日、ここに来たのは、もしや余のためか?」
麦は一瞬言葉を考え、深呼吸をする。心臓の奥が強く打つ。
「……うん、アル君に伝えたいことがあってね」
「伝える……?」
麦は一番きれいな笑顔を作る。
女優になりきったつもりで一世一代の演技をする。ぶれるな。やりきるのだ。
「うん。……アル君、もう元の世界に帰って大丈夫だよ。私は一人でも大丈夫だから、お兄さんのクロード王子の手を取って帰っていいんだよ……っていうのを伝えたかったんだ」
アルフレッドの心臓が早鐘を打つ。
美しく凛と微笑む麦、落葉が揺蕩う水面の煌めき、それらに反比例するように、彼の心はサーッと色を失う。
――麦にだけは、言われたくない言葉だった。
一人でも大丈夫だ、お前は帰ってもいい、その言葉は彼の心臓を冷たい刃で突き刺すように響いた。
「むぎ……なぜそのようなことを……?」
声は掠れ、彼自身のものとは思えないほど頼りなかった。
アルフレッドの碧い瞳が、大きく揺れ、ああ綺麗だな、と場違いにも麦は思う。
震える手を膝の上で握り締め、必死に笑顔を保つ。
「……ずっと、言えなかったんだ。アル君が私のために残ろうとしてくれてるの、嬉しかったよ。でも、それは違うんだ。本当は……」
――軽蔑されてもいい。嫌われたっていい。彼が幸せになれるならなんてことない。
「……アル君がここにいる理由は、私の問題を解決するためじゃないの」
麦の声は少し震えていた。けれど、その瞳には決意があった。
「あなたは……クロード王子のルートの中にいるの。乙女ゲームのシナリオの物語の一部に……クロード王子が迎えに来たってことは、もう物語は終盤なの」
アルフレッドの喉がひゅっと鳴る。空気が肺に刺さる。
「……何?」
「アル君が元の世界に帰れる条件は、私じゃない。クロード王子が成長すること。彼が、自分の使命に目覚めて、ヒロインや仲間と協力して、アル君、あなたを取り戻すこと……それが、物語のゴールなの。……だから」
麦は口を噤み、苦しそうに目を伏せる。
「だから……私の問題がどうこうじゃないんだよ。ごめん……ずっと、黙ってた」
アルフレッドの脳裏に、破片のように思考が散った。
――嘘をつかれていた。
――己の存在は、ただの「筋書き」の一部。
――そして、すでに決められた「別れ」が待っている。
「そうか、兄上が……。余がどうこうしようが、関係なかったのか……」
握った拳に爪が食い込み、じわりと掌に痛みが広がった。
胸が焼けるように熱い。怒りか、悲しみか、自分でもわからない。
彼女に騙されていた衝撃よりも――別れが避けられないという事実の方が、何倍も彼を打ちのめした。
「……余は……そなたのために残ろうと……そう思っていた……」
絞り出した声は風にさらわれるほど頼りない。
麦の肩が小さく震えた。彼女は唇を噛みしめ、どうしても顔を上げられなかった。
目の前の女性が自分を縛っていたのではない。――自分が勝手に縛られたかったのだ。
王国を背負う者でありながら、重責を放り出し、ただ一人の女性と暮らしたいと願ってしまう己の弱さ。
だが同時に、その願いを抑えられぬほど強く惹かれてしまっている現実。
その事実が、どうしようもないほどに情けなく、そして苦しかった。
喉の奥が焼けつき、言葉がせり上がる。
「……麦」
声は震え、掠れていた。
「余は……そなたを失うのが、怖い」
麦の肩がびくりと揺れる。
「余は……王子として、背負うべき務めを知っておる。王国も民も、余が捨て去るわけにはいかぬ。兄上を支えていくべき……そのはずだ」
自ら言いながら、その声は苦悶に満ちていた。
「されど……余は、一人の男でもある。使命も筋書きも、どうでもよいと思ってしまう。――麦が隣におらぬ未来など、考えられん」
胸の奥に押し込めてきた叫びが、ついに堰を切ったようにあふれ出す。
「……麦を失うのが怖い。麦と……共に生きたい」
震える唇が、ようやく言葉を結ぶ。
「……どうしたって、麦のことが好きなんだ」
麦の瞳が大きく見開かれる。
ずっと聞きたかった言葉のはずなのに、今は喜びよりも困惑が上回る。
「そなたの問題が解決すれば、余は元の世界に戻ると思っていた……だから余は、いっそ麦が問題を抱えたままでいればよい、とさえ考えたこともあった。卑しいだろう? 余は王子のくせに……そんな我が身の醜さに気づきながら、それでも……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
胸の奥からせり上がるのは、己への嫌悪か、それともどうしようもない恋慕か。
「……それでも、今は違う。ただ、余は麦のそばにいたい。理由も使命も要らぬ。ただ好きだから。……麦を支えたい。そばにいて、麦の心の痛みを、少しでも癒したい」
その言葉は、王族としての威厳でも、使命感でもなかった。
ひとりの青年としての、真っ直ぐな祈りに近かった。
麦の胸は激しく揺れた。
でも――彼女は首を横に振る。
「……アル君、それは違うの」
先ほどまでの震える声と違い、凛と芯のある響きだった。
「私の心の痛みは、私一人のもの。これから何度も辛いことや悲しいことはあると思う。お母さんを失った日の痛みも……。でもこれは誰かに癒してもらうものじゃない。私が自分で向き合っていくものなの」
麦は彼の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「アル君がいなくなったらすごく寂しいよ。でも……アル君がいなくても、私はやっていける。そうでなきゃいけないの」
胸が引き裂かれるような痛みを抱えながら、それでも彼女は力強く微笑んだ。
「知ってる? 麦って強い植物なんだよ。色んな環境に適応できて、厳しい寒さにも耐えて、何度も踏まれてもへこたれなくて、踏まれるたびに強くなるの。……お母さんが、麦みたいに強い子になるようにって名前をつけてくれたんだ。――だから私は、麦みたいに強くありたい」
アルフレッドは言葉を失った。
声も、息も、ただその場に縫いつけられるように止まっていた。
彼女を解き放つその微笑みが、自分の存在を拒絶する刃のように思えたから。
――それでも、彼女を美しいと思ってしまう自分が、何よりも苦しかった。
アルフレッドは芝生に沈む影を見つめながら、拳を握りしめたまま動けずにいた。胸の奥で熱く渦巻く感情――愛しさ、恐怖、焦燥――それらが入り混じり、頭の中で整理がつかない。
(……余は、どうすべきなのだろう……?)
芝生に座る麦を見下ろしながら、アルフレッドの胸は締めつけられるように痛んだ。麦は強い。自分がいなくてもやっていけると言う。でも、これまで見てきた彼女の姿が脳裏をよぎる。荒れた暮らしに疲れ果てた姿、健太に追い回されて怯える姿、不安げに父の入院の知らせに震える顔、そして母を想って泣くあの姿。
言葉では「大丈夫」と言えるかもしれない。しかし、どうしてもその強さを完全には信じられなかった。心配で、たまらなかった。
(それに……余は、ただそばにいたいだけなのだ……だが、王子としての重責から逃れるわけにも……)
アルフレッドは拳を握り、芝生に落ちた葉を見つめた。心の中で秤にかける。麦の幸せと、自分の使命。どちらも切り離せない。
「……それでも余は、麦が心配だ。王子としての責から逃れるべきではないが、麦のそばに居た――」
その言葉を遮るように、麦は突然叫んだ。
「あーもう! いつまでもウジウジしてないで、さっさと帰りなさい! 王子なんでしょ!? だったら私のためじゃなくて、国のために生きるの!」
アルフレッドはその強い口調に一瞬たじろいだ。
「ウジウジだと!?」
「もういい! 本当は今日ここで卵焼きを克服したところを見せて、『お母さんのことも、もう大丈夫だよ』って言おうと思ってたけど、もう全部やめた!」
「い、今何と!?」
「お母さんのことはまだ全然乗り越えられてないし、アル君がいなくなったら超寂しいし、王子の責務なんか捨てて、ここで一緒に暮らしていけたらいいのにって本当は思ってるよ!」
アルフレッドはその告白に、胸の奥が熱く、痛くなった。しかし、そこに混じる感情の中で、一つの確かな光が差し込む。
「でも、アルフレッド、あなたは”そうありたくない”でしょ!?」
核心を突かれた。麦の言葉は、胸の奥に眠っていた理性を揺さぶる。
「あなたは人一倍責任感が強くて、国民のことを誰よりも考えて、自分の役割を果たす人。でも、それに少し疲れちゃったんでしょ。だから迷いが出た」
言い当てられ、アルフレッドは言葉を失う。麦は続ける。
「それでもあなたは、責務から逃げ出すような自分にはなりたくないんでしょ。わかるよ。ずっと一緒にいたんだもん。――私はアルフレッドの"そういうところ"に惹かれたんだよ」
その瞬間、アルフレッドの胸の奥で何かが弾ける。
――そうだ、余は王子としての責務を放り出す人間ではない。民を思い、国を思うその心こそが、麦が惹かれた部分なのだ。
(……自分自身が誇りに思えて、麦に好いてもらえる自分でありたい)
深く息を吐き、アルフレッドは麦に跪いた。芝生に広がる光景も、風に揺れる麦の髪も、すべてが愛おしい。――だがもう終わりにするのだ。
「……麦」
声は静かに、しかし確固たる意志を帯びていた。
「ウジウジと悩む姿を見せてすまなかった。……余は、帰る。王子としての責務を全うする。それが余の生き方だ。改めて気づかせてくれて、感謝する」
そう言うと右手を差し出した。
麦もその手を握り返す。大きく、暖かく、力強い手だった。
麦はしばらく沈黙したまま、じっと彼を見つめる。ああ、彼との暮らしももう終わりだ。虚脱感に襲われるが、これは彼の門出なのだ。微笑みは消さない。
「わかった。いつまでも応援してるよ。……それに、来れるなら、いつでも遊びに来ていいからね」
アルフレッドは頷き、ゆっくりと背筋を伸ばす。胸に芽生えた決意を確かめるよう
(……いつか、余の選んだ道で、再び麦に会える日がくるだろうか……)
アルフレッドの瞳には、決意と、そして切なさが混じり合って光っていた。
――――――――――
帰りの電車の揺れに身を任せながら、アルフレッドは窓の外をぼんやり眺めていた。
「……まったく、どうしてこんなシナリオを書いたんだ」
アルフレッドの声は低く、ぶつけるような響きがある。
麦は肩をすくめ、窓の外をちらりと見て答える。
「ほんとにね……クソ上司に言ってやりたい」
「……ああ、佐藤とやらか。鞭打ちの刑に値する」
アルフレッドがつぶやくと、麦もにやっと笑う。
「物騒だなー。でも止めないよ」
アルフレッドは眉をひそめて苦笑する。
「第一、余が主人公でない話があるとは聞いていないぞ。初めて出会った日、徹夜で修正したのは余が主人公だったろう」
「あー、私がメインで担当してるのはアルフレッドルートだからね」
「余以外を主人公にするとは、酔狂だな」
アルフレッドはメインヒーローではなく、攻略対象の一人にすぎないのだが、それは秘密にすることにした。
「……それにしても麦、余がいなくなったら、一人で泣いたりするんじゃないだろうな?」
そんなことまで心配され、麦はぷっと吹き出す。
「泣くのはアル君の方じゃないの~? さっきまで、散々私と一緒にいたい~ってうだうだ言ってたじゃん」
「無礼な! ……決めた、余は絶対に泣かないからな! 麦なんて、余が居なくなったら寂しさで咽び泣けばいい!」
麦はわざとらしく顔をしかめ、口をとがらせる。
「はいはい、いじっぱりなんだからもう」
二人は吹き出し、電車の揺れに合わせて肩を揺らす。
残された時間はあとどれくらいなのか、知る由もない。
――でも今は、この時間が愛おしくて、永遠に続けばいいと二人は思っていた。
それでも無慈悲に別れの時は訪れるのだった。




