九 遠雷
鷹彦の家は、大王の館から遠い。住まいを与えられた時、自ら望んだと鷹彦が言っていた。風読が息絶えた館から、少しでも遠ざかりたかったらしい。都に来てから間もない頃のことで、沈痛な様子にそれ以上、何も聞けなかった。
帰り着いてみると小さな厩には、既に鷹彦の馬が繋がれていた。そそくさと自室に向かったものの、折悪く庭の脇の回廊にいた鷹彦に出くわした。
空が雲に覆われていく中、主は庭を眺めながら回廊の縁に腰かけていた。急いで引き返そうとしたが、曲がり角に身を隠す前に鷹彦がこちらを見た。
「戻ったか」
声を掛けられ、騒速は努めて冷静に頷いた。鷹彦の方に向き直る。
「はい」
「狭依殿と、何を話していた」
騒速は言葉に窮した。沈黙の意味を即座に察して、鷹彦が静かに呟いた。
「やはり狭依殿といたか」
鎌をかけられたと知って、ますます何も言えなかった。自分の迂闊さを恥じるとともに、顔色一つ変えずに探りを入れた主が恨めしかった。しかし、こそこそと狭依に話をせがんだのは事実なので、兎にも角にも言った。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る。何を話した」
鷹彦の言葉に圧力はなく、責めるようでも糾弾するようでもなかった。淡々と尋ねているだけなのだが、かえって嘘をつきにくい心地がする。
「――風読の姫のことを」
鷹彦の目の奥が揺れた。騒速は正直に言った。
「台与様の言われたように雷を操るなど、想像もつかないのです。だからせめて、姫君がどのように風を読んだか、知りたくなりました」
鷹彦は暫し黙したまま騒速を見据えていたが、やがて隣に座るよう促した。騒速は目礼してから、主の隣に腰を下ろした。鷹彦の表情には怒りも苛立ちもなかったが、微かな緊張があった。
「狭依殿は多くを知らなかっただろう」
「――はい」
問われて騒速は素直に答えた。
「さっぱりわかりませんでした」
鷹彦は地面を見ながら考え込む風だったが、暫くして言った。
「級長戸辺の娘が風向きを知る仕組みは、風読自身も知らない。触れたものの輪郭を指が感じ取るように、ただわかるのだ」
内心で瞠目して、騒速は鷹彦を見やった。彼の方から口を開くとは思ってもみなかった。驚く騒速をよそに、鷹彦は続ける。
「幼子の頃より、長じてからの方が遠い先の風まで読めるようになる。小さな頃は、野分が来る前に静かに泣いているだけだった。生まれて以来、浴びた風の数が積み重なると、より遠く先のことがわかるようになるのだろうと言っていた」
淡々と語る横顔を、騒速は眺めていた。昔のことを思い出すために、主の視線はやや遠くにやられているように見えた。
「姫君は馬を操るのが得手だったし、好きだった。他のどんな時より風を強く浴びられるからだろう。都へ帰ってからは外へ出ることが許されず、その間は風に当たれず調子を崩していた」
騒速は躊躇いつつも尋ねた。
「なぜ許されなかったのでしょう」
鷹彦は逡巡するように、かすかに眉を顰めた。
「すまないが、言えない。だが、間もなく息絶え、その後三日三晩風が吹き荒れた。風読は生まれついた時から、死ぬまで風とともにあった。そなたも大王の前で雷を落としたなら、元から力をもって生まれたのだろう」
「そうかもしれません」
「風読は、神代には風呼びと言われていたらしい。風を読むだけでなく、呼ぶこともできたと言う。其方も、雷を呼ぶことはすぐにできなくとも、気配を感じ取ることはできるやもしれない」
はあ、と騒速は曖昧に相槌を打った。それもまた、到底できる気がしなかった。
「風ほどしばしば起こるものではないが、雷が起こった時には気をつけて見ていよ。今できることは、そのくらいしかない」
鷹彦の言う通りだった。まずは雷に意識を凝らして、あの時体を駆け抜けた感覚に近いものが感じられるか、試すしかない。
「私も大した話はできず、すまなかったな」
鷹彦が苦笑した。騒速はかぶりを振った。
「風読に最も近しかった方から、話が聞けましたから」
自嘲気味に笑って、鷹彦は呟いた。面持ちには、ひどく暗い影があった。
「近しいと言えるのかどうか」
「狭依から聞いて、初めて知りました――鷹彦様が身を挺して護ろうとした方だと。短かった命でも、誰かから強く想われた日には、安らかな心で過ごすことができたのではないでしょうか」
しかし、素朴な思いを口にした騒速に、鷹彦は虚ろな声で否定した。
「違う」
空虚ながらも、はっきりとした声音だった。
「護りが私でなければ、風読は死ななかった」
鷹彦の顔は正面を向いており、目は伏せられていた。先にあるのは、館の庭の地ではなく、どこか彼の遠い記憶だった。
「私を映した熊襲のまやかしに、姫はおびき出されて討たれた。それまで私が、姿を見せなかったばかりに、風読はまやかしを追った。矢から庇おうとしたが、遅かった」
騒速はただ、慄然と主の声を聞いていた。
「風読に姿を見せなかったことが、私の咎だ」
鷹彦は音もなく立ち上がり、その場を去った。何も言わずに立ち去る時は、話しかけられたくない時だと知っていたので、目礼だけをして主を見送った。
鷹彦に宿る諦念も憂いも、風読によるものだと言うのは、薄々わかってはいた。ただそれは、単純な喪失の悲しみではなかったと知って、彼を緩やかな動揺が覆っていた。
彼ほどの人であっても、風読を護ることはできなかったのだ。
主を見送りながら、騒速は高床の回廊に腰かけたままでいた。空に淀む雲は、厚く暗くなりつつある。ごくたまに地を叩いていた雨粒は、やがて庭一面に降り注ぐ穏やかな驟雨となった。
鷹彦は風読を護り切ることを、望んでいただろう。でもその命は、彼の指の隙間からこぼれていった。同じではないもののよく似た絶望を、騒速は知っていた。大切な人を護れず、取り残されるやるせなさを――その絶望を抱えかねた父が命を絶った時の、寄るべない思いも。
雨が足元を濡らすのも構わず、騒速は長いこと回廊にいた。呆然と主の言ったことを反芻する。ぬかるみ始めた地に目を落とした時、不意に蘇った光景があった。忘れたはずの、伊伎の記憶だった。
共に弔う者がいない父の骸と、騒速は向き合っていた。一つの言葉も放たれることがなくなった家は、肌を刺すような沈黙が覆い、殯はとみに長く感じられた。雨音だけが、絶えず静寂を埋めていた。時折激しい雷鳴が轟き、稲妻が空を裂いた。そういえば姉の殯の時も、強い雷雨が続いた。同じように、三日三晩。
父や姉は、雷に通ずる力を持っていただろうか。騒速にそれを伝えることなく、逝ってしまったのだろうか。
ふと空を見上げた時、胸の奥で何かが疼いた。白い光が一閃し、春雨を透かして遠雷が響きわたった。




