四 行宮
騒速は深く礼をした後に、立ち上がってその場を辞した。深い悲しみの底にありながらも、騒速は深緋の巫女へ引き続き仕える覚悟を新たにしていた。台与の静かな笑みに見守られながら、広間を立ち去る。
だが、台与の脇に控える八女宿禰のことは、今でも信頼する気になれなかった。無言で、超然と自分を見やる宿禰から、すぐに目を逸らす。狭依も蛇蝎のごとく彼を嫌っていた。今回も台与についてくるであろう彼について、ゆめゆめ気をつけろと言った。騒速が勾玉を骸の脇に置いておかず、自身で携えることにしたのもそのためだ。
彼こそが、権力にも虚栄にも興味のない台与が、高天原から定められた目的に向かうのを強力に支えていた。徹底的に大王にすり寄るために、宿禰は大王の意図を阻む者、自分と並び立とうとする者を脅し、貶めて排除した。台与が信頼を置き、大八洲を統べるのに必要とする武人だけを残して。台与だけでなく、武器を振るえない彼自身も武人を必要としたからだ。そうであっても、功を立てた武人に対する羨望や嫉妬は留まるところを知らなかったが。
鷹彦の命が潰えたことが、宿禰は嬉しくてたまらないはずだ。同時に、鷹彦は都でどのように宿禰と対峙していただろうと思わずにいられなかった。彼の手を躱しつつ、生芽に累が及ばぬよう動いてくれたはずだ。安穏と暮らしてきたことが後ろめたくなるとともに、もっと生前言葉を交わしていれば良かったと後悔が襲った。
争って勝たなくてもよい暮らしを、御笠や生芽で許してくれたのは鷹彦だった。騒速の代わりに鷹彦自身がそれを守ることと引き換えに。
行宮の渡殿を歩きながら、騒速は静かな雨音を聞いていた。生芽国と狭依たちは、自分が守る。生芽においてであれ大和においてであれ、彼の引き継ぐべき役割であった。静かに、確かに守り続けてくれた主の足跡をなぞれるかは、まだわからない。誰より強く優しかった彼に、果たしてどれだけ倣えるだろうか。少なくとも自分はこれから長らく、鷹彦の影を探し続けるであろうことは知っていた。
如何なる道であっても、主の通った轍を探し、少しでも彼の面影がある道を辿ろうとするだろう。悲壮な勇猛さを纏いながらも、愛した人と向き合うことを許してくれた、月読の息子の後ろ姿を追って。
確固とした足取りで辞した騒速を、宿禰は見送った。任国や妻子を持って落ち着きが出てきたものの、根が素朴な青年なのは変わっていなさそうだった。
宿禰にひときわ油断ない目を向けるようになったのは、妻の影響だろう。昔から狭依は、決して付け入る隙を見せなかった。身像の姫は用心深い。彼らの謀反を恐れる智舗から、絶え間ない監視を受け続けてきたゆえだ。決して逆らわず、叛逆の気配を見せないことで、今日まで姫神の一族は地位を保っている。
それはつまり、彼女たちは権力を欲する輩と決してつるまないということでもあった。欲深い者と与すれば、利を提供できなくなった途端打ち捨てられる。そうならないよう最初から何者にも頼らず、ひたすら大王に忠誠を示すことで、自らを守ってきた。狭依はその役割をじつに忠実に果たしたと言える。生芽に移ってからは騒速と同じく、素朴な生活に満足しているのか、一度も都を訪れていない。
それで良い、と宿禰は密かにほくそ笑んだ。鷹彦が死したのも、その後騒速や狭依がしゃしゃり出てこないのも、好都合だった。台与に侍り、信頼されるのは自分だけでよい。
宿禰は台与の傍らを独占したかった。だが台与を害するためではない。むしろ、台与の統べる国の弥栄を願っている。だからこそ不思議に思って、宿禰は尋ねた。
「月読の勾玉をお納めにならないのですか」
台与の横顔は静かだった。口元に微かな笑みを浮かべていたが、宿禰には納得がいかない。万を助ける勾玉があれば、台与の力もさらに確かになり、秋津洲の北の果てまで従えることもできるはずだった。
「よい」
高天原は、智舗国を拡げるよう、台与に任を与えた。天から定められた務めを、この娘は充分に承知しているはずだ。出雲を物の力から取り戻したのも、定めを理解していたからこそだ。
「無垢の心を持つ貴女こそが、大八洲を治めるべきでは。勾玉の力を借りればそれが遂げられるからこそ、月読の息子が筑紫洲まで遣わされたのに」
月読の勾玉は、いずれ日の神の末裔に手渡されるべきものであり、鷹彦が流転の末に台与に仕えたのもそのためだ。台与が勾玉の力について口にして以来、宿禰は明に暗にそう伝え続けてきた。台与が異を唱えたことはない。彼女だけに見える理も、きっと同じ物語を示しているはずだ。しかし、台与は緩やかにかぶりを振った。
「今はそう思いたくないのだ。勾玉を日嗣の巫女に届けるためだけに、あれが現れたとは」
恋心を持たないはずの台与が、鷹彦に関してだけは、妙なこだわりを見せることがあった。宿禰がわずかに眉を顰めたのに気づかないまま、彼女は淡々と言った。
「失った臣下は数え切れないが、あれの死だけは私の胸に虚を残すようなのだ」
恋心というのは時に、人ひとりの心に負うには重すぎる。だから台与は誰かに恋い焦がれることはない。日嗣の巫女の心は高天原に従うためにあるのであって、色恋に殉じている暇はない。大八洲を統べるに邪魔な軛から台与を解き放つために、日の神は恋心を取り除いたのだ。宿禰にはよくわかっていた。
台与が再び口を開いた。
「月読の裔を祀る宮を設えよ。あれの平らげた出雲と、熊襲征伐の前立ち寄った橿日に」
「御意」
宿禰はすぐに答えた。
台与は鷹彦に恋い焦がれているわけではない。ただ微かな疼きが、時々胸の奥に現れる程度のようだった。そして宿禰は、生じた疼きが漏れなく消えるよう、細心の注意を払ってきた。今回も台与の心に余計な波風が立たぬよう、宮の造営の命には従おうと思っている。しかし、大きな手間を割いてやるつもりはない。簡素な造りに留めたり、名を変えて祀ることで、月読の息子への注目は最低限に抑えるつもりだった。
宿禰はふと尋ねた。
「生芽には建ててやらなくて良いのですか」
大王は首を横に振った。やはり台与は鷹彦と風読とを遠ざけようとする。科戸を鷹彦の任国とするのも渋っていた。だが、都から鷹彦を引き離したかった宿禰は、科戸国を生芽国と改めることを提案し、台与を説得した。その台与は淡々と言った。
「月読の裔の勲は私の胸だけに刻みたい。あれの姿は深緋の巫女だけが覚えていれば良い」
宿禰にとっては甚だ好都合な話だった。静かに頷いて彼は言った。
「月読の者のことを語る時は、あの者のことと悟られぬように綴りましょう」
頷く台与の横顔を眺めながら、宿禰は薄笑いを抑え切れなかった。長年傍らに侍ったために、宿禰は台与の力の限界を知っていた。深緋の巫女は、見ようとしたことしか見ることができない。だから、疑いもしなかったことについては気付くことができない。




