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第19話 二人、秘密を抱えて

アルフレッドが「帰る時が近い」と悟ったのは、ほんの数日前のことだった。


夜更け、麦が隣の部屋でパソコンに向かっている音を子守唄代わりに、布団に横たわっていた時だ。うとうとと意識が沈み込む直前――目の前に、ふっと黄金色の光が差し込んだ。


それは儚くも確かな、光の環。

次いで、遠くから水底を伝うような声が届いた。


「アルフレッド……」


兄の声だった。クロード王子の、張り裂けるように切実な呼びかけ。

アルフレッドは手を伸ばした。だがそこには何もない。暗い天井と、冷蔵庫の低いうなり声だけ。


これまで見えたどの光の環よりも近く、はっきりとしていた。

帰る時が近い―――

そう直感するには、十分な鮮烈さだった。


それから数日、同じ現象が何度も繰り返された。昼下がりに麦と商店街を歩いている時、夜に台所で味噌汁をかき混ぜている時、あるいは寝入り端。光の環はほんの一瞬、だが確実に現れ、耳には兄の声が届く。


(……余を呼んでいる。兄上が。帰還の時が近いのだ)


悟った瞬間、胸が重く沈んだ。

元の世界に戻れる安堵ではなかった。むしろ、胸を締め付けるのは別の感情――この世界に残していくものがあまりに大きい、という痛みだった。


その晩、彼は麦に打ち明ける決意をした。


リビングでは、麦がマグカップを両手で抱え、ぼんやりテレビを眺めていた。ニュースキャスターが淡々と天気予報を読み上げる中、アルフレッドは姿勢を正し、彼女に向き直る。


「……麦」

「ん?」


彼女は振り返り、ぱちぱちと瞬きをする。その無防備な眼差しに、一瞬言葉をためらった。だが、逃げるわけにはいかない。


「余は……帰る時が近いのかもしれぬ」


カップが小さく揺れ、縁にまで波が立った。

「え……」


「ここ数日、光の環が幾度となく現れるのだ。その環の中から兄上の声も聞こえる。余を呼ぶ声だ。……間違いなく、帰還が近い」


麦は硬直したように動かなかった。唇がわずかに震え、やがて小さく開く。

「……そう、なんだ」


掠れる声。カップを持つ手が、力なく下がっていく。


アルフレッドは眉を寄せた。

思わず彼女に手を伸ばしたい衝動を抑え、言葉を選ぶ。

「麦。……そんな顔をするな。君は一人でも十分やっていけるはずだ」


麦は慌てたように首を振った。

「ちがう、そうじゃなくて……」


言葉を探すように、彼女は視線を泳がせる。胸の奥には、どうしても言えない秘密が重くのしかかっていた。


――クロード王子ルート。


自分が書いたシナリオでは、クロードが人間的に成長すればアルフレッドは元の世界に戻る。

もし打ち明ければ、アルフレッドに責められるかもしれない。「なぜそんな筋書きを作った」と。

今まで黙っていたことも軽蔑されるだろう。

あるいは突き放されるかもしれない。

嫌われる。二度と笑いかけてもらえなくなる。


そう思うと、恐ろしくて声が出なかった。



――――――――――――――



夜、アルフレッドは一人考えていた。


これまで自分は、麦の抱える問題をいくつも解決してきた。

――この世界で解決すべき最後の問題は、麦の心の傷。

母を亡くし、未だに癒えぬ哀しみを抱える彼女。その痛みを和らげてやることこそ、最後の使命だと。


(だが、それを成せば……余は元の世界に戻ってしまうのだろう)


想像するだけで胸が暗く沈んだ。


――いっそ、解決しなければいい。

その思いが脳裏をかすめた瞬間、背筋を冷たいものが走った。


(なにを考えている……麦の悲しみを癒してあげたい、これは間違いなく本心だ。それに余は第二王子だぞ。国に尽くす使命があるはずだ。兄上や臣下が、余を待っているはずだ)


必死にそう叱咤する。

だが同時にもう一つの声が囁く。


――それでもいいではないか。

――この小さな部屋で、麦と暮らす日々こそが、余の求めた自由なのではないか。


その囁きは甘く、抗いがたかった。


初めてこの世界に来た時の混乱。異質な街並み、人々の軽装、ネオンの看板。

台所で米を研ぐ自分の後ろをうろつく姿。

渋々掃除をする姿。

「卵のタイムセールに急ぐぞ!」と彼女の腕を引っ張り、商店街を駆けた夕暮れ。

無遠慮な軽口をたたき、ふざけて笑う横顔。

「おいしい!」と目を輝かせて自分の料理を頬張る姿。

健太を怖がり泣きじゃくる姿。

嬉し泣きする姿。


笑顔も涙も、全部が鮮明に焼きついている。


女性に興味を持ったことなどなかった。

第二王子として、恋など無駄だと切り捨ててきた。感情に溺れることは責務の妨げになると信じていた。


だが今、自分は毎日、麦を見ればいとおしく思い、触れたい、抱きしめたいと願っている。


(……余は、恋をしているのか)


驚きと共に、その事実を否定できなかった。


国を背負うと誓った自分が、ここではただ一人の女性に心を奪われている。

その愚かさも、甘美さも、すべてを受け入れてしまう。


「……余は、ここにいたい。麦と共に、この日常を生きたい」


小さく口の中で呟いた言葉は、彼自身の胸を震わせた。


その時、また兄の声が遠くから響く。

「アルフレッド……戻ってこい……」


アルフレッドは目を閉じ、耳を塞ぐように布団を握りしめた。


――余は帰りたくない。


彼の視線は隣室の明かりに向いた。扉の隙間から漏れる灯りの下で、まだ麦が何かを打ち込んでいる気配がする。

そのひたむきな横顔を思い浮かべただけで、胸の奥が熱く、痛いほどに満たされた。


――どうか、問題など解決しないでほしい。

――どうか、余がここにいられるように。


だがその願いは、王子としての自分も、麦のことも裏切る。

絶対に誰にも言えない。


「……余は、どうすべきなのだ」


天井を見つめながら吐き出した声は、誰に届くこともなく消え、熱い涙が一筋こぼれ落ちた。



――――――――――――



隣の部屋では、麦が深夜までパソコンに向かっていた。

彼女は心の中で必死に言い聞かせていた。


――絶対に言えない。

――私の問題なんて関係なくて、クロードの成長がアルフレッドを帰す条件だなんて。


もし知られれば、彼は自分を恨むだろう。

だから黙るしかない。



襖越し、互いの秘密を抱えたまま、二人は長い夜を過ごしていた。



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