第12話 元カレ健太、現る!
会社からの帰り道、夜風がひんやり肌を刺す。
麦は駅前の通りを足早に歩いていた。
順調な毎日。お金の心配もなくなり、毎日アルフレッドが温かいご飯と清潔な家で待っていてくれている。
家に帰るのが楽しみで、やや大股でズンズン家を目指す。
ふと背後から声がした。
「麦……待ってくれ」
振り向くと、健太が立っていた。
白シャツにジーンズ。短く刈った黒髪。どこにでもいる、ごく普通の青年――でも、かつては一年近く恋人だった男。
感情が読めない表情をしていた。
「久しぶり」
「……久しぶり」
麦の返事は短く、少し距離を置いた。
でも健太は一歩近づき、まっすぐに見つめる。
「俺さ、あの時のこと、謝りたくて……本当に悪かった。あの浮気のこと、後悔してる」
「……後悔するくらいなら、しなきゃよかったのにね」
健太は肩を落とし、少し頭を傾けた。
「わかってる。でもさ、俺、麦とやり直したいんだ。お願い……もう一度、チャンスをくれないか」
その言葉に、胸が少しざわつく。
あの頃の記憶が、ふっと蘇る。
でも、浮気を知った日の傷、信じた人に裏切られた痛みが、鮮明に思い出される。
「……健太。もう戻れない。信じる自信がないの」
「そんなこと言うなよ。俺、変わったんだ。麦のこと、前以上に大事にする」
「……そう言うけど、言葉だけじゃわからない」
健太は麦の手を取ろうとする仕草を見せるが、麦は軽くかわす。
「俺、本当に、今度こそ麦を幸せにするから……」
言葉は熱く、声は低い。
その真剣な顔は魅力的で、少し揺らぐ自分を感じた。
「……ごめん、もう無理だよ」
そう言うと、健太は一瞬だけ眉をひそめ、そして口をつぐんだ。
返す言葉を探しているのか、それとも怒っているのか、よくわからない。
「じゃあ……もういい」
短くそう言って、健太は踵を返し、通りの向こうへ歩いていった。
背中は少し猫背で、やっぱり昔と同じだった。
麦は、深く息を吐いた。
ほんの少しの寂しさと、胸の奥の軽さが同時にやってきた。
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だが翌日から、健太はさりげなく麦の行動範囲に現れるようになる。
駅の改札で待ち伏せたり、よく行くカフェに入り込んだり。
最初は偶然を装っていたが、回数が増えるたびに、麦は居心地の悪さを覚える。
「麦、今日も遅かったな。大丈夫か?」
「……別に」
「いや、夜遅いと危ないだろ。俺が毎日迎えに来ようか?」
麦は俯き気味に断るが、健太は微笑みながら、あたかも世話を焼くかのように言う。
その笑顔が、麦にとっては鉛のように重く感じられる。
さらに、健太から毎日メッセージが届き始めるようになった。
「今、どこにいるんだ?」
「今日のランチ何食べた?」
無邪気な質問の裏に、監視めいた空気が潜む。
麦は次第に、帰宅時に振り返る癖がつき、健太を避けるようになる。
会社にいても、家にいても、ふいに一人になると不安になるが、表情は平静を装うしかなかった。
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家に帰り、麦は深く息を吸い込み、心の奥で「大したことじゃない」と自分に言い聞かせた。元は同棲寸前までいった恋人、ストーカーじゃない――そう思おうとしていたが、心の奥底で血の気が引くのを感じていた。
その様子を見逃すはずもなく、アルフレッドはキッチンから玄関まで出てきて、静かに眉をひそめる。
「愚民、どうしたのだ……いつもと様子が違うぞ」
麦は一瞬、心の奥でうずく不安を隠すために笑顔を作った。
「え、なにが?」
「いや、別に……なんでもないよ。ほら、元気だから!」
元気を装って身振りを大きく見せる麦。その表情に、アルフレッドは小さく息をつき、胸の内で落胆する。
(余には頼れぬのか……)
しかし同時に、傲慢に「愚民」と呼び、日常のほとんどを自分主導で押し切ってきたことを思い返す。
(……余に相談しないのは当然のことか)
アルフレッドは軽く肩を落としたが、麦はそれに気づかなかった。
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仕事帰りの夜道、麦は周囲に気を配りながら足を急ぐ。
街灯の下、誰もいないかと目をこらすたび、心臓が跳ねる。
(健太……今日もいないよね?)
スマホを握りしめ、連絡が来ていないかを確認する。
だが、ポン、と通知音が鳴るたび、胸が締めつけられる。
「……またか」
画面に映るのは健太からのメッセージ。
《ちょっと会いたい》
《昨日も忙しかった?》
《どうして返信くれないんだ……》
どれも短く、しかし執拗な言葉。毎日届くことで、麦の心に小さな焦りと不安が積み重なっていく。
その日も、会社を出て少し歩いたところで、背後から足音が近づく。振り返ると、健太が少し息を切らしながら歩いてきた。
「麦……ちょっと話せないか」
「話せない!」
そう言って麦は咄嗟に歩調を速める。人混みに紛れ、通りを曲がる。
だが、健太は巧みに距離を詰めてくる。
(こんなに簡単に追いかけられるなんて……!)
心臓が跳ね、手のひらが汗で湿る。
それでも麦は冷静を装い、交差点や人の多い道を選んで距離を稼ぐ。
足音と、ポケットの中で光るスマホ通知が、絶え間なく彼女の神経を刺激する。
「……もう、ほんとにやめて……!」
心の中で必死に叫ぶも、健太は止まらない。
麦はため息をつきながら、家に近づく道を選ぶ。どうせ家の場所は知られている。
遠くに見えるアパートの灯りが、唯一の安心の目印だった。
家の扉を閉めると、麦は肩を震わせた。
「……はぁっ……はぁっ……」
エプロン姿のアルフレッドが「帰ったか、愚民」といつものように狭い玄関まで出迎えに来る。
部屋の灯りと、アルフレッドの穏やかな声。
外の不安が、ふっと消え去る。
麦は深く息を吐き、肩の力を抜く。
(やっぱり、家に帰れば……安心できるんだ)
キッチンからの光で逆光になっているアルフレッドを見たら、急に涙がぽろりと零れた。
アルフレッドは、血の気が無い顔で急に泣き出した麦を見て動転する。
「ど、どどどうかしたのか!? 」
「……なんでも、ない……」
心配させまいと、心で思っていることとちぐはぐな言葉を吐くと、体からの拒否反応なのか、追加で涙が溢れてきた。
アルフレッドの前で泣いてしまったことが恥ずかしくて、泣き止もうとするが止まらずに頭がカーッと熱くなる。
「……愚民」
アルフレッドは焦りながらも、距離を詰めすぎずに声を落とす。
「そんなに怯えた様子で、なんでもないわけがあるか」
アルフレッドは一歩距離を置きつつも、声のトーンは優しく、しかし確固たる響きで続ける。
「余に頼れ。涙を隠す必要などない。余は、愚民の不安も恐怖も、全部受け止める覚悟がある」
麦は涙を拭いながら、言葉に詰まる。
アルフレッドは触れずとも、ただそこに立ち、存在で支える。
「無理に話さなくてもよい。だが余はいつでも麦の味方だ。困ったときには助けたい」
その声は真剣で、どこか安心感を伴っていた。
麦は小さく頷き、肩の震えが少しずつ治まっていくのを感じる。
アルフレッドは体を動かさず、最小限の距離を保ちながらも、胸元のポケットに手を伸ばした。
(これもまた、余にできるささやかな慰め……)
すっと白いハンカチを取り出し、麦の目の前に差し出す。
「涙を拭くがよい、愚民」
その紳士的な手つきは無言ながらも優しく、でも確かに麦に届く温もりを感じさせる。
麦は差し出されたハンカチを握りしめ、ぽろぽろとこぼれる涙を抑えつけるように拭った。
アルフレッドはその様子を静かに見守り、心の中で抱きしめたい衝動を必死に抑えつつ、ただそばに立ち続けた。
(これは、元の世界に戻るために解決すべき問題なのだろうか)
麦をこんなにも苦しめることが、アルフレッドのために用意された試練じゃないといい―――彼は心の中で祈った。
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