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第18話 父、退院する

朝、窓からは初夏の強い日差しが差し込んでいて、真っ白なカーテンを透かして室内に淡い光を満たしていた。麦はその光に目を細めながら、夜が明けたことをただぼんやりと確認する。


結局、一睡もできなかった。昨晩は実家の畳に布団を敷いて眠るはずだったのに、父のことを思うと胸がざわざわして、何度も寝返りを打つばかりだった。母を亡くしてからずっと、父は一人で頑張ってきた。けれど年齢には抗えない。昨日、あんなふうに病室のベッドで横たわっていた姿を思い出すと、もう二度と同じことが起きてほしくないと祈らずにはいられなかった。


病院へ向かう道のりは、やけにまぶしい。埼玉の住宅街の夏は、コンクリートの照り返しが強烈だ。空気が重く、蝉の鳴き声が耳を埋める。その中で、アルフレッドが当然のように隣を歩いている。長身に映える白いシャツをさらりと着こなし、日傘を麦の頭上に差し出す。


「王子に傘を持たせるのは、いささか失礼ではないか」


そう冗談を口にしながら、彼は最後まで麦に傘を持たせようとしなかった。結局、アルフレッドの肩が陽を浴びて熱を帯びているのを見て、麦は胸の奥がじんわり温かくなる。何も言わなくても支えてくれる存在がいる。それがどれだけ心強いか、改めて思い知らされる。



――――――



病室のドアを開けると、父がそこにいた。ベッドの上に腰をかけ、老眼鏡をかけて新聞を広げている。昨日まで点滴に繋がれていた人とは思えない姿に、麦はほっとした。


「お父さん!」


「おう、麦。おはよう」


父――星野茂は、新聞をたたみ、いつもの柔らかな笑顔を向けた。頬に疲れの色はあるが、声は元気そのものだった。


「もう……心配したんだから」


わざと拗ねるように言って、泣きそうな声を隠す。父は「すまんな」と頭をかき、いつもの調子で笑った。


「大したことじゃないさ。医者も過労だって言ってたろ。今日で退院だ」


「ほんとに大丈夫?」


「ああ、大丈夫だ。心配すんな」


その言葉に救われるようで、逆に不安になる。白い病室にいる父の背中は、少し小さくなったように見えた。


午前中の手続きは淡々と進む。薬の説明を受け、支払いを済ませ、着替えを終えた父は、すっかり普段の姿に戻った。けれど麦の胸のざわつきは消えない。病院を出るとき、父が「久しぶりの外泊も悪くなかったよ」と呟いた声に、麦は強く唇をかんだ。


(やっぱり、一人にはできない。お父さんを、もう一人にしてはいけない)


実家で暮らす父を思うと、不安が膨らんでいく。母が亡くなってから十年、父はずっと一人で家を守ってきた。強がって笑っているけれど、どれだけ寂しかっただろう。昨日のことを思えば、もし次があったら――そんな想像だけで体が冷えていく。


だから。


「お父さん……」


病院の近くのベンチで荷物を整理しながら、麦は勇気を振り絞った。


「私、仕事やめて……お父さんと一緒に暮らそっかな」


父の顔色が変わった。にこやかだった表情がきゅっと引き締まり、声が低くなる。


「……何を言ってるんだ、麦」


その迫力に息をのむ。普段は温厚な父が、本気で怒っている。


「だって、一人暮らしは心配だし……また倒れたらどうするの」


「お前、自分の夢を犠牲にしてまで俺の面倒を見るつもりか? そんなこと、絶対に許さん!」


「でも……でも、お父さん一人じゃ……」


声が震える。涙がにじむ。


「麦」父の目は真剣だった。「お前が好きなことをやって、生き生きと暮らす。それが俺の夢なんだ。俺のために犠牲になるなんて、俺の夢を壊すことになる!」


返す言葉が見つからない。喉の奥に熱いものが詰まる。


そのとき。


「――ちょっと待てよ」

ベンチのそばの植え込みから声がした。振り向くと、兄・勇太が立っていた。


「兄ちゃん……!」

「麦、お前なに一人で暴走してんだよ」


勇太はため息をつき、父の隣に腰を下ろした。


「麦。実はな、俺……結婚するんだ」

「えっ……!」

「それで、父さんと隣同士で住めるマンションを探してたんだ。ちょうどいいところが見つかった。父さん一人で一軒家に住むのは大変だから、実家は売るつもりだ」


麦は呆然とした。


「いつの間に……そんな話……」

「父さんと二人で相談してた。お前に心配かけたくなくてな」

父が頷く。

「そういうことだ。だから麦は麦の道を歩け。俺のことは心配いらん」


胸の奥で固く握りしめていた不安がほどけていく。代わりに、強い決意が芽生える。


(私、絶対にゲームを成功させる。プレイヤーに幸せを届けて、お父さんとお兄ちゃんに胸を張って報告できるように)


そう心に誓った。



――――――



兄の車で駅まで送ってもらい、別れ際、父と兄が声をそろえて笑顔で送り出してきた。

「麦、乙女ゲームの制作……頑張れよ!」

「――えっ!?」


血の気が一気に引く。なぜ乙女ゲームという単語を知ってるのか、理解できない。家族には、ゲームの会社としか言っていないし、乙女ゲームを作っていることも、プレイしていたことも隠していたのに。


「なんでバレてる……!?」


真っ青な麦を後目に、アルフレッドが高らかに「彼女は素晴らしい"乙女ゲーム"の作り手である!近日、父君と兄君には良い知らせができるだろう!それでは!」と言い放ち、トドメを刺した。

家族にバレていたという衝撃と恥ずかしさと混乱で頭はシャットダウン状態、麦はどのように家まで帰ったか、まったく覚えていなかった。



――――――



麦とアルフレッドが改札へと歩き出す背中を見送りながら、星野父と勇太はしばし無言で立っていた。遠ざかっていく二人の姿が角を曲がって見えなくなったところで、父はふぅ、と大きく息を吐く。


「……麦も、もうそういう年かぁ」


「年っていうか、父さん。もう三十手前だぞ。相手がいてもおかしくない」


「そうだけどなぁ……。でも、うちの麦がなぁ……。小さな頃は俺の後ろにくっついて離れなかったのに」


父は両手を腰に当て、遠い目をしている。

「ほら、幼稚園のときだ。『お父さんとけっこんする!』って言ってただろ。なのに、あんなイケメン捕まえちまうんだもんなあ」


「……いやいや、それは子供の頃の社交辞令だろ」


「社交辞令じゃない! あのときの麦の目は本気だった!」


「父さん……往生際が悪い」


勇太が冷静につっこむが、父はまだ肩を落として嘆き続ける。


「俺のかわいい一人娘が……あんなイケメンに持っていかれるなんて。あぁ、俺はこれからどう生きていけばいいんだ……」


「大げさだな。結婚しても麦は麦だろ。父さんに会いにくるよ」


「でもなあ、嫁に行ったらなかなか帰ってこないもんなんだ。……あぁ、想像しただけで涙が出てくる……」


わざとらしく鼻をすする父の姿に、勇太は呆れながらも笑ってしまう。


「だいたいな、あのアルフレッドって男。ありゃ相当できてるよ。背も高いし、顔は雑誌の表紙みたいだし、気配りもできて、麦に傘まで差して……。あんな奇特なイケメン、もう二度と現れないだろ」と兄。

「奇特って……」

「いやほんとに! 麦はちょっと世間知らずなところあるし、ゲームばっかりやってるし、家事もできないし……」

「たしかに……」

兄は容赦なく言うが、父はまったく否定できなかった。


「でもさ、そんな麦を丸ごと受け止めてくれそうなやつ、あの男くらいしかいないって。彼を逃したら、一生独身かもしれん」

「……いや、それは困るな」


父が真剣な顔でうなずく。


「やっぱり、早めに結婚の挨拶に来てもらわないとな」

「まだ付き合ってるとも言ってないだろ」

「目を見ればわかる!」父は拳を握りしめる。「あれはもう“娘をください”の目だった!」

「……それはちょっと違うと思う」


勇太の冷静な突っ込みにも、父は聞く耳を持たない。


「よし、今度こっちに来たときは、結婚の話をさりげなく振ってみるか」

「さりげなくって言って、どうせ正面から切り込むんだろ」

「父親の特権だ!」

「はぁ……。まあいいや。なんにせよ、あの二人はほっといても進展しそうだな」

「そうだな。彼なら、麦をちゃんと幸せにしてくれる気がする」

勇太がぽつりと呟くと、父はまた鼻をすする。


「……あぁ、幸せになるのは嬉しい。でも寂しい……。複雑だぁ……」


その背中は、頼れる大黒柱であると同時に、娘を手放せないただの父親のものだった。

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