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八 心恋

「風読は生まれてから死ぬまで、風向きがわからなくなることはないのか」


 尋ねつつも、体に刻み込まれた感覚が狂ったり、眠ってしまうようなことはないだろうと思った。ところが狭依は、一瞬言葉に詰まってから答えた。


「たぶん、死ぬまで同じだと思う。でも、死の間際の風読がどこにいたか、知る人はない。鳥船様ですら」


 最高位の武人である鳥船が知らないのは、奇妙なことだった。


「訊いていなかった?」


 騒速はゆっくりと頷いた。


「鷹彦様だけは知っているはずだろう」

「ええ。姫君の護りだったから」


 体を持たずに護りとして風読に仕えたが、死別と同時に体を取り戻した。それだけ聞いていた。


「でも、顛末は誰にも話されていない。あなたが知らないなら、誰も知らないはず」


 鷹彦は、伊伎で拾った騒速が不自由しないよう面倒を見、必要なことを教えてくれたけれど、自身については語らなかった。過去を思い出したくないからかもしれず、話すには騒速があまりに幼いためかもしれなかった。


「わかっていることは、何もないのか」

「風読を庇って、大けがを負ったとだけ。身を挺して姫を護ろうとしたと」


 胸にせりあがる不穏な気持ちを宥めるのに苦労した。今まで眺めていた主の姿が、急にかたちを変えていくように思われた。


「それほど大切な相手を、亡くされていたなんて」

「激しい悲嘆ぶりだったと聞いたわ。その後、内乱平定で誰より前に立って戦う様子も、尋常ではなかったと」


 初めて鷹彦と対峙した夜のことを、騒速は思い出した。自分を見た時の凍てついた殺気は、肌を刺すようだった。それでありながら、美しい横顔はどこか抜け殻のようだった。戦いの後に還るべき場所を、持たなかったからだろう。


「いつでも黄泉に行く覚悟でいらしたんだ。自分は武人だから、死ぬなら戦場がいいと言っていた」


 鷹彦の、死を望む面持ちを忘れたことはない。時折思い出しては胸が苦しくなった。誰より敬う主が、決して逢えない人に心を囚われ、死も厭わなかったと思い出させられる。騒速にとっては崇敬する相手であっても、鷹彦にとって自分は、置き去りにして差し支えない者なのかもしれない、と。


 まさにそのようにして、父は中つ国を去った。騒速にとって最後のよりどころであった父は、彼を同じように思ってはいなかった。取り残された寂しさは、そう思うと一層の激しさをもって胸を苛んだ。

鷹彦もまた、どうかすると風読を追って黄泉へ行ってしまうかもしれない。内乱が鎮まってから忘れていた恐れを、騒速は久しぶりに思い出した。


 意気消沈した騒速を、狭依は遠慮がちに窺うようにした。


「でも、貴方が来てから鷹彦様は、中つ国に引き戻されたのよ。伊伎に行ってから少しずつ顔つきが変わったと、鳥船様が言っていた」


 伏せていた目を上げて見やると、狭依は励ますように口の端を上げて笑んだ。

 意を取りかねた騒速は、狭依を見つめた。


「鷹彦様は、ずっと智舗で一番の武人だった。居場所を与えてもらったのは俺のほうだ」

「地位は必ずしも、居場所ではない。貴方がいることは、鷹彦様にとって大事なことなのだと思う」


 いつもは厳しい狭依が、穏やかながら真剣な口調で言ってくれるのを聞くと、否定するのはもったいない気がした。腑に落ちないながらも、曖昧に呟く。


「そうかな」


 狭依が頷くのを見ながら、騒速は内心で首を傾げた。初めて会った時より、鷹彦の纏う雰囲気が和らいだのは確かだ。だが自分は、必要とされているだろうか。誰より気にかけてくれるのはわかるけれど、役に立てているかと言うと心許ない。


 武術では大抵の武人にひけを取らない自信があるが、言葉巧みに交渉したり、駆け引きしたりするのは苦手だ。素っ頓狂なことを言っては、狭依や鷹彦に窘められている。


「もっと都人らしく振る舞えれば、麾下として大事な者になれるだろうけど」

「都人らしく、って?」

「人の思惑が渦巻く場所でも如才なく振る舞って、強かに生きていけること。宿禰殿なんかは典型じゃないか」


 何の気なしに宿禰の名を出した途端、狭依が表情を曇らせた。


「八女宿禰のようになる必要なんてないわ。あの人はただ、自分の力を万事に及ばせたいのよ」


 用心深く声を潜めながらも、狭依は断言した。


「きっと若彦殿の家族は、間もなく都から追い出されるわ。誰も彼もを蹴落として、台与様に取り入りたいと考える輩が、見逃すはずない」


 確かに彼なら、そのくらいのことはするだろう。弱みを握られてはならない人間の筆頭が宿禰だ。空位の間に反乱を企てた者とその縁戚を、悉く放逐することによって名を挙げた人物でもある。


「宿禰殿のようになりたいとは思ってない。だけど、人との駆け引きで立場を守る生き方が、今もよくわからない」


 郷里と違い、都では会う者すべてに罵られ、殴られると思わなくて良い。そのことは、荒んだ心の奥底を変えてくれた。だが、薄れた警戒心を補うだけのものを騒速は持たない。それとなく人の心を窺うすべも、如才なく主張する方法も、複雑で学び難いものに見えた。立場を守りつつ、言うべきことはそつなく伝える人々との差を思い知って、時々辛くなる。


 ふとこちらを見る狭依と目が合った。不思議なものを見るような目つきだ。大国の姫である狭依には、騒速の悩みなど取るに足らないことだろう。迂闊なことを言った、と内心で独りごちた。

 だが予想に反して、狭依の声は優しかった。


「都で生きることが、誰にとっても最良と言うわけではないわ。台与様にお仕えできる立場は貴いけれど」


 狭依は、智舗が身像から取った人質でもある。騒速は望んで都へ来たけれど、狭依は主命でここへ来た。伊都で任を解かれれば郷里に帰れたのに、台与が引き続き出仕を望んだためだ。泣き言を言わず役割を果たす狭依の前で、弱音を吐いた自分が、にわかに恥ずかしくなった。


「――ごめん」

「何で謝るの?」


 狭依は驚いた顔をしたが、すぐに意味するところを察したらしい。


「私、台与様に求められて働くことは好きよ。伊都では確かに人質だったけど、都でお仕えすることは自分で選んだの。台与様が智舗を統べることは正しいと思うから」


 にわかに強い風が吹いて、桃の花弁が庭に舞った。透き通った狭依の眼へ花吹雪が映り込み、騒速は暫し見惚れた。これほど近くで狭依を見つめたのは、初めてだ。

 考えてみれば、二人でゆっくり話したことはなかった。何度となく顔を合わせてはいるが、それは務めに就いている間のことだ。いつでも正確な物言いの狭依を騒速は、憧れと気後れがないまぜになった気持ちで眺めていた。


「私は主命に従うけれど、務めよりも大切な人に出会うまでのことよ。台与様はそれで良いと約束してくださった」


 散る花を目で追う横顔を、騒速は言葉もなく見据えていた。心は初めて彼女を見た時に引き戻されていた。台与が大王の位に就いた、饗の祭儀の日のことだ。


 鮮やかな紅を引き、裾の長い銀朱の裳と、(しろ)(ねり)(いろ)の衣とが、曇り空の下にも映えていた。煌びやかな宝冠を戴いた台与より、一つの玉もつけず静々と歩く狭依の方が、美しかった。襷の巻かれた体も、倭文布(しずり)の帯が絞められた腰も、危ういほどに嫋やかだった。


 不意に狭依がこちらを向くと、胸の裡で鼓動が跳ね上がった。鳶色の目に、吸い込まれそうな感覚に襲われる。我知らず息を詰め、何も言えなくなった時、自分の心に芽生えたのが(こい)(ぐさ)だと知った。それこそが、いつも狭依の姿を、目で追ってしまう理由だったことも。


 いつの間にか庭に戻ってきた春告鳥が、覚束ない鳴き声を響かせた。胸の奥の脈動を懸命に静めながら、騒速は狭依から目を逸らした。


 視野の端に捉えた狭依の髪に、桃の花びらがついていた。寄り道したことが悟られないよう、教えて払いのけてやらなければと思う。なのにどうしてか言葉が出てこず、狭依の髪に手を触れることもできなかった。聞いた狭依が自分で払ってしまうかもしれないと思うと惜しいが、艶やかな黒髪に触れる勇気はとてもない。自分の手が、近づくのを許されるとは思えなかった。


 狭依が聡明で愛らしく、高貴な人であるのは誰でも知っている。やすやすと触れられる存在ではないのだ。まして、彼女にとっては足りないところばかりの自分が選ばれることは、ないだろう。


 自分自身に釈明して、騒速は考えを終わらせた。無意識の静かな怖れが心恋(うらごい)を留めようとしたとは、気づかなかった。密かな怖れは初心な混乱のなかに、たやすく身を隠してしまったから。


 緩い花風が、騒速と狭依の間を吹き抜けていった。再び狭依の方を見やると、桃の花は風の手が払い去ってしまっていた。


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