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八 翡翠

「俺の方こそ、嫌味を言ってごめん」

 狭依はすぐにかぶりを振り、切羽詰まった口調で言った。

「藤見で貴方と会いたいと思っていたの。鷹彦様は貴方に出かけるよう言ってくださったし、姉様も鳥船様も、見かけたら二人で話せるよう膳立てしてくれるはずだった。でも、台与様を探すうちに、夜が更けてしまって」


 藤見に行くよう鷹彦に何度も言われたこと、狭依を見なかったか多岐都に訊かれたことを思い出した。皆の妙な振舞いは、狭依に手を貸そうとしてのことだったのだ。驚きに騒速は口を半開きにした。

「やっと見つけたと思ったら、台与様と貴方が一緒にいて――何の咎もない貴方に八つ当たりしてしまった。きっと貴方は、優しい台与様といたかったんだと思って」


 では、あの異様な剣幕は、騒速に会いたくて準備をしていたからこそだったのだ。狭依は涙ぐみながら切々と釈明していたけれど、どうにも拍子抜けのする思いだった。

「――言ってくれればよかったのに」

 思わず呟くと、狭依は涙目のまま憤然と彼を見据え、ひときわ声高く訴えた。

「だって貴方は、私を避けていたじゃない!」

「ごめん」

 間髪入れずに騒速は謝った。身に覚えがあるだけに、釈明のしようがなかった。


「素っ頓狂なことを言って君に訂正されるたびに、自分が賢くないのが嫌になって」

「話す方法が、それ以外に思いつかなかったのよ。鷹彦様の麾下を難なく務める貴方に、一目置かれたかったし。でも本当は、揚げ足取りじゃなく貴方と話したかった」

 出会ったばかりの頃は、狭依の美貌に平常心で向き合えず、自分から話しかけようなどと到底思えなかった。さらに、皆のいる場で彼女が声をかければかけるほど、騒速は距離を取ろうとした。今思うとまるで愚かだが、狭依を好きなことにもはっきり気付いていなかったのだ。


「狭依のように賢い人が、話してくれるなんて思えなかったんだよ。俺は伊伎の山猿に過ぎないし――」

 狭依が涙を目にためて唇をひん曲げたので、騒速は兎にも角にももう一度謝った。

「ごめん。俺がもっと落ち着いて話せればよかったんだけど」

 狭依はまだ何か言いたそうだったが、ひとまず気持ちを静めてくれたらしい。別のことを尋ねてきた。

「私が話をしたがらないと思ったの?」

「俺は腕っ節以外に取り柄がない。鷹彦様と違って」


 狭依はどこか呆れたように小さく息をついた。

「出雲一の偉丈夫に勝ったというのに、本当に驕らないのね。貴方ほどの武勲を立てたら、強さを誇って当然なのに」

 はあ、と騒速は気の抜けた声を出した。強くなりたかったのは、生きるために立場が欲しかったからで、ひけらかすためではない。


「知恵が足りないから、腕を鍛えただけだ。強くなれば、余計な喧嘩を挑んでくる相手はいなくなる。喧嘩というか、都の場合は駆け引きやら謀略だけど――そういうことは、賢くない俺の手には余るから」

「小手先の駆け引きでは、出雲で起こっていることに対峙できなかったでしょう? 思い切りのいい貴方だからこそ、任を果たせた」

 狭依は不思議な生き物でも見るように騒速を眺めたが、騒速のほうこそ狭依の言うことが不思議だった。未熟者でしかない自分を、そんな風に見てくれていたとは。


「それに、そう思うのは優しいからだわ。貴方が戦うのは、主命を果たす時だけ」

 優しいなどと――いや、姉だけは昔言ってくれたっけ、と騒速は思い出した。彼の目が凛々しくも優しいのは、騒速の心根を映し出しているからだと。

「理由もなく剣大刀(つるぎたち)や拳を振るったりしないよ。振るわれる側は痛いと知っている」

 狭依はなおも騒速の顔を矯めつ眇めつした。ゆっくりと口を開く。

「辛い思いをした後、恨みに囚われる人も多いのに、貴方はそうしないのね。人に寄り添うことに役立てる。だから綺良姫が貴方を信じた」


 綺良の名前を聞いて、騒速は首元から翡翠の勾玉を取り出した。まだ餞をもらった礼を言っていなかった。

「玉をありがとう。狭依がくれたものだと、出雲でようやく気づいた」

「台与様からだと思ったんでしょう。でも仕方なかったわ」

 しょげた顔をして狭依は呟いたが、怒ってはいなかった。

「藤見の時に言ったことからは、とても私が貴方を慕っているとは思えなかったわね」


 うっかり頷こうとした騒速だったが、思いとどまってから言った。

「ずっと後悔していた。君がくれたと気づかなかったことも。憧れていた君に、何も言えずに発ってしまったことも」

 掌に翡翠を載せてみせると、狭依は安堵したように微笑んだ。つられて騒速の口元も綻ぶ。還る道のりは長く、任の重さは途方もなかった。でも、それらすべてはいとも簡単に報われてしまった。


「御笠を出てからずっと、狭依のことが頭から離れなかった」

 狭依は懐かしそうに勾玉に触れた。細い指を騒速の手が包むと、はっとして彼を見上げる。夏の日に透ける鳶色の目を瞬くと、まだ残っていた涙が白い頬を伝った。

「お渡ししてよかった」

 恥じらうように少しだけ目を伏せ、小さくなった声で狭依は言った。

「鳥飛をしている間、姫神様の玉が貴方への道を教えてくれた」


 雀の姿の狭依が探し当ててくれたのは、勾玉が彼女だけに見える道を示したからだったのだ。魂が見えないと言いながら、倒れた自分のもとに来てくれた理由が腑に落ちた。

「気になっていたんだけど――そんな凄い力を、どうして隠してるんだ」

 狭依は小さく息をついてから言った。

「身像は、智舗に逆らわないことで生き延びると決めた国なのよ。鳥飛(ととひ)をはじめ、力を隠すことに心を砕いてきた」


 身像国は、古くからただならぬ存在感を放ってきた。だからこそ、智舗が最も警戒する相手の一つだ。智舗を脅かす力などないと見せることが、最も肝要だったのかもしれない。

「でも伊都で、台与様は私の鳥飛を見てしまった。それから鳥飛をされるようになった。普通、見ただけでできるようになったりしないのだけど。和香彦殿を訪ねた時も、狭依は力を知られては困るだろうと言って、ご自分で鳥飛をされた。まじないが台与様を拒むようになったから、最後は私が行ったけれど」


 身像の姫として最善の行動ではなかっただろう――勾玉を託してくれたことも、鳥飛をしてくれたことも。そして狭依は、そのことを百も承知だったはずだ。握っていた狭依の手を引き寄せ、もう片方の手で涙を拭ってやると、白い頬にさっと朱が差した。

「助けてくれてありがとう。おかげで還ってこられた」


 騒速は微笑んだ。綺良によれば、騒速が死にかけていた時に喋る雀が現れ、桂の力を借りて彼の魂を追いに行ったという。昏倒していた間のことは覚えていないが、ずっと会いたかった人の声を聞いたことは、朧に思い出せた。狭依は騒速を、黄泉から連れ戻してくれたのだ。

「狭依に逢いたかった」

 狭依はようやく屈託のない笑みを浮かべた。堪えてきた寂しさを溢れさせながらも、晴れやかで眩しい笑顔だった。


「私も貴方に還ってほしかったから」

 笑みを返しながら騒速は、味わったことのない甘美な苦しさが胸を締め付けるのを感じた。切ない温かさが体を満たして、自然と頬が緩む。慕った相手が同じ思いで応えてくれることは、これほど深く心を揺るがし、また満たしてくれることだったのだ。同時に、狭依に告げるべきことをもう一つ思い出して、騒速は唇を引き締めた。


「鷹彦様と俺で、科戸改め生芽国と、穴門国を賜った。二人で二国を治めよということだけど、鷹彦様はこれからも都へ呼ばれると思う」

 台与は優秀な鷹彦の任を解きたくないと言ったが、騒速については好きにしていいと言った。人あしらいや覇権争いの苦手な騒速を慮ったのだろう。騒速もまた、都が自分の終の棲家になるとはどうしても思えなかったので、できれば任国で鷹彦の分も働きたいと言った。


「鷹彦様がいる時もいない時も、上手くいかないことが沢山あると思う。失望させるかもしれないけど、でも」

 騒速は緊張で高鳴る鼓動を抑えて、狭依のはしばみ色の目を見据えた。

「良かったら、俺と一緒に生芽で暮らしてほしい」


 狭依は不思議そうに騒速の顔を見つめ返していた。唖然としているのかもしれない。猛烈に自分の言葉を顧みて、騒速は目まぐるしく考えを巡らせた。遠くへ来てほしいと言うのに、弱気すぎただろうか。妻になってほしいと伝えたかったのに、言い方があまりに頼りなかっただろうか。じりじりと葛藤する騒速の前で、狭依が口を開いた。

「そういう時のために、私がいるのではないの?」


 言われた意味がわからず、騒速は呆気にとられた。だが狭依は落ち着き払っていた。

「姉様たちに知恵や器量では敵わないけど、私は身像の姫なの。一国を統べる人たちが何を考えるか、大体はわかる。台与様の傍らで数多の人に会ったことでもあるし」

 励ますように口の端を上げ、狭依は続けた。

「鳥船様や鷹彦様を助け、綺良姫から信を得た貴方なら大丈夫だと思う。でも何かあったら、私も役に立てるわ」

 少しだけあどけなさの残る、でも誇らしげな笑みを浮かべて、狭依は騒速を見上げた。


 自分よりずっと背丈の小さな少女を、騒速は驚きながら眺めた。長らく憧れていたのは、狭依の麗しさだったろうか、聡明さだったろうか。最早よくわからないが、それでも問題はなかった。

 持てる強さも立場も、騒速は狭依の傍らを居場所とするため役立てたかった。願うらくは、狭依が自分の中に見つけてくれた優しさを、彼女に向けていたい。狭依が小さな身の裡に隠し持つ強さを、騒速のために用いてくれたように。


「出過ぎたことを言った?」

 急に黙り込んでしまった騒速を訝って、狭依は首を傾げた。騒速はかぶりを振った。

「やっぱり俺は」

 胸が苦しくなりながらも、壊れそうに華奢な体に腕を回した。細い背中に手を添えて抱き寄せると、狭依は一瞬驚きに身を強張らせた。だが、柔らかい躰からはすぐに力が抜け、騒速の胸板にしな垂れかかるようにして肩が委ねられた。


「強くて優しい君が大好きだ」

 狭依を抱きしめているはずなのに、広く触れ合った柔膚に抱かれるような感覚に襲われた。騒速はそのまま暫くの間、微かで心地よい眩暈に身を任せていた。

 樹上で桂の梢が、夏風に揺られて静かに鳴った。どこから飛んできたのか、碧玉のような羽を煌めかせる翡翠がやってきて、枝の上から二人を暫し見下ろしていた。




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