六 夕星
薄紅の夕暮れの空を、騒速は風を切って飛んでいた。眼下には緑に覆われた平野と、互いに折り重なるような山並みが広がっている。どこに向かっているかは知らなかったが、すべての重みから解放されて飛ぶのは心地よかった。悩みを最早捨てていいのだと本能的にわかっており、それがさらに心を軽くした。何を悩んでいたかはうまく思い出せなかったが。
もう誰に追い詰められることもないし、追い詰められないよう手立てを考えることもしなくていい。他に何を望むことがあるだろう。
棚引く雲の向こうに、夕星が微かに顔を見せていた。美しい星影に向かって飛ぼうとしたが、風は穏やかなのに星は頻繁に雲の後ろに隠れ、うまく見えない。苛立ちながらも騒速は夕星を目指して飛ぶことにした。正しい方向に進んでいるという確信があったから。
下界の山野も、飛んでいる空も静まり返っている。頬や体に風は感じるけれど、音はしなかった。静寂の中、何にも阻まれることなく飛ぶことは快い。ふと脇を見ると白い翼があって、自分が鳥になっていると気づいた。不思議な気はしたが、深く考えることではない。もうすぐ体も心も手放すのだから。
ところが、不意に性急な呼び声が響いた。
「騒速殿!」
何も聞きたくなかったので、騒速は無視して飛び続けた。声はやや離れた後方から聞こえたが、再び響いた少女の声はすぐ近くに迫っていた。
「騒速殿、騒速殿」
呼びかける声音は切羽詰まっていたが、答える気はなかった。頑なに沈黙を守っていると、少女はさらに語り掛けてきた。
「どうか戻ってきて。このままでは黄泉の国に入ってしまう」
誰だか知らないが余計なお世話だった。騒速は微かにかぶりを振って言った。
「放っておいてくれ」
「放っておけるわけないわ」
間髪入れずに言い返され、騒速はげんなりした。どうせ自分の言葉を聞いてくれないのに、なぜ話しかけてくるのだろう。
「死んでしまうのよ」
「それでいい」
捨て鉢な気分で言い捨てると、またも間を置かずに言葉が返ってきた。
「いいわけないじゃない。貴方には待っている人たちがいるのよ」
夕星は雲の向こうに完全に隠れてしまった。目指す方向は変わらないのに、なぜだかひどく飛びにくくなった気がする。
「鷹彦様はとりわけ心配しているはずだわ」
聞かされても、名前の主のことはよく思い出せなかった。ただ、はっきりと思い出せることもあった。
「俺がいなくなっても、どうということはないよ。皆、大事な人が他にいるんだから」
ぽつりと騒速は呟いた。半分自棄で口にした言葉は、妙に胸にしっくり来る。ずっと口にするのが怖かったことも、もう恐れることはない。今度は自分が去るのだ。誰に置いて行かれることもない。
だが少女は、怒ったように声を高くした。
「何を言うの。貴方が決めることじゃ――」
「これ以上のことは二度と成し遂げられない」
相手の言葉を遮って、騒速は声の震えを抑えながら言った。突然、めそめそした気分が込み上げてきて泣きそうになっていた。
誰かが間違いなく自分だけを重んじてくれていると思えたら、どんなにいいだろう。でも、どこにもいない相手を想い続ける者には、そうした騒速の渇望など、目にも留まらないのだ。誰かを大切に想い、頼みにしていても、それは騒速一人が抱く気持ちでしかない。相手にとっては特に意味のないことなのだ。自分以外の誰かを想い続ける人とは、いくら心を分かち合いたくても叶わない。いつかは身も心も、置き去りにされる日が来るのだから。
何かを成し遂げることだけが、存在を許されるための手段だ。手柄をあげれば主君が立場を確保してくれる。顧みてもらえる――少なくとも、暫くの間は。だがそれも最早、続けられる気がしない。
任を果たせば達成の喜びはあるだろう。でも、次の任を遂げられるか、謀略の駆け引きを撥ね退けられるほどの功績が立てられるか、確たる見通しなどない。そして、いくら立場を守っても、それは心の平安とはまったく別だ。功を立てても立てなくても、独り取り残される時はいつかやってくる。
「立場を守るために手柄を立て続けることは、俺には無理だよ。もう力は尽きてしまったし、そうする理由だってない。俺がもう、そうしたいと思わないんだから」
目を潤ませながら呟くと、相手は沈黙した。
「俺はもういい。都で充分幸せだったから。束の間でも、役目を果たしていれば、人に顧みられることができた」
自分の腕を見込んで、仕えさせてくれる人がいたのは恵まれていた。誰かが働きを見てくれるというのは有り難かった。でもいつか、騒速が成果を上げることができなくなったら、皆離れて行く。任を果たせない武人を誰も庇えない。
ところが、相手のほうは全く納得した様子がなかった。
「勝手に決めないで」
言ったかと思うと、再び騒速が驚くほどに声を高くした。
「私は貴方にもう一度会いたいの! それが理由では還ってきてくれないの?」
騒速は答えられなかった。紅く染まる雲に覆われてしまった夕星のほうを見ながら、暫く考え込んでいた。触れられたくないことにいちいち言及されるのは疎ましかったが、前に何度もこんな感覚を味わった気がした。そしてそれは、不思議と懐かしい。声にも聞き覚えがある気がする。浮き沈みの激しさには少々困らされるけれど、一方で大したことではないとも思えた。
ずっと騒速の聞きたかった声だったから。
誰からも置き去りにされたくないという恐れは、まるで勢いを失った。今までずっと、心の奥に巣食い続けてきた静かな恐れが。
「不思議だな」
騒速は独り言ちるように言った。心からの実感を持って付け加える。
「俺も君に会いたいと思っていたんだ」
胸の奥に湧きあがった言葉は、自然と声に出た。途方もない役目でも、彼女に会いたいと思っている間は足が竦まなかった。忘れていたことが不思議なほど、確かな想いだった。何としても還って、話をしたいと願っていたのを思い出す。生きるために役割を果たすだけでなく、その人のもとに還るために、任を遂げたいと思えたのだ。
「還ってきて。ずっと待っているの」
そしてどういうわけか彼女の方も、騒速に会いたいと思ってくれていた。多分、とても強い気持ちをもって。これほど取り乱して声を上げる姿は見たことがない。いつだって彼女は取り澄まし、落ち着き払っていたのに。
急に静かになった声が言った。
「私を置いて、黄泉に行かないで」
胸の中の寄る辺ない気持ちは、とうとう跡形もなく消え去ってしまった。
どうかそんなふうに泣かないでほしい、と思う。別れの悲しみがどれほど強く心を苛むかは、知っている。離れたくなかった人が、すすんで別離を選んだ時の絶望のことも。よりにもよって彼女が、自分の不在で心を裂かれるなんて嫌だった。
するべきことは決まっていた。
「還って、君に会いに行く。だから、泣かないで」
相手が少し言葉に詰まった気配がした。もう怒りではないようだった。
「だったら、来た道を戻って飛んでいかなければ」
すっかり落ち着いた声で言われて、うん、と騒速は大人しく呟いた。
「着いてきて」
穏やかな言葉に従って羽ばたき、飛ぶ向きを変えた。身を翻すと、相手の姿が初めて目に入った。鮮やかに輝く碧や翠、橙の色を纏う翡翠が、小さな羽を懸命に羽ばたかせている。珠のように煌めく翼は黄昏時の陽を浴びて、目を奪われるほど美しかった。これほど見目麗しい鳥を見たのは初めてだった。
翡翠の後について騒速は飛んだ。体はずっと小さいのに、なぜか翡翠の方が速く飛べるようで、遅れずついて行くためには強く羽ばたかねばならなかった。時折苦しく感じたけれど、翡翠の姿ははっきりと見えていて、追って飛ぶのに迷うことはなかった。
一緒に飛び続けてだいぶ経った頃、騒速はふと思い出して背後を振り返ってみた。雲間からいつの間にか姿を現した夕星が、騒速を励ますように、束の間瞬いた。




