第17話 麦、帰郷する!
最近、夜の静寂の中でふと天井を見上げると、白く淡い光の輪がふっと現れては消えることがあった。
初めは見間違いかと思ったが、回を重ねるうちにアルフレッドにはそれが分かるようになってきた。兄であるクロード王子が自分を呼び戻そうとする声だ、と。
(余は……いつか、あの輪を通って帰らねばならぬ)
不思議なことに、自然とそう感じた。
そう思うと胸の奥に重たい石が落ちるような感覚が広がった。麦の問題はいくつも解決してきた。彼女が一人でも生きやすくなるように。だからそろそろ、この生活も終わりに近づいているのかもしれない。
しかし、不思議なことに「まだここに居たい」という気持ちもまた嘘ではなかった。狭い2DKのキッチンで、彼女がニコニコとご飯を食べる姿。仕事帰りに愚痴を言いながらも、隣に座って笑う表情。どれも失いたくないと思う。
―――――――
その日の夕方。
珍しく麦が夕食の準備をしていた。
鍋に湯が沸き、野菜を刻む音が小気味よく響く中、テーブルの上に置かれた麦のスマホが震えた。
画面には「兄」の文字。
「……お兄ちゃん?」
麦は包丁を置いて通話ボタンを押した。
『麦? 落ち着いて聞けよ。父さん、さっき倒れた』
「――っ!」
一瞬で顔から血の気が引く。手が震え、スマホが滑り落ちそうになった。
『病院に運ばれて、今は検査中。意識はあるけど、大事をとって入院になりそうだよ。お前も来られるか?』
「い、行く! すぐ行くから!」
声が裏返った。
隣にいたアルフレッドが、麦の変化に気づき、即座に駆け寄った。
「どうした!?」
麦は動揺しながらも電話を切り、アルフレッドに告げる。
「お父さんが……倒れたって……病院に、すぐ行かないと!」
顔面蒼白の麦を見て、アルフレッドは一瞬も迷わなかった。
「余も共に行く。支度を」
動揺する麦を横目で追いかけながら、鍋の火を止め、切られた野菜たちを手際よくジップロックに入れ冷凍庫へ入れた。
―――――――
外は夕暮れ。夏の熱気がまだ路地にこもっていた。
二人は慌ただしく駅へと向かう。
麦の歩みは早く、呼吸が荒い。何度もスマホを見つめ、兄からの追加の連絡を待っていた。
「……私のせいかもしれない」
ぽつりと漏れる。
「この前、父さんに電話したとき……疲れてる声だったのに、ちゃんと気づいてあげられなくて……」
その言葉を遮るように、アルフレッドは強く言った。
「自らを責めるな。きっと父君はご無事なはずだ」
そのまま、自然に麦の荷物を肩から奪い取る。
「重いだろう。余が持つ」
「でも……」
「余を誰だと思う? 王子であり、君の護衛役にして同居人だぞ」
少し場違いな誇らしげな口調に、麦はわずかに息を呑んだ後、ふっと緊張を和らげた。
「……ありがとう」
実家へ向かう電車は、帰宅ラッシュで混んでいた。
アルフレッドは人混みの中でも堂々と背筋を伸ばし、周囲を守るように立つ。その隣で麦は肩を小さく震わせ、窓の外に流れるオレンジ色の景色を見つめ続けた。
(どうか……無事でいて)
祈るように胸の中で繰り返す。
そんな麦の横顔を見て、アルフレッドは無言で彼女の手に自分の手を重ねた。
驚いたように麦が振り向く。
アルフレッドは一言だけ、低く囁いた。
「大丈夫だ。必ず」
その強い声に、胸が高鳴ったが、こんなときでも喜んでしまう自分が恥ずかしかった。
―――――――
夜の病院。
白い照明がまぶしく、消毒液の匂いが鼻を突く。
エレベーターを降りると、廊下の先に兄・勇太が立っていた。
スーツ姿のまま、シャツの襟は乱れ、額には汗がにじんでいる。
「麦……来たか」
「お兄ちゃん! お父さんは!?」
勇太は慌てる妹を落ち着かせるように肩に手を置いた。
「大丈夫だ。検査では大きな異常はなくて、ただの過労らしい。明日には退院できるってさ」
その言葉に、麦の足から力が抜けた。
「よかった……ほんとによかった……」
アルフレッドは安堵の息をつき、深く頷いた。
「さすがは君の父君。強靭な男だ」
勇太は隣に立つアルフレッドを見て、目を丸くした。
「……で、こちらは?」
麦は慌てて紹介する。
「あ、あの……同居人で、友達の……アルフレッド。心配して、一緒に来てくれたの」
制作中のゲームから、抜け出してきたキャラだとは口が裂けても言えない。
アルフレッドは堂々と背筋を伸ばし、手を差し出した。
「アルフレッド・フォン・ヴァレンシュタイン。妹君には日頃世話になっている。父君の無事を、心より安堵している」
勇太はぽかんとした後、苦笑いを漏らした。
「……なんか芝居がかってるけど……まぁ、妹をよろしく頼むよ」
そう言って差し出された手を、アルフレッドはしっかりと握り返した。
―――――――
「おお、麦まで来てくれたのか」
病室のベッドから、麦の父・星野茂が笑顔で手を振った。
痩せて背は高く、白髪混じりだが、目元の皺には穏やかな温かみがある。点滴を受けながらも、まるで風邪でもひいた程度の軽さで話す姿に、麦は思わず拍子抜けした。
「お父さん! もう、心配したんだから!」
茂は少しバツの悪そうに頭を掻いた。
「悪かったな。ちょっと立ちくらみして倒れただけさ。検査も大した異常はなかった。明日には退院できるそうだ」
その能天気な笑い方が、逆に麦の心を揺さぶった。
安心してでてきた涙をこらえきれず、目尻を指でぬぐう。
アルフレッドはそんな二人のやり取りを静かに見守っていたが、父の視線を感じ、挨拶を。
「余はアルフレッド・フォン・ヴァレンシュタイン。以後お見知りおきを。ご令嬢から日頃、父君の功績など聞いており、立派な方と存じ上げておる。だか強きものこそ休息が必要だ。どうか、無理はなさらぬよう」
丁寧に言葉を選ぶアルフレッドに、茂は「おや」と目を細めた。
「はじめまして、麦の父です。こんな姿でお恥ずかしい。麦と仲良くしてくれてるみたいで、どうもありがとうね。今度ゆっくり遊びに来なさい」
「光栄にございます」
アルフレッドは一礼した。その堂々とした立ち姿に、病室の空気が少し和らいだが、麦は居心地の悪さを感じた。
翌日には退院ということで、兄・勇太が段取りを整えていた。
「今日は俺、会社に戻らなきゃだから……麦、父さんの荷物持って帰ってくれるか?」
「うん、大丈夫」
「あと、家の掃除も……正直、放置気味でな。麦、頼んでもいいか?」
「もちろん、お兄ちゃんはよく様子見に行ってくれてたみたいけど、私あまり来れてなかったから、今日はしっかりやるよ」
こうして二人はその夜、星野家に泊まることになった。
実家は、駅から少し離れた古い一軒家だった。
玄関を開けると、木の匂いが懐かしく鼻をつく。
「ただいま……」
小さな声で呟く麦に、アルフレッドは視線を向けた。
「懐かしい場所なのだな」
「うん。子どものころからずっとここで……」
うっすらほこりの積もった床。靴を脱いで上がると、リビングのテーブルには読みかけの新聞や空の缶コーヒーが積まれ、台所には洗い物が残っていた。
「わあ……掃除が苦手なのは遺伝かな?」
麦が苦笑すると、アルフレッドは袖をまくり上げた。
「では、片付け開始だ。余は台所を担当しよう」
「いやいや、アル君はお客さんだから休んでて!ここまで付き添ってくれただけで十分だよ!」
「掃除洗濯は余の得意分野だぞ。大人しくしていられるか!」
そういって荷物の中から愛用エプロンを取り出すアルフレッド。
「エプロンまで持ってきてたの!?」
「余にとっての鎧だ、常に戦いに備えるのは当然のことだ」
俊敏にキッチンを片付け始めるアルフレッドの姿に、なんだか笑えてきた。
普段会社ではゲームシナリオを作成する中で、高慢だがロマンチックで嫉妬深く、時に冷酷なアルフレッド王子を書いているのに、現実に現れた王子は高慢ではあるが、なんだか所帯じみていて案外懐が広い。
女性ユーザに人気が出るようにしたキャラ設定の王子より、夢中な顔で床に這いつくばって雑巾がけしたり、使い古した歯ブラシを片手に細部を磨き上げる王子の方が、麦の胸をキュンと切なくする存在だった。
――――――
二人はひととおり掃除を終え、コンビニで買った簡単な夕食を済ませると、麦はふと居間の奥に視線を向けた。
そこには、小さな仏壇がある。白い菊の花と線香の香りが漂っていた。
アルフレッドも気づき、静かに尋ねた。
「あれは……君の母君か?」
麦は頷き、仏壇の前に座った。
「……そう。私が高校のときに、事故で亡くなったの。いつも明るくて、楽しくて、優しくて……最高のお母さんだった」
アルフレッドは隣に膝をつき、麦の言葉を待った。
麦は少し俯き、平坦な声で続けた。
「その日、くだらないことで喧嘩したの。怒って家を出て……お弁当を忘れたから、お母さんが後を追ってきてくれて……そのときに、車に……」
言葉が途切れ、唇が強く結ばれる。
何年もたっているはずなのに、今もありありと光景が浮かぶ。もう人に話せるようになっているかと思ったが、彩度を保ったまま思い返され、鋭い胸の痛みに思わず目の奥に涙が滲み、こぼれ落ちそうになった。
「病院で……お弁当箱を開けたら、中に卵焼きが入ってて。私の大好物だったのに……一口食べても、全然、味がしなかったの。あの日から……卵焼きが食べられなくなっちゃったの」
部屋を包む静けさの中、アルフレッドは拳を膝に置き、深く頭を垂れた。
「……君が背負ってきた痛みを思うと、胸が張り裂けそうだ」
お弁当を作り始めた時に、麦に言われたことを思い出していた。
『卵焼きは入れないで』
『なぜだ?栄養価も高く安価に彩りを添えられる、弁当界の覇王と聞いたぞ』
『……苦手なの』
その時は、子供のように好き嫌いをするんだなと思った。
だが好き嫌いという段階の話ではなかったことを今悟った。
麦はうつむきながら、しかしどこか遠いところを見るように話す。
「お母さんがいなくなってからの毎日は、本当に辛かった。何をしても心に穴があいてるみたいで……。でも、そんなとき、同級生が貸してくれたのが、乙女ゲームだったの。ゲームの中の登場人物たちは、どんな私でも受け止めてくれて、優しく声をかけてくれる。現実では孤独で押し潰されそうだったけど、彼らのおかげでなんとか笑える時間ができたの」
アルフレッドが目を見開く。
「……ゲームとやらが、そなたを救ったのだな」
「うん。だから私、大学を出たあとゲーム会社に就職したの。同じように辛い想いをしている誰かに、少しでも安らぎやときめきを届けたいと思って。私にできることをしたかった」
言いながら麦は、自分の胸の奥にしまい込んでいた決意を、初めて誰かに語ったような気がした。アルフレッドにだけは話せる。そう思えた。
アルフレッドはそっと麦の横顔を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「麦……そなたは強いな。己の痛みを力に変え、人を救おうとしている。……その志は、どんな騎士にも勝る高潔さだ」
不意にかけられた言葉に、麦の胸がじんと熱くなる。
「そんな……大げさだよ。ただの、ゲーム作りなのに」
「否。そなたが心を込めて作るものは、人の心を支える。たとえそれが“遊戯”と呼ばれるものであろうと、魂を救う力がある。わたしは、そう信じる」
アルフレッドの真摯な言葉に、麦は少し涙ぐみながら微笑んだ。
「……ありがとう。言ってもらえて、嬉しい」
線香の煙がゆらゆらと二人の間を漂い、まるで亡き母が静かに寄り添っているかのようだった。




