第24話 王子、決意する
アルフレッドは胸の奥がざわついて仕方がなかった。
クロードが“迎えに来た”。
元の世界に戻れるという希望が見えた、ということだ。
――だが、余は麦の問題を解決するために呼ばれたのではないのか?
――麦の問題は、まだ解決できていないのに、戻ってよいのだろうか?
そう自分に問いを投げても、答えは出てこない。
――――――
夕食後のことだった。
麦が食器をテーブルに残したまま、リビングのソファに腰を下ろしたとき――
「……麦」
低く抑えた声に、麦は振り向いた。
キッチンに立つアルフレッドの眉間には皺が寄っている。
「食べ終わったらすぐ片づけぬのか? いつも余が言わねばならぬのは、いささか……」
彼の声音は鋭く、まるで剣先のようだった。
麦は思わず瞬きをしてから、困惑混じりに返す。
「え……ごめん、後でやろうと思ってただけで……」
「後回しにしたら、茶碗についた米粒が乾いて落としにくくなるだろう! 食べたらすぐに水につけろと、何度いったら分かるのだ」
「やるよ……」
「テーブルにも汁物が零れた跡がつきっぱなしだ! すぐに拭かぬから乾いてしまっているじゃないか!」
「ごめん……」
「余が掃除にどれだけ時間を割くか、少しは考えろ!」
「わかったってば……!」
「わかったわかったと、いつも口ばかりではないか!」
アルフレッドは苛立ちを抑えきれず、皿を洗いながらも、ガチャガチャバシャバシャといささか乱暴な音をたて、眉間の皺がさらに深まる。
――クロード兄上が迎えに来ている。
――でも余はまだ、麦の問題を解決していない。
その矛盾が胸の内で渦巻き、苛立ちとなって麦にぶつかる。
「だいたい麦はだらしなさすぎるんだ!」
麦は、普段もネチネチ小言を言われることはあれど、ここまでの言われようは初めてのことだった。
いつものアルフレッドは、食器を傷つけぬように優しく、水も洗剤も無駄遣いせぬよう、丁寧に洗うのに関わらず、乱暴な様子は普段の彼らしくない。
胸の奥に、ちりっとした不安が広がった。
「アル君……どうしたの?」
問いかけると、アルフレッドは口をつぐみ、食器を片づける手を止めた。
「……なんでもない」
「なんでもないなら良いけど、何かイライラしてるんじゃない? 大丈夫?」
「イライラさせているのは麦、お前が……いや」
麦の言葉でヒートアップしそうになったが、そこで彼の口は止まった。
しばしの沈黙のあと、苦しげに吐き出す。
「余は……余は、麦が怠けるのを放置できぬのだ。茶碗一つ、汚れ一つであっても、改善せぬなら……余の心配は増すばかりだ!」
麦は息をのむ。
「アル君……本当にどうしたの?」
アルフレッドは口をつぐむ。手は皿を持ちながらも小刻みに震え、指先で水の跳ねる音が微かにリズムを刻む。
――帰れる、いや、帰ってはいけない。
まだ解決していない、麦の問題がここにある。
それに見ろ、麦は一人でなんかやっていけない。自分がこうして見ていなくては。
――そうだ、だから自分はまだ、帰らなくてもよいはずだ。
自分に言い聞かせるように、心の中で逡巡する。
でもそれは、クロード兄上を支えて国を守っていかねばならないのに、己の責務から逃れ、麦と共にこの世界で暮らすことを正当化したいだけなのだ。
実際のところ、聡明な彼はとっくにそのことに気づいていた。
洗い物をする手を止める。
どう言えばよいのか、口に出すのを迷いながらも、麦に打ち明ける。
「……昨夜、またあの光の環が現れた。クロード兄上と会話もできた。環を通れば元の世界に戻れると、手を差し伸べられた」
麦の心臓が跳ねた。
その名前――クロード王子。麦がシナリオに書いた、ゲームの“本来の主人公”。
彼が成長し、王として自覚を持ち、仲間と共にアルフレッドを探し出し、元の世界に連れ戻す……その展開を、麦は知っていた。
(……手を差し伸べるところまで、ストーリーが進んでいるんだ……)
心拍数が上がり、息が詰まる。
ストーリーはもう終盤を迎えている。
(もうすぐ――アルフレッドは自分の前からいなくなる)
胸の奥が鋭く痛む。
「……そう、なんだ」
麦はかろうじて声を絞り出したが、喉は乾いて震えていた。
アルフレッドは、そんな麦の様子をまじまじと見つめ、何かを決意したような顔になる。
そして、自身にも言い聞かせるように、低く声を絞る。
「兄上の導きに従い、元の世界に戻るべきか考えていた。だが今決めた。余はまだ帰らぬ」
「……え?」
「余はこの世界で、麦の問題を解決するために呼ばれたのだと、そう信じておる。
まだここにいるということは、解決すべき問題が残っているということだろう」
麦の目が大きく揺れる。
(違う……アル君の帰還と、私の問題は関係ない……)
そう叫びたいのに、口が動かない。
真実を告げてしまえば、と思うが何も言えない。
アルフレッドは一歩踏み出し、まっすぐに見下ろした。
「クロード兄上が、迎えに来ようとも、余の使命はここにある。だから余はまだここに残る。……だからそんな顔をするな」
彼の声音は硬く、必死だった。
けれどその奥に潜むのは「使命感」だけではない。
彼自身も気づいている。理屈ではない個人的な想い――彼女と共に生きたい、という切実な願いに。
「……使命って……」麦は迷いのある声で遮ろうとするが、アルフレッドは続ける。
「余には、この世界に留まる理由がある」
その目はまっすぐで、自分に言い聞かせているようだった。
麦はどうにか声を絞り出す。
「……そっか……ありがとう」
言葉が続かず、視線を落とす。心臓は締めつけられるように痛んだ。
麦はその気持ちを受け止めるほどに胸が痛んだ。
(違うのに……アル君の帰還と、私の問題は関係ないのに……)
真実を言えば、彼を解放できるのかもしれない。
けれど、そうすれば彼はすぐにでも物語の筋書き通りに去ってしまうだろう。
だから――そのことを彼に伝えることはできなかった。




