第20話 王子、温泉いこ!
そのメールを見つけたのは、ある平日の夜だった。
夕飯を食べ終え、いつものように食器を片付け、アルフレッドはテーブルに置かれた古いスマートフォンを開いた。SNSでのインプレッションを確認していたところ、一通の依頼メールが目にとまった。
「……観光協会?」
怪訝な声を漏らした彼に、麦が顔を上げる。
「どうしたの?」
「ふむ……遠方の村から、余に来てほしいとある。温泉宿に宿泊して、旅の記録を発信してほしいそうだ」
「えっ、温泉!?」
麦の声が一気に明るく跳ねた。彼女は椅子から身を乗り出し、キラキラした瞳で画面を覗き込む。
「アルフレッド、行こうよ!こんな機会滅多にないって!」
「……ふむ。しかし、余は……」
アルフレッドは言葉を濁した。自分は王子であり、元の世界では政治や軍事の中心にいた人間だ。そんな自分が異国で観光の宣伝をするなど——。
だが依頼文を読めば、報酬も宿泊費も十分。
倹約家の彼にとって、その条件は悪くない。
なにより——麦が心底楽しみにしているのが、ひと目でわかった。
子供のように輝く笑顔。旅行という言葉に胸を弾ませるその姿。
その一瞬で、アルフレッドの中のためらいは霧散していた。
「仕方あるまい。受けてやるとしよう」
アルフレッドが依頼を受けると宣言した瞬間、麦は思わず両手を突き上げた。
「やったーーっ!アルフレッド最高!温泉だ温泉!」
麦は思わず椅子の背から転げ落ちそうになるほどの勢いで立ち上がった。
キラキラした瞳で嬉しそうに笑う姿を見て、アルフレッドは胸の奥がくすぐったくなる。
「……ふん。余が最高なのは当然だ。ただ、合理的な判断を下しただけだ」
わざと澄ました顔で言う彼だが、耳の先までほんのり赤い。
「あー! 褒められて照れてる!」
「なっ!? ば、馬鹿を言うな!」
完全に図星を突かれ、王子らしからぬ狼狽っぷりでむせる。
麦はそれが面白いのと旅行へのワクワクで笑顔になるのを抑えられない。
その姿を見たアルフレッドは、麦には聞こえない声で「……この笑顔が、余の弱点だ」ボソリと呟いた。
―――――――――――
週末。
新幹線と特急を乗り継ぎ、二人は山間の温泉地へ向かった。
窓の外に広がる景色は、都会の高層ビルから、次第に田畑や川、そして深い緑の山々へと移り変わっていく。
「すごい……山が近いね」
麦が頬を窓に寄せて、夢中で外を見つめる。
アルフレッドも視線を追い、しばし無言になった。
山裾に咲く黄色い花、瓦屋根の古い家、流れる小川にかかる小さな橋。
その光景が、彼の胸に懐かしさを呼び覚ました。
「……どこか、故郷を思い出す」
「えっ、そうなの?」
「似ている。しかし……家屋も、木々の形も、少し違う。異なる土地だと、改めて思い知らされる」
その言葉には、寂しさと安らぎが混じっていた。
麦は横顔を見つめながら、胸がきゅうっと締めつけられるのを感じた。
(アルフレッド、帰っちゃうんだよね……いつかは)
でも口には出さない。ただ、今を楽しもうと決めて、窓の外を指差した。
「見て!川だよ。きれい!」
「おお……透き通っているな。魚も見える」
彼が子供のように身を乗り出した瞬間、麦の心は少しだけ救われた。
――――――
宿に着くと、静かな山間の空気が二人を迎えた。木々の緑は濃く、柔らかな日差しが障子を通して畳に射し込む。小さな川のせせらぎ、鳥の声、風に揺れる葉のざわめき……都会の喧騒とはまるで別世界だった。
二人は和室に案内された。
畳の香りがふわりと漂い、障子越しの柔らかな光が部屋を包む。
「……落ち着くな」
アルフレッドは目を細め、畳に座る。普段、彼が生活している部屋も畳ではあるが、窓から見える景色は薄汚れた雑居ビルばかり。
こうして自然に囲まれた空間は、彼の心を少しずつ解きほぐしていった。
観光協会の担当者との挨拶を済ませ、あらかじめ撮影の段取りはメッセージで聞いていたが、改めて撮影すべき場所の案内を受け、撮影内容のすり合わせを行った。
村の観光地の撮影は明日がメイン、今日は温泉宿の撮影を行うこととなった。
PR動画を撮影するため、浴衣に着替える段になって、彼は苦戦した。
「む……この布を、どう結ぶのだ」
「えー、簡単だよ。ほら、帯貸して」
麦が背中に回り込むと、アルフレッドの体温が近すぎて呼吸が詰まる。
指先が彼の逞しい腹筋にかすめた瞬間、心臓が跳ねた。
(だめだだめだ……ただの着付け!ただの……!)
「……っ」
アルフレッドの喉がわずかに鳴った。
(近い……! これは……耐えねば……!)
「はい完成!」
真顔のまま「よし、これで戦える」と呟いて、「浴衣で戦いに行こうとしない!」と麦に笑われた。
館内や庭、廊下を撮影しながら観光PRの仕事を進めていく。
風呂の時間。
「余は部屋の風呂を使う」
「えー、大浴場の方が広いのに」
「裸を他人に晒すなど耐えられん」
アルフレッドの頑固さを知っているため、無理強いはしなかった。
それに部屋についている内風呂は二人が入っても十分な広さがあり、気持ちよさそうだった。
麦が大浴場へ向かうと、彼は内風呂の扉を閉めた。
湯に手を入れると、ほのかに硫黄の香りが鼻をくすぐる。温かさが全身を包み込み、初めての温泉とやらに、緊張していた心もほどけていった。
二人は別々の場所で湯に浸かりながらも、同じ時間を共有していることを無言のうちに意識していた。
夕食は食事用の別部屋に通された。
豪華な会席料理が並べられる。湯気を立てる小鍋、艶やかな刺身、山菜の天ぷら。
初めて見る料理に、初めて見る盛り付け。
段取りを確認しつつ、食事中にも撮影を続ける。
アルフレッドは最初こそ慎重だったが、一口食べるごとに表情を明るくしていった。
「……美味い! 家に帰ったら作ってやろう!」
「それ最高すぎる!」
「まかせろ。余にとっては造作もない」
こんなサクサクな天ぷらを本当に家で作れるのかと思ったが、この世界に来てからというもの、アルフレッドの料理の腕はメキメキと上がり続けている。
彼にカメラを向けながら、麦は思う。
きっとそのうち美味しい天ぷらも作れるようになるかもしれない。でも元の世界に帰るのとどちらが先になるんだろうという疑問が浮かび、少しだけ気持ちが沈んだ。
そうして無事に初日分の撮影は終了した。
部屋に戻ると、畳の上には布団が二組、仲良く並んで敷かれていた。
「わっ……」
「なっ……!」
麦は分かっていたものの並べられた布団を見て赤面する。
「な、なななぜ並べる必要がある!?」
「旅館はだいたいこうなの!常識なの!」
「常識!? この国の常識は乱れておる!」
「いや乱れてないから!」
「は、破廉恥極まりない! 余はこんなこと許さぬぞ!!!」
狼狽した彼の声が旅館の廊下に漏れそうで、思わず口を塞ぎ、余計に近くなって心臓が暴れ出し、すぐ跳ねるように離れる。
アルフレッドはほとんど憤怒に近い表情で真っ赤になり、勢いよく布団を部屋の端まで引きずっていった。
そんなひと悶着もありつつ、二人は部屋の端に追いやられた布団を横目に、売店で買った日本酒を飲みかわす。
2合を飲み干し、水を買おうと二人はほろ酔いで部屋の外へ出た。
ふと廊下の窓から外を見ると、夜空に星が輝いていることに気づき、庭に出て散歩することに。
夜の庭はしんと静まりかえっていた。
虫の声が遠くで響き、池の水面には月が揺れている。頬に当たる夜風が、ほのかに酔いの熱を冷ましてくれる。
「……ふぅ。高円寺とはまるで空気が違うな」
アルフレッドは深く息を吸い込み、わずかに目を細めた。浴衣の袖口からのぞく手が、まだ赤みを帯びているのは、酒と風呂と、それから――彼の内心のせいだろう。
麦は歩調を合わせながらも、ちらちらと横顔を盗み見ていた。月明かりの下のアルフレッドは、昼間よりも大人びて見えて、胸がざわつく。
(なんで、こんなにカッコよく見えるんだろ……。いや、もともとカッコいいけど!でも、今はなんか反則じゃない?)
気づけば指先が彼の手のすぐ近くをふらふらと泳いでいた。
(……ちょっとだけなら。お酒のせいってことにすれば……)
麦は小さく深呼吸して、恐る恐る、彼の指先に自分の指を触れさせた。ほんの一瞬。けれど。
「――っ!」
アルフレッドの肩がびくりと揺れた。振り返ると、耳の先まで真っ赤になっている。
「な、なにをしている!」
声は怒っているようで、震えていた。
「ダメ……?」
麦は指をそっと絡めた。抵抗されるかと思った。
けれどアルフレッドは、ぎゅっと唇を噛みしめ、真っ赤な顔のまま動かない。
(わ……握り返してこないけど、振り払わない……)
その沈黙がかえって鼓動を早め、麦は足の裏から胸まで熱くなるのを感じた。
しばらく二人は指を絡めたまま、庭を歩いた。月の下、しんとした夜に、心臓の音だけが大きく響いている気がする。
……だが。
「――だ、だめだっ!」
突然アルフレッドが立ち止まり、ばっと手を放した。
「婚約前の女性が……そのように破廉恥な真似をするものではない! もうここまでだ!」
鼻息荒く距離をとる。顔は真っ赤。
「な、なによ! 破廉恥破廉恥って! 女の子に対して失礼じゃない!?」
「破廉恥だ! 父上にも合わせる顔がなくなる!」
「お父さんなんか関係ないじゃん! 私は、私は……」
さっきまで受け入れられているように感じていたのに、急に突き放してくるものだから、麦はムキになって言い返そうとするが、恥ずかしさで涙が滲みかける。
酒のをせいか、いやアルフレッドの前だからかもしれないが、感情の制御が効かない。
アルフレッドのことをギロッと正面から睨みつける。
顔は片手で覆っているが、首筋から耳まで真っ赤なのが丸見えだった。
「私のこと、嫌い?」
「嫌っているように見えるか!? そんなわけないだろう!」
「手を繋がれたのがよっぽど嫌だったんじゃなきゃ、そんな反応しないでしょ!?」
「嫌だったわけじゃないんだ……ただ、余は、婚約もしていない女性の手に触れるなど、そのようなこと……」
「"そのようなこと"する女は嫌い?」
ほとんど半泣きの麦が問う。
次の瞬間、彼女の視界が暗くなる。
何が起きたか分からなかったのは一瞬。
後頭部に彼の手が置かれ、上半身全体が彼の腕で抱きしめられていた。
胸板におでこが触れる。
熱い。
ドクンドクンとどちらのか分からないほど大きな鼓動が聞こえる。
そしてすぐに両肩を掴まれて離された。
「余だって、男なのだ……だから、"そのようなこと"をされたら、我慢できないのだ……頼むから、もう勘弁してくれ……!」
両肩を掴まれたまま、苦しそうに顔をそむけ、震える声で吐き出す。
麦は硬直したまま見上げた。怒っているのではない。拒んでいるのでもない。
ただ必死に、自分を抑えているのだとわかった。
麦も真っ赤な顔で、ただただコクンと頷いた。
その夜。
同じ部屋の中、離れた布団に横たわりながら、二人は互いに背を向けて眠れずにいた。
瞼を閉じても、己の心臓の鼓動が大きく響く。
お互いの呼吸が聞こえてしまう夜の静けさが、余計に二人の距離を意識させた。
——結局、二人は一睡もできないまま、朝を迎えることとなった。




