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第16話 麦、磨く!

アルフレッドの大変身を見届けた夜、麦は眠れなかった。

格好良くなった彼の姿が、瞼の裏にちらつく。

布団の中で、スマホを握りしめながら悶々と考える。


(今日私、場違いだったな……)


被害妄想かもしれないが、アルフレッドと並ぶ麦に対しては、(なんであんな女と?)と通行人から思われているような気がした。


アルフレッドは麦のことなど一ミリも気にしていないようだったが、それは彼が麦のことを少しも意識していたり、そういう対象として見ていないからなのだろう。

侍女程度にしか思っていないのかもしれない。


考えれば考えるほど、グルグルと黒い感情に支配されていく。


自分も変わりたい。彼の隣に並んでも、見劣りしないように。

小さく息を吐いて、検索アプリを開いた。

「きれいになりたい……」

ぽつりと呟きながら文字を打ち込み、情報の波に飲まれる。


骨格〇〇さんにはNG服!

イエベに似合うヘアカラー集

ブルベ向けメイクアイテム

肌をきれいにする施術紹介

ウエストマイナス5センチ痩身エステ

……


調べれば調べるほど何が何やら分からなくなり、ドツボにはまるような気持ちになった。


ふと、脳裏に浮かんだのは、高校時代の友人――花蓮の顔だった。

美容に敏感で、周囲の女子からも一目置かれていた存在。

そうだ、彼女なら。


震える指でメッセージアプリを開く。

「きれいになりたい、たすけて」

送信ボタンを押した瞬間、顔が真っ赤になった。



――――――――――



翌週末。


待ち合わせたカフェで、花蓮を見つける。

相変わらず、完璧なメイクに洗練された服装。髪は艶やかにまとめられ、隙がない。

麦は思わず見入ってしまった。


花蓮は並の男なら気おくれして話しかけることもできないのではと思われるほど美しく、自信と生命力に満ち溢れた魅力的な女だ。

高校で同じクラスになったとき、麦も初対面では苦手なタイプではと思ったが、話してみて、豪胆で陽気な人間性に魅かれた。

別々の大学に進学してからも、半年に1度くらいのペースで会う仲だ。


「麦!」

花蓮はニヤリと笑いながら手を振った。

そして席につくなり、唐突に切り込む。


「ねぇ麦。好きな人でもできたの?」


その一言に、麦の心臓は跳ね上がった。

「ち、違うよ……!」慌てて否定するが、声が上ずっている。

「ふーん? まぁいいけど」花蓮はニヤリと笑い、「でも、ちょうど良い! 一度誰かの全身プロデュース、やってみたかったんだ!」と身を乗り出した。



――――――――――



そこから、一日は嵐のように過ぎていった。


美容院。

花蓮がいつも担当してもらっているという美容師の予約がとられており、花蓮が何やら麦には理解できない会話を美容師と繰り広げながら、どういう髪型になるかが決まっていく。麦は完成形のイメージが持てなかったが、美のプロたちを信じることにした。

美容師は丁寧にカットとトリートメントを施し、艶やかに整えられた髪が鏡に映る。

「すごい、今までで一番良い……!」感激してそう呟くと、花蓮が「まだ始まりに過ぎないよ」と笑った。


ファッションビル。

花蓮は店内を縦横無尽に歩き回り、真剣な眼差しで服を選ぶ。

「これは麦には甘すぎる。こっちは大人っぽすぎ。あ、これ! 絶対似合う!」

プロのスタイリストのように迷いがなく、店員も感心していた。


コスメショップ、ネイルサロン。

次々と施される変化に、麦はただ引っ張り回されるしかなかった。

しかし、気づけば頭の先から爪先まで整えられ、自分でも信じられないほど洗練された姿になっていた。


鏡の前で立ち止まった麦は、思わず息を呑む。

「……すごい、別人みたい」

「いやいや、あんた元が良いんだよ!」花蓮は軽やかに笑う。「このべっぴんさん!」


最後に選んだワンピースを試着するため、再び訪れた洋服店。

カーテンの中で着替え、姿見を覗き込む。

裾が軽やかに揺れるワンピース。身体にしっくりと馴染み、自然と背筋が伸びた。


(……かわいい)

思わず自分をそう思えた瞬間、胸が熱くなった。


鏡の中の自分の隣に、アルフレッドの姿を思い浮かべた。

その隣に立つ自分を想像しただけで、頬が真っ赤になった。

(この姿見たらアルフレッド、どんな反応するかな? かわいい、とか言ってくれるかな)


そのとき、ふと脳裏に蘇る。

――「試着室で思い出したら、それは恋」


(恋……?)


いやいやまさか!? ……でも、やっぱり……そうなのかも。

声には出さなかったが、心の中で確信した。

彼に可愛いと思ってもらいたい気持ちはもう誤魔化せなかった。

これは憧れでも感謝でもない。

間違いなく――恋。


カーテンを開けると、花蓮が満面の笑みで親指を立てていた。

「ほら、めっちゃ可愛い。麦の好きな人も絶対、ドキッとするよ」

「からかわないでよー!」

顔を真っ赤にして抗議するが、否定できなかった。



――――――――――



その日の夜。


帰宅後、磨き上げられた姿をアルフレッドに見せた。

「どう思う?」


彼は一瞬、目を見張り――驚いた顔をした。


「む、むぅ……! 馬子にも衣裳、とはまさにこのこと!」


「……」

その場が一瞬で凍りつく。


麦は怒ることもできなかった。

ただ、浮かれていた自分が恥ずかしくなって、ぎこちなく笑った。

「張り切ってこんな格好しちゃったけど、元の悪さは隠せないよね……へへ」

明るく振る舞おうとしたが、目の奥にじわりと涙が滲む。


アルフレッドは、しまった、という顔をした。

紳士として育ったはずなのに、女性に対してこんな失礼な言葉を言うなど、あってはならない。

元が悪いなど一度も思ったことはないのに。

なのに――麦が相手だと、どうしても調子が狂ってしまうのだった。



――――――――――



お通夜のような夕食を終え、自室へ。


「……」

その夜、アルフレッドは一人で悶々と悩んだ。

「余は……愚か者か。なぜ、あのような言葉を……」

何度も頭を抱え、天井を見上げた。


考え続けた末に、彼は紙とペンを取り出した。

紳士として非礼を詫びる方法は何か。

口では失敗してしまうなら、文字で伝えるしかない。


麦が眠ったあと、アルフレッドは机に向かって何度もペンを走らせては紙を丸め、ため息をついた。


「なぜだ……なぜ、あのような言葉を吐いてしまったのか」

馬子にも衣裳。

彼女にとってどれほど無礼な響きだったことか。

頭を抱え、胸が痛む。


くるくると動く表情や、よく喋る口。好奇心に満ちて、キラキラと輝く瞳。出会ったときから、可愛らしい女性だと思っていた。

今日初めて、彼女の洗練された姿を見て、美しい女性だということを知った。

そして動転して――。


「余は、紳士として、騎士として、女人を敬うように育てられてきたはず……それなのに」

筆を止め、額を押さえる。

これまで愚民だの散々な呼び方をしても平気でいた自分が恥ずかしかった。

麦の、潤んだ瞳が思い出されて、心臓が締め付けられた。


――どうすれば、あの涙を拭えるだろうか。


やがて、彼は深く息を吸い込み、改めてペンをとった。

「言葉で失敗するなら、文字で伝えるしかあるまい。誤魔化しの効かぬ紙の上に、真心を刻むのだ」


何度も推敲を繰り返し、ようやく完成した一通の手紙を、真紅の蝋で封じた。


翌朝。

朝食を食べる麦に、彼は少し緊張した面持ちで跪き、封筒を差し出す。


「麦。昨日の余は、愚かであった。どうか、この手紙を読んでほしい」


麦は戸惑いながら封を切ると、整った文字が目に飛び込んできた。


――――――

麦へ。


昨夜の余の言葉は、あまりにも軽率であった。

君を傷つけるつもりは毛頭なかったが、それが言い訳になるはずもない。


余の目に映った君は、衣裳によって飾られたから美しいのではない。

どのような姿であっても、君そのものが輝いていた。

余はそれに見惚れ、言葉を失い――そして愚かな失言で、その感情を取り繕おうとしてしまった。


麦。

君は、余の知る誰よりも愛らしく、勇敢で、そして誇らしい。

余は騎士として剣を掲げるよりも、君の笑顔を守るためにこそ、この世界に呼ばれたのだと思う。


どうか再び、余に君の隣に立つことを許してほしい。


永遠に君の味方であることを誓う。


アルフレッド・フォン・ヴァレンシュタイン

――――――



麦は読み終えた瞬間、胸がいっぱいになった。

昨日、あれほど悔しくて泣いたのに。

今は、幸福が胸の中に立ち込めて、息が苦しいような気持ちを覚え、涙がじわりと滲む。


「……ほんとに、もう。美しいとか思ってくれてたんだ……」

くすっと笑いながらも、震える声でつぶやく。


アルフレッドは落ち着かない様子で跪いていたが、麦の涙を見て慌てて立ち上がる。

「ま、また泣かせてしまったか……? 余は本当に自分が情けない……」

その狼狽ぶりに、麦は涙の中で微笑んだ。


「ちがうの。嬉しいの。ありがとう、アルフレッド」


アルフレッドは一瞬、目を見開き――そして深々と頭を垂れた。

「余こそ……ありがとう、麦」


二人の距離は、昨日よりも確かに縮まっていた。





―――それでも、彼はいつの日か元の世界に戻ってしまう。

いつまでもこの2DKで二人が幸せに暮らすことはできない。

だからこの想いは報われない、その事実はもう無視できないほど麦の中で存在感を増していた。

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