五 雀
部屋の寝床に横たえられた騒速の顔は、傾く陽に照らされているのに蒼白なままだった。綺良は自身も青ざめた顔をして、ひとり彼の伏せる傍らに腰を下ろした。白雲が空に棚引く中、回廊の向こうに見える庭で桂や桜の木が時折葉をさわめかせている。
浜から逃げた水潟彦を追って、鷹彦は去ってしまった。同じく姿を消した言代彦は、智舗の夷守によれば三穂埼で森になり、隠れてしまったという。
ありえない話だと誰もが思ったけれど、ことの次第を入海の上の舟から眺めていた漁師たちも、杵築へ飛んできて同じことを言った。ずっと三穂埼にいた言代彦を知る者たちの言葉は、まず本当だと思われた。
言代彦は出雲から――中つ国から姿を消してしまった。期待を寄せていた相手を失い、綺良は虚ろな目で放心したままだった。彼の失踪を差し置いても、あまりに多くのことがあったために皆が打ちひしがれていた。臥せってしまった八千矛彦をおいて、館の人々は、智舗の者が何を考えているのか綺良を質問攻めにした。その度に綺良は、同盟で国を拡げてきた智舗は、出雲にも苛烈な制裁はしないはずだと答えた。実のところ、綺良だって先のことはわからなかったけれど。
鷹彦が伊那佐の浜を離れた時、なぜか自分に預けていった短剣を膝に置いたまま、綺良は茫然と騒速の瞼が開くのを待った。騒速の手当てをした薬師は既に此処を去った。もう騒速自身の体力に委ねるしかないと言って、赤目の手当てをしに行ったのだ。
独り沈黙に沈んでいた時、突如小さな影が目の前に飛び込んできて、綺良は面食らった。矢のように飛んできたのはよく見ると小さな雀だ。瞬きする綺良の前で雀は両の羽を広げ、床板から膝に飛び乗ってきた。
「金屋子の姫、金屋子の姫」
澄んだ少女の声が聞こえて、綺良はあたりを見回した。身をよじって回廊を見やったが誰も見あたらない。当惑していると、雀が一層激しく飛び跳ねた。
「此処です、此処です」
まさかとは思いつつも、確かに声は膝の上から聞こえている。信じられないまま雀を見つめていると、おそらくは綺良と歳の近いその声が言った。
「騒速殿の魂が見えないの。どうしたらいいのでしょう」
はっと目を瞠って、綺良は今朝偶然出会った鷹彦の言葉を思い出した。智舗の者が鳥に魂を宿らせて、奥出雲に急を知らせに来た。夷守は配下を奥出雲へ差し向けたので、早く鷹彦に杵築に来てほしいと。自身も鳥の声を聞いた村君の長が、鷹彦を人質の身分から解放した。杵築に着いた鷹彦は翌朝、国主の館の上空に雲が逆巻くのを見て異変を察知し、駆け付けた。そして、言代彦を追って来た綺良と、館で鉢合わせしたのだ。
「貴女は、智舗の」
驚いてつっかえながら呟いた綺良に、雀は懸命に頭を縦に振ってみせた。何だかずいぶん痩せた雀だ。白い腹の羽も汚れている。奥出雲と杵築を行き来して、消耗してしまったのだろうか。
「騒速殿の魂が見えないの。どうか力をお貸しください」
涙声で、ほとんど叫ぶようにして雀は言った。必死の訴えに綺良の胸は痛んだ。自分にできることはないと、よくわかっていた。傷を癒やす方法があったら、今に至るまでに手が打てていただろう。
「すまないが、私にもできることがないんだ。貴女のように魂を飛ばすこともできないし」
沈んだ声で、だがはっきりと綺良は言った。精一杯助けを求める少女に、嘘はつけないと思ったからだ。雀は煩悶するように俯いて暫く綺良の腿の上を歩いていたが、やがて再び顔を上げて尋ねた。
「金屋子の姫は、何かに力を借りることはない?」
どういうことだか、始めは意味が分からなかった。だが、戸惑って目線を上げた時に庭の木立が目に入って、ふと思い出した。金屋子神の娘に生まれたからこそ借りられた力が、一つだけある。綺良が仲立ちとなれば、あるいは力を貸すことができるだろうか。わからないが、望みにかけてみようと思った。
「ついてきてほしい」
鷹彦の短剣を脇に置こうとすると、雀が羽を大きく広げて言った。
「月読の勾玉を持っていらして。そうでないと言葉がしゃべれないの」
言われるままに短剣を腰の帯に挿して、綺良は立ち上がった。部屋に隣接する回廊の手すりを乗り越え、庭に飛び降りる。
「金屋子神は、中つ国に来られた時、白鷺に乗って桂の木に降り立った。だから金屋子神の娘は、桂の木のもとで夫に出会う」
綺良が赤目に初めて会ったのも、神木の根元に座っていた時だった。夫を見つける時に限らず、桂の木は何かと金屋子の姫を助けてくれると伝えられる。今までは意味がわからなかったが、今日その時が来たのだとしたら。庭を横切って走る間、雀は綺良の傍らを飛んでついてきた。
「貴女は騒速殿が好きなんだね」
雀は答えなかった。あるいは、頷いていたのに飛んでいるせいで動きを見逃したかもしれない。
「桂の木が騒速殿と近づけてくれればいいが」
太い幹をした大きな桂の根元に着いて、梢を見上げた。蹈鞴が燃え続けるのと同じ三日三晩の間だけ、炎の色の花を咲かせる木は、今はただ青々と葉を茂らせている。
「ありがとう」
綺良の耳元を通り過ぎながら囁いた雀は、すぐさま上空の枝を目指して飛んで行った。名前を聞こうと口を開きかけた時には、既に雀の姿はどこにも見当たらなくなっていた。




