七 復命
出雲の者たちは、国主の血筋を祀り続けてよいなら、水潟彦がかつて考えていた社を建ててほしいと言った。見上げるような高床の社と、社への長い階を設えた宮だ。出雲の工は、水潟彦が語った壮大な案を、かねてより実現したかったらしい。
鳥船は、智舗の最初の遣いだった忍彦から出雲の内情について聞きつつ、出雲を如何に治めるか重臣たちと合議を重ねた。
忍彦は再び智舗の臣下になることを承知し、出雲でも働きぶりが認められていたことから、思いがけず鳥船を大きく助けた。彼がいたから出雲の人々は、叢雲剣を渡してくれたようなものだ。さらに、綺良が迷わず恭順を示したことで、出雲の南部の人々も早々に従ってくれた。
やがて御笠の都から、加勢の働き手が数多杵築に渡ってきた。その中には八女宿禰もいた。どうやら彼は、出雲で目覚ましい活躍をした騒速らに、歯ぎしりせんばかりの嫉妬を抱いたようだ。山門大王が鷹彦と騒速に都へ還るよう命じていると、恨めしそうに伝えた。その後は一言も口を利かなかった。
騒速の怪我は癒えており、鷹彦も水潟彦を追った先から戻ってきていた。宿禰の伝言を聞いた鳥船から許しも出たため、鷹彦と騒速は翌朝、都への帰途に就いた。御笠に辿り着いて大王の館を訪ねると、すぐさま台与の前へと通された。
「よくぞ還った」
日嗣の儀式以来の豪奢な衣に身を包んで、台与は二人を迎えた。傍らにいたのは狭依ではなく、最も若い侍女だった。少々落胆しながらも、騒速は内心で嘆息して台与を眺めた。
いっそ幼いほどに若々しい台与は、溢れんばかりの生命に満ちている。眩いほどに白い肌も、黒々とした瞳も、鮮やかな紅の引かれた唇も。
「月読の息子鷹彦と、御雷の息子鎚彦」
晴れやかな笑みを湛えて、台与は淀みなく言った。
「蛟と大蛇を倒し、水潟彦を封じて出雲を智舗に降らせた」
恭しく礼をした鷹彦は、淡々と述べた。
「すべて鳴神の子の成したこと」
やられた、と騒速は咄嗟に思った。主はそう告げることを決めていたに違いない。戸惑う騒速をよそに、台与は口の端を上げて笑んだ。
「そう言うと思っていた。だが、剣と月読の勾玉で騒速を助けただろう。それに、水潟彦が洲羽に留まるよう諭した」
鷹彦は礼をしたまま顔を上げず、台与の言葉に頷きもしなければ否みもしない。如何にも彼らしい答え方だった。台与もそう思ったのか、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「恩賞は其方ら両名に賜える」
静かだがはっきりとした言葉に、騒速は思わず背筋を正した。
漠然と、これまで通りの暮らしに戻ることはないと感づいていた。内乱を平定して回った昔と違い、この度智舗は新しい領土を手に入れた。その何処かに任じられるであろうことは予想がつく。満ち足りた笑みを鷹彦と騒速の両方に向けて、台与は落ち着いた声で述べた。
「月読の息子は科戸の国長に、御雷の息子は穴門の国長に封ずる。ただし御雷の息子が当主でなく嗣である間は、当主が嗣を、嗣が当主を助けながら治めること。互いを助け、互いの役割を兼ねて両国を治めよ」
伸ばした背筋から、思わず力が抜ける。嬉しい驚きと強い安堵が、いちどきに込み上げた。鷹彦は長い離別の末に郷里を再び手にし、騒速は敬う主の隣で任国に住まうことができる。加えて、要衝である穴門国を任されることは、篤い信頼の証だ。
台与はさらに続けた。
「二つの国を束ねて統べることになるであろう。その際は科戸国を主、穴門の国を従とすること。また、科戸国は名を生芽国と改めることとする」
科戸国のうち、月読命の末裔が治めた里は生芽と呼ばれていた。月読の息子である鷹彦が国長になるにあたり、名前も月読の里に倣うことになるのだ。
「物言いがあれば申すがよい」
堂々と告げた余裕ある笑みは、彼らが発つ前のあどけなさとはどこか違っていた。以前はただの快活な少女に見えることもあった深緋の巫女は、いつの間にか恬淡として有無を言わせぬ君主になっていた。それとも、以前からそうであったことに、今騒速が気づいただけなのだろうか。
「ございません」
傍らで鷹彦が静かな面持ちで言った。台与に尋ねるような笑顔を向けられ、騒速もまた答えた。
「仰せのままに」
生芽について訊きたいことがあると言って、台与は鷹彦を引き留めた。騒速はひとり解放され、鏡の間を辞した。騒速の去り際に台与は笑顔で、近くの庭で桔梗がよく咲いているので見ていくと良い、と告げた。
今しがたの辞令を聞き、騒速は嬉しさと驚きで頭を一杯にしていた。だが幸い、台与の言わんとすることはすぐにわかった。
騒速はほとんど走るようにして、青紫の桔梗が咲き誇る小さな庭に辿り着いた。春に狭依と話したあの庭である。急いであたりを見渡すと、葉を茂らせる木立の陰に、千草色の衣がちらと見えた。夏の空のように淡い青を纏った人は小柄で、こちらに背を向けているようだった。
心当たりは、一人しかいなかった。
騒速は瞠目し、次の刹那には回廊から庭へ手すりをまたいで飛び降りた。無我夢中で駆け寄ってみると、庭木の脇に佇んでいたのは、やはり狭依だった。狭依もまた、騒速に気づいて彼に駆け寄ってきた。彼女らしからぬ、どこか切迫した、機敏な動きだった。
「狭依――」
呼びかけてから騒速は言葉に詰まった。正面で立ち止まった狭依は、美しい衣を纏っているだけでなく、紅も引いていた。丁寧に梳られた垂髪は艶やかだ。夏の陽を浴びて、白い肌は目を細めたくなるほど眩しい。胸が苦しくなると同時に肩から力が抜ける感覚に襲われて、暫し彼は呆けたように何も言えなかった。
狭依はどこか自信なさげに彼を見やっていた。突然口ごもった彼を奇怪に思ったのだろう。挙動不審は充分承知しながらも、騒速は思わず尋ねた。
「どうして此処に――そんな装いで」
明らかな戸惑いが顔に浮かんだものの、狭依は騒速から目を逸らさずに答えた。
「貴方が来るから、此処で待っているようにと、台与様が。衣を内緒で貸してくださって」
鏡の間に、狭依がいなかった理由に合点がいった。普通は貸したりできない衣を、狭依に着せてやるためだったのだ。騒速は改めて狭依を上から下まで眺めまわした。どこからどう見ても、今までで一番綺麗だった。日嗣の儀式で初めて見た時以来に、誰かの美しさに言葉を失った。
狭依は棒立ちになる騒速を黙って見つめていたが、やがて急に目を潤ませて顔を背けた。
「やっぱり怒っていらっしゃるの」
「何が?」
素っ頓狂な声で尋ねてから騒速は、半ば茫然と沈黙の理由を説明した。
「覚えていたより綺麗で、言葉が出なかった」
呆気に取られた顔をした狭依の目に、みるみるうちに涙がせり上がった。当惑した騒速が口を開く間もなく、狭依ははらはらと涙をこぼし始めた。そして消え入りそうな声で呟いた。
「ごめんなさい」
「……何が?」
今度はひどく焦りを覚えながら、騒速は尋ねた。狭依は涙を拭いもしないで言った。
「吉備へ発つ貴方に、酷いことを言った」
驚いたが、藤見の夜のことだと思い至った。狭依の言葉にひどく動揺し、冷淡な態度をとってしまったのが、遥か前のことのように感じた。
「鷹彦様だけが秋津洲に行けばいいと思ったんじゃないの。貴方が任に相応しくても、遠くで危ない目に遭ってほしくなかった」
訥々と説明し始めた狭依だったが、謝ってほしいなどとは思っていなかった。むしろ、自分の放った言葉に狭依がどんな顔をしたか思い出すと、今更ながら申し訳なかった。




