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第21話 王子、昨夜のことは…

障子の隙間から差し込む朝の光が、布団の上に細い筋を描いていた。

鳥の声が遠くで響き、どこか清らかで爽やかな朝。……のはずだった。


しかし部屋の中には、奇妙なほど重たい沈黙が漂っていた。


麦は布団の中で、うつぶせになりながら薄目を開ける。

(……全然寝られなかった……)


夜中、何度も寝返りを打った。そのたびに隣の布団がガサリと音を立て、互いに気まずそうに動きを止める。結局、ふたりとも朝まで一睡もできなかったのだ。


「……」

「……」


アルフレッドの方を見やると、同時に目が合った。

慌てて視線を逸らす。


麦は頭まで布団をかぶり、蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「お、おはよう……」

「……おはよう、だ」


声もやけに硬い。

アルフレッドは上半身を起こし、わざとらしく窓の外へ視線を投げた。


「良い天気だな」

「うん……」

「……」

「……」


また沈黙。耐えきれなくなった麦が布団から顔を出し、ぼさぼさの髪をかきあげながら言った。

「ね、ねえ。昨日のこと……」

「忘れろ!」


アルフレッドの即答に、麦は口をぱくぱくさせた。

「わ、忘れろ!?」

「余は……その……昨夜は酔っておった。あれは一時の錯乱だ!そういうことにしておけ!」

「錯乱て……!」


(なにそれ、そのせいで眠れなかったのに!)

麦は心の中で憤慨した。


アルフレッドは腕を組み、必死に冷静を装っているが、目の下にはしっかりとクマができていた。

「余は王族である。淑女に不埒な態度を取るなど……断じて、あってはならぬことだ。今後ああいったことは控えるように!」

「控えるようにって……抱きしめてきたのはアルフレッドじゃん」

「ぐっ……!」


図星を突かれ、言葉に詰まる。耳まで真っ赤に染まり、唇をかみしめて横を向く。


「とにかく今日は村の撮影だ! さっさと支度するぞ!」

いつも通りの傲慢な態度で誤魔化した。



――――――



朝食を済ませたふたりは、旅館の玄関で村の観光協会の担当者と落ち合った。

「今日はよろしくお願いします!」と、快活に挨拶してきたのは三十代ほどの青年職員。

麦は愛想よく頭を下げる一方で、アルフレッドは相変わらず威厳たっぷりの姿で笑顔は見せない。


「よろしく頼む」

「はい! ……あれ、もしかして昨日はあまり眠れませんでしたか? お二人ともなんだかお疲れですか?」

「「いえ、よく眠れました!」」

「あ、そうでしたか。失礼しました……。それではさっそく撮影場所を案内させていただきます」

二人の勢いに気おされ、職員は少したじろいだ。


案内されながら、ふたりは小さな村を歩いた。

澄んだ空気。木造の家々。道端では地元のおばあちゃんが漬物を干している。

山に囲まれた谷間の村は、どこか昔話の絵本の中に迷い込んだようだった。


その風景を眺めるアルフレッドの立ち姿が様になっていたので、メインの撮影場所ではないが麦はカメラを構える。

アルフレッドはカメラに気づき、姿勢を正す。

「……あの山は豊かな水を生み出し、村の稲作を支えておる。清らかな水が米を育て、そして……」

言葉が妙に堂々としていて、職員の青年が「おお……」と感心してしまう。


(やっぱりこういうとき、王子なんだよなあ)

麦はカメラを構えながら、胸の奥がじんわり熱くなる。

昨夜、限界だと顔を真っ赤にしていた彼と、こうして堂々と人前に立つ彼。そのギャップに心臓がもたない。



昼前、ふたりは村の小さな市場を紹介することになった。

野菜や果物が所狭しと並び、買い物客も売り子ものんびりとしており、活気はそれほどない。

麦は思わず目を輝かせた。

「わあ!見て、トマトがめっちゃ安い!」

「む……本当だな。高円寺のスーパーの半額以下ではないか」

アルフレッドも即座に値札を確認し、眉をひそめる。


「やはり市場で買うのが一番だ」

「……アルフレッドって、王子のくせにすっごい倹約家だよね」

「王子であることと、金銭感覚に甘えることは別だ!」


そこへ店のおばちゃんが割って入った。

「あらあら、お兄ちゃん外人さん? 随分とハンサムだねえ。お芋食べてみる?出来立てだよ」

差し出されたのはつまようじが刺さった熱々の大学芋。


アルフレッドは一口かじり、目を見開いた。

「……うまい!」

「わあ、ほんとだ!」麦も口にして笑顔になる。

「ご婦人、これはどのようにして作るのか、レシピを教えてもらえないだろうか」

「う~ん、本当は企業秘密だけど、おばちゃんイケメンには弱いのよ。メモに書いてあげるからちょっと待ってね」

「恩に着る」


おばちゃんがメモにレシピを書いてくれている間、アルフレッドと麦は何品か買うものを決める。


「はい、丁度1200円ね」

ずっしりと新鮮な野菜と、大学芋のレシピメモをアルフレッドが恭しく受け取る。


おばちゃんはにこにこと笑う。

「今日は夫婦で旅行?」

「い、いやっ違――!」

「そ、そんなんじゃなくて!」


ふたり同時に否定し、顔を真っ赤にする。

おばちゃんはクスクス笑いながら「まあまあ、仲良く食べてね」と二人を見送った。


市場を離れたあと、麦はぷいっと横を向く。

「……夫婦って」

「不敬だな」

「いや、別に不敬じゃないでしょ!」

「む……」

アルフレッドはくすぐったいような気持ちで落ち着かなかったが、それ以上否定できず、歩幅をやけに大きくしてごまかした。




午後は村の神社や、棚田の夕景を撮影する。

黄金色に染まる稲穂を背景に立つアルフレッドは、やはり絵になった。

カメラ越しにその姿を見ていると、麦の心臓はまた速くなる。


「……なんだ。そんなにじっと見るな」

「え、いや、その……カメラの確認だから!」

「ふん。どうだか」


彼は照れ隠しにそっぽを向く。

自分の容姿には自信がある。

人々からじっと見つめられることには慣れている。不快に感じることもあるが、いやがおうにも人々の耳目を集めてしまうほど、己の容姿が優れていることも自覚しているため、許容して、なんとも思わないようにしていた。

だが麦に見られていると、嬉しい反面、なぜか落ち着かなかった。



――――――



「2日間、お疲れさまでした! 編集の方が終わりましたら、データの方はメールにて共有いただけると幸いです!」

「こちらこそありがとう。素晴らしい村での滞在、心が癒された。案内感謝する」


撮影を終えて、新幹線駅まで職員に送ってもらい、車両に乗り込む。


「……楽しかったね」麦がぽつりとつぶやく。

「余もだ。村の者たちの素朴な笑顔……治世が行き届いており、皆幸せそうだった」

「ね。なんか……ここで暮らすのもいいかもね」


冗談めかして言ったつもりだったのに、アルフレッドは真剣な顔になった。

「……そうだな」



窓の外では村の山々が遠ざかり、次第に都会の景色へと変わっていく。

乗車から一時間も経つと、旅の疲れがどっと押し寄せた。


麦はシートにもたれ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

(なんか……疲れたな。でも楽しかった……。でも……)

思い出すのは昨夜の庭。あの、指先をそっと触れ合わせた瞬間。

あのあと、アルフレッドが真っ赤になって「もう勘弁してくれ」と顔をそむけた姿。


胸がぎゅっと締め付けられる。

「……」

言葉にできない気持ちが渦巻いていると、不意に横から声がした。


「……昨夜のことだが」

麦はビクリと肩を震わせた。

「えっ……」

「余は……その……」アルフレッドはしばし言葉を探し、硬い声で続けた。「……婚約もしていない女子に対し、あのように感情を乱してしまったのは、不本意であった」

「……」

「いや、違う。……不本意ではない。だが……己の未熟さが恥ずかしい。麦、君を困らせてはならぬと思っている」


その言葉に、麦は喉が詰まったようになった。

「……困ってなんか、ないよ」

「本当か」

「うん」


アルフレッドが横を向く。その横顔は、いつものように凛としているのに、どこか不安げで。

麦の胸はさらにドキドキして、心臓が破裂しそうだった。


「……なら良い」

アルフレッドはそう言うと、満足気な顔で前を向いた。


麦は、昨夜の気まずさも、今の真剣さも、すべて受け止めるには気持ちが追いつかないまま、旅の疲れと揺れるリズムが重なり、まぶたがどんどん重くなる。


「……むぎ?」

アルフレッドの声が聞こえたけれど、もう応えることができなかった。

コトン、と麦の頭が彼の肩に預けられる。


アルフレッドは一瞬硬直し、息をのんだ。

「……やれやれ」

小さくため息をつきながらも、彼の表情はどこか優しく緩んでいた。

「余を枕替わりにするとは、不敬だな……」


車窓を流れる景色を眺めながら、アルフレッドは肩に重みを感じ続けた。

昨夜も今も、どうしようもなく心をかき乱される。


だが同時に、この時間がずっと続けばいいと、強く願わずにはいられなかった。



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