二 菫
「あの菫という子は?」
並んで歩く志月彦らを見ながら尋ねると、ああ、と騒速は声を上げてから答えた。
「茜の乳母の子です。志月彦に大層懐いて、よく二人で遊んでいます」
「只人らしからぬ目をしているが」
ええ、と騒速は頷いた。緩やかな潮風に、馬の手綱が揺れた。
「あの子の父母は只人ですが、菫は只人ではないのです」
「そんなことがあるのか」
驚いた鷹彦に向かって、騒速は口の端を上げて笑んだ。
「あるようなのです。聞いたことがありませんでしたが」
砂浜を走り回る子どもたちを暫し見つめた後、騒速は再び口を開いた。
「菫は野分を当てます。嵐が来る日の朝は、力なく泣いている」
胸を衝かれたようになって、鷹彦は暫し言葉を失った。同時に視線の先にいた菫が砂の上で転んだ。だが、彼女の手を引いて起こした志月彦とともに、再び元気よく駆け始めた。
「風読の夕星姫もそうだったと、里の者が言っていました。確かですか?」
激しい切なさに胸を締め付けられながら、鷹彦は頷いた。潮の香りが不意に強くなった。
また会おう、と風読は言った。また会える、と台与が言ったのを信じていいものか、今ではわからなくなっていたし、忘れかけてもいた。微かな望みは常にどこかにあって、だからこそ台与の命に躊躇いなく従ってはきたけれど。
しかし姫は、忘れないでいてくれたのだ。級長戸辺の娘は、再びこの国に降り立ってくれた。
「風読は、雷の息子を助けに来るのかもしれない」
鷹彦は、長い沈黙の後に言った。
「あの日伊那佐の浜では、剣が鞘に納められた後も叢雲が消えなかった。風が雲を吹き集めたからだろうと、綺良殿が言っていた。雲を留め、雷を呼びやすくするために」
綺良は石を読むだけでなく、風の気配もまたかぎ分けることができた。蹈鞴を焚くためには、炉を吹き抜ける強い風が要る。風の通り道を探り当てるのも彼女の仕事だった。
「私も同じことを言われました」
過去への形容しがたい思いに見舞われる鷹彦に、騒速は優しい面差しを向けた。
「新たな風読が、志月彦と巡り会ってとても嬉しい。ずっと、どんな人だろうと思っていましたから」
茫然と頷いた鷹彦がこれ以上言葉を持たないのを、騒速は悟ったらしい。静かに鷹彦のもとを離れると、二人の幼子を見守りに行った。黙って彼らを眺める鷹彦の頬を、一筋だけ涙が伝った。鍛えられた武人の手で拭われた雫は、風に吹かれて瞬く間に乾いた。
海風の中でいつまでも、鷹彦は風読と過ごした日を思い返していた。風読は鷹彦の想いに応えることはなかった。だが、風読の傍らにいた時の胸の高鳴りが、鋭い痛みはあれど確かな甘さと穏やかさを持って、静かに蘇っていた。慕った想いが通うことはなかった。だがもう、いいだろう。こうして生芽に還ってくれたのだから。
生芽の花は、散った後また同じ株に花が咲く。その咲き方と、月が満ちては欠ける様子を重ねて、月読の里に生芽の名がついた。一度は攻め滅ぼされながらも、再び月読の息子が戻り、風読の娘が戻った里の名は、奇妙なほど花の命をなぞっているように見えた。
郷里を失った時に十八だった鷹彦の齢は、既に三十と二を数えていた。
中つ国との別れが迫っていることを、彼はまだ知らなかった。明くる年、鷹彦は筑紫洲で突如持ち上がった熊襲国の反乱征伐に赴き、軍場で命を落とした。




