第25話 麦、決意する
麦は、胸の奥が焼けつくように痛んでいた。
アルフレッドが「残る」と言ってくれることは、本来なら喜ばしいはずだった。
けれど、その言葉の根底にあるのは誤解だと知っているからこそ、彼女の心臓は鉛のように重く沈んでいく。
(違う……違うんだよ、アル君。私の問題なんか、あなたが解決しなくてもいい。だってこれは――私自身が、自分で向き合わなきゃいけないことなんだから)
喉元まで出かかったその言葉を、どうしても飲み込んでしまう。
それを告げてしまえば、アルフレッドはきっと、すぐにクロードの差し伸べた手を取ってしまうだろう。
この世界に呼び出された意味が消え、彼は本来の「筋書き」へと帰っていく。
それを阻むことは、ただのわがままだとわかっている。
けれど――。
(……私はまだ、アル君にいてほしい。もうすぐ別れが来るって、わかってるのに。わかってるからこそ、今この瞬間だけでも、もう少しだけ……)
彼の存在が、どれほど自分を支えてくれていたか。
日々のちょっとうるさい小言も、しつこいくらい細やかな気配りも、くだらない言い合いも――全て手放したくないほど愛おしい。
その温かさを失うことを思うだけで、胸の奥が空洞になる。
あの日、孤独で腐っていた自分を支えてくれたのは、彼だった。
(もし、アル君がいなくなったら……私はまた、あの頃の私に戻ってしまうんだろうか?)
不安が、喉を締めつける。
――彼の瞳は真っ直ぐで、揺るぎない決意を帯びていた。
「使命」という言葉に隠されていても、そこには確かに彼自身の想いがにじんでいるように見えた。
彼は自分のために残ろうとしてくれている。その事実が、嬉しくて、苦しくて、罪悪感でどうしようもなく胸を掻き乱す。
(ありがとう。でも、違うんだよ。あなたはもう帰れるのに……帰らなきゃいけないのに……私のせいでこの世界に来てしまった上に、元の世界に戻ることも迷わせている。私の弱さが、あなたを縛っている)
唇が震え、言葉は出てこなかった。
本当のことを言えば、きっと彼を解放できる。
でも同時に、自分が一番恐れている「別れ」が訪れる。
その残酷な二択の狭間で、麦はただ俯くしかなかった。
――――――
週末の朝。
窓から差し込む光は初夏の爽やかな空気が感じられるようだ。
高円寺の小さなアパートの台所で、麦はまな板に向かっていた。
包丁の先には、黄色い卵焼き。母の作ってくれた卵焼きの記憶だけが、いつまでも生々しく残っている。
端っこを箸でひと切れつまみ、一瞬のためらいの後、口に入れた。
——やはり味は感じない。
あの時の、母が亡くなった日、涙も出ないまま病室で卵焼きを食べたときの、どうしようもなく恐ろしくて、絶望して、虚脱感に襲われたあの時の気持ちが思い返される。
大切な人が目の前からいなくなる恐怖は、いまだ克服できていない。
きっと一生克服できないだろう。
それでも麦は、アルフレッドの輝かしい未来を邪魔する存在にはなりたくなかった。
麦は小さく息をつき、弁当箱の隅に卵焼きをそっと収めた。ウインナー、冷凍のから揚げ、彩りのためのトマト、ブロッコリー。
それから、この黄色い小さな四角。
おにぎりを何個か握りアルミホイルで包むと弁当箱、保冷剤と一緒に保冷バッグに入れる。
背中に声が落ちてきた。
「むぎ……何をしておる」
「わっ!」
思わず手を滑らせそうになる。振り返ると、アルフレッドが寝癖の残る髪をかきあげ、まだ眠そうな顔で立っていた。白いTシャツとスウェットパンツ。異世界の王子だということを忘れるほど、すっかり板についている。
「朝からガタガタと、何かの騒ぎかと思った」
「ご、ごめんね。起こすつもりはなかったんだけど」
「……弁当を作っていたのか? 仕事は今日休みだろう?」
「うん。今日はね、外に出ようと思って」
彼の金色の瞳が、不思議そうに細められる。
「出かけるのか?」
「うん。ピクニック」
「……わざわざ外で食べる必要があるのか」
「あるの! 大事なのは雰囲気だから」
言いながら、麦は笑顔を作った。自然に見えるように。——胸の奥に隠した本当の目的を悟らせないように。
「ふん、よかろう。付き合ってやろう」
麦の目的にはまったく気づかず、アルフレッドは無意識のうちに口の端が上がった。
――――――
麦は弁当を手に、玄関のドアを開ける。外の空気は爽やかで、柔らかい日差しが肌を撫でる。通りの木々が風に揺れ、葉のざわめき、人々の朝の営みが小さな音楽のように耳に届く。アルフレッドはその光景を一瞥し、わずかに微笑む。
「……この街は、いつも賑やかでよいな」
「うん、一人でも寂しくなくて、いい街だよ」
麦は自然に振る舞うよう努めながら、胸の奥で緊張を押さえる。言葉では隠せない、焦る気持ちが波のように広がる。
アルフレッドが、元の世界に帰る決断をできずにいることを知っている。
他でもなく自分のために。
その罪悪感が、胸を締め付ける。
二人は歩きながら、自然と肩が触れそうになる距離で並ぶ。
アルフレッドは麦に歩幅を合わせ、街の景色を楽しんでいる。
麦はその手元に視線を落としながら、静かに息を吐く。
(アル君……私のためにここにいてくれるのに、本当は帰らなくちゃいけないのに……それなのに、どうしてこうも温かいの?)
麦の心臓は高鳴り、胸の奥が熱く焼けるようだ。歩くたびに、彼の存在が自分の体温まで押し上げるような感覚があった。
ああ、どうしようもなく彼のことが好きだ。
「……むぎ」
アルフレッドの声が低く響く。振り返ると、彼の瞳が少し揺れていた。麦は瞬間、言葉に詰まる。彼の迷いを感じ取るたび、胸がぎゅっと締め付けられる。
「な、何?」
「大丈夫か? なんだか元気がないように見える」
「えー? 早起きしたせいかな! 元気元気!」
麦は誤魔化しながら、自分の目的を心の中で確認する。
——今日こそ、彼に真実を伝える。
——彼を解放するためには、自分が強くならなければいけない。




