一 帰還
その昔、月読の若者は勾玉を手に、伊伎洲を出奔した。傍らには御雷の娘がいた。
月読の若者が興した里が、やがて風読の里と合一し、科戸国となったことは、皆鷹彦が来るまで知らなかった。落ち延びてきた道のりの長さを思えば、仕方のないことだった。
智舗に落ち延びたまでは良かったが、敵国熊襲が送りこんだ刺客に討たれ、風読の姫は黄泉へと去った。
妻を持つよう勧める者は多かった。鳥船も他の者たちも、死を恐れず捨て身で戦う鷹彦を慮っているのは知っていた。実際、死んでもいいと思っていたのに、彼を負かせる者がいつまでも現れなかっただけなのだ。殺気立って他者を寄せ付けない鷹彦を、人は疎み、恐れた。新しい相手があれば、悲愴も少しは和らぐだろうと言われた。
だがきっと、誰を腕に抱いても風読を思い出してしまう。知っていたから鷹彦は、妻を娶らなかった。
風読を喪った深い哀しみから我に返った時、彼は戦いの中で死にたいと思った。その機会のないまま台与の世が始まろうとした時、戦いを待たずに自分で命を絶つ時が来たのだと思った。
だが、日嗣の儀の前、最後に起こった伊伎の乱で、騒速に会った。ずっと虐げられてきたはずの彼は、不可思議なほどに素直だった。期待に応えようと鍛錬に励む騒速を見るうちに、黄泉へ発とうと逸る心は次第に静まった。御雷の息子は、謂われなく追い詰められながらも、必死に生きて都まで辿り着いた。その少年に、せめて迫害されない暮らしくらいは与えられて然るべきだと思った。彼を召し抱える以上は、生きてその立場を支えるべきだと。
さらに、間もなく日嗣の巫女となった台与が、彼を智舗に仕える身に引き留めた。日向大王やその弟、ひいては智舗に嫌気が差していた鷹彦を、一条の微かな糸が台与につなぎとめた。辿るべき道がまだあるとすれば、それは台与の示す先だという気がした。
「風読の姫は今わの際に、また会おうと言ったでしょう。言葉通り、また会えるわ」
台与は鷹彦の顔を見るなり言った。
「黄泉ではなく、中つ国でのことよ」
その時山門大王は、国と民を失った頃の風読と同じ、十四歳だった。
生芽国を賜ってから、五年が過ぎた。鷹彦は幾年か大和に駆り出されていたが、やっと大王の許しを得て帰路に就いた。幸いなことに騒速も狭依も、生芽によく馴染み、受け入れられていた。鷹彦が十年以上を経て戻った月読の当主で、騒速がその嗣だったからと言うこともある。それに、仲睦まじい二人の姿は、風読の娘と月読の息子を惜しむ生芽国を癒やす役目に、一分の狂いもなく収まった。
桜が盛りを過ぎた頃で、長閑な春の陽が里や山並みに降り注いでいた。国長の館近くの渚へ向かう途中、敷き詰められた桜花の花びらを、馬の蹄が緩やかに蹴散らした。
智舗の都は、御笠から大和に移ろうとしていた。幾つもの宮の造営は既に始まっていたが、大和界隈を治める仕組み作りには長い年月がかかるだろう。台与にとってはまだ、秋津洲を平らげる務めは終わっていない。
だから台与は、鷹彦が生芽へ戻りたいと申し出ると残念そうにした。大和での功績への報いが不満なら、近隣に新たな任国を与えると言われた。だが、出雲で助けられ通しだった騒速に対し、ようやく副官らしいことができた報告がしたいと伝えてやんわり断った。実際は、八女宿禰からの嫉妬と敵視が激しく、ほとほと面倒くさくなって帰りたくなったようなものだったが。
功績を上げる達成感より、人の妬みをあしらう労苦のほうが多い。台与は渋ったものの、大和進出を助けた者の望みを聞かないわけにもいかず、先ごろようやくひと夏の暇をくれたのだった。
山に囲まれた地に長くいたので、潮風はことのほか快かった。渚に着くなり下馬し、手綱を放って波打ち際へと歩く。
快い海風が頰を打ち、髪を靡かせた。寄せては返す漣の音は道中にも聞いたが、生芽の波音は一際懐かしい。砂の上に腰を下ろして、そのままいつまでも海を眺めていた。透き通った潮が、汀を離れるにつれ濃い青色になり、やがて空に溶けていく。久しぶりに少年の頃のことを思い出した。風読はよく、住んでいた館から浜まで馬を走らせていた。そして、漁をする者たちに風向きを教えてやっていた。
茫と海原を見ていると、不意に子どもの甲高い声が響いた。背後を振り返ると、見覚えのある数歳の男児が馬に駆け寄ろうとしている。体が大きくなり、顔つきもいくらか変わっているが、見間違えようもない。騒速と狭依の子の志月彦だった。
鷹彦は立ち上がって彼より先に馬の傍らに行き、手綱を取った。気性が穏やかな馬なので暴れたりはしないが、万が一ということもある。浜の奥まったところに生える松に、手綱を括りつけた。志月彦は馬を追って小さな歩幅で懸命についてきた。
首を撫でてやると、馬は微かに耳を震わせた。志月彦は鷹彦の脇に立ち止まって、彼と馬とを見上げている。目は騒速と同じ射干玉のような黒だが、狭依にもよく似ている。鼻筋の通った顔立ちと、形の良い唇が目立った。
「元気にしていたか」
尋ねると、志月彦は何を言っているんだろうと言いたげにこちらを見た。以前会ったことがあるとは、思いもよらないらしい。幼子は問いには答えず、澄んだ声で聞いた。
「貴方の馬?」
ああ、と答えると志月彦はまじまじと馬の姿を眺めまわした。
「大きくなったら、もらってもいい?」
「良いが、其方が丈夫になる頃には牧から若い馬を連れてきてやる」
伝わったのか伝わっていないのか、ふうん、と彼は呟いた。鷹彦は苦笑した。眼前の馬から彼の関心を離すのは、どうやら難しそうだ。
志月彦は夢中で馬を検分しながら言った。
「菫も乗せてあげるの」
「菫?」
聞き返した時、志月彦よりさらに覚束ない足取りの子どもがそばにやってきた。身綺麗にした同じ年頃の女児だった。
「茜は小さいから危ないけど」
茜姫は彼の小さな妹だ。言いながら志月彦は、菫の髪を撫でてやった。照れたように目を伏せる菫がふと気になり、鷹彦は膝をついて二人のそばに屈み込んだ。菫は硬く組んだ自分の手に目を落としていたが、不意に上目遣いに鷹彦を見やった。鷹彦に向けられた視線は強く、目を逸らすことを許さない静かな光があった。
只人ではなかった。
「鷹彦様」
いつの間にか近くに現れていた騒速が、馬を引きながら近づいてきていた。我に返って顔を上げた鷹彦に、快活な笑みを向ける。背後には、若い侍従がもう一頭の馬を引いていた。
「よくぞお帰りくださいました」
二人の子どもたちは連れ立って渚のほうへと歩き出した。騒速につられて口元を綻ばせながら、鷹彦は言った。
「元気そうだな」
「ええ。狭依と茜も元気にしております」
朗らかな騒速の笑顔は眩しいほどだった。都で複雑な人間模様に悩まされるより、好いた相手と生芽で暮らす方が、幸せなのは明らかだ。
台与はさらに国を拡げるつもりだが、騒速ではなく自分がそばに仕える方が、この先も良いだろう。謀略がせめぎ合う都へむやみと向かわせる必要はない。狭依の傍らにいることの方が彼には重要なのだ。
「志月彦が挨拶もせず、すみません」
「構わない。私のことは覚えていないようだ」
穏やかに苦笑して、鷹彦はかぶりを振った。最後に会った志月彦は二歳で、茜に至っては目も開いていなかった。無理もないことだ。




