四 遁走
馬の嘶きで目を覚ました水潟彦は、激痛に見舞われて呻いた。一体何があったろうか。智舗の遣いの息の根を止めようとしたはずだ。見渡すと、智舗の若者が砂浜に倒れているのが見えた。
傍らには、金屋子の姫とともにやってきた、智舗の武人が膝を突いている。奥の宮で配下に足止めさせたはずなのに。彼は歯噛みした。館の者たちが遠巻きに、こちらを恐る恐る見守っている。水潟彦が起き上がったと何人かは気付いたはずだが、寄ってくる者はない。
自分が敗れたことを、水潟彦は痛切に思い知った。若者は大蛇に降らせた雷を、どうやってか彼にも当ててみせた。金屋子の姫が、あの者の雷は剣に落ちると話していたから、叢雲剣は祝が鞘に収めるに任せたのに。智舗の遣いを排し、出雲を守った者として崇められるはずが、最早叶わなくなってしまった。
彼を起こした馬に鞍はなかったが、轡と手綱はついていた。水潟彦は乱暴に手綱を掴んで引くと、痛む体に鞭打って馬の背に這い上がった。大男に突然騎乗された馬は悲鳴のように嘶いたが、構っていられなかった。馬の声を聞いて振り返った智舗の武人から、やにわに鋭い声が飛んだ。
「待て」
従う気はなかった。水潟彦は馬の脇腹に強く蹴りを入れ、目一杯馬を駆った。全身の傷が動かずとも痛むところ、馬上の揺れは否応なく激痛をもたらした。だが背後から追ってくる蹄の音に気付いた以上、走り続けるしかない。音は近づくこともなかったが遠ざかることもなく、執拗に彼を追った。
意恵を過ぎる頃に身をよじって見てみると、追っ手はやはり智舗の武人だった。水潟彦が丸腰なのに対して、大刀を佩いている。捕まれば殺められるに違いない。しかも、逃げ続けるうちに杵築の目が及ぶ地はとうに出てしまっていた。日が暮れても、明けても、彼は馬を駆り続けた。疲労の限界を超えた頃には、最早体の痛みも遠ざかり、ただ目を爛々とさせながら手綱を握りしめているだけになった。
やがて馬が泡を吹いて倒れてしまうと、水潟彦はまろぶように下馬した。山道を必死で駆け下る。隠れる場所を見つけなければとあたりを見渡したが、同じく疲弊しきった馬を捨て、智舗の者が追ってきていた。
見通しの良い道には隠れる場所がなく、脇の藪に飛び込めば逃げ足が遅くなる。隠れられないまま走り続けた後、水潟彦はふと顔を上げ、前方に差しかかった枝垂れの向こうを見透かして愕然とした。森に囲まれた道は間もなく途絶え、遥か遠くまで広がる水海が待ち構えている。
突進するように枝垂れを通り抜けたけれど、なだらかに湖面へと下る斜面には木立も茂みも、身を隠せる物陰もない。水辺まで走った後呆然と佇み、水潟彦はどこまでも広がる鏡のような水面を眺めた。
間もなく追っ手が枝垂れを通り抜ける物音がした。目を見開いて背後を振り返る。武人は大刀を抜き払い、水潟彦へ切っ先を向けながら近寄ってくる。恐怖のままに後ずさりし、湖面に足を踏み入れた彼は、水底の石に足を取られて後ろ向きに転んだ。足を水に浸からせ、両手を突いて、彼はなおも後ずさろうとした。腰が抜け、立ち上がることができない。体のどこもかしこも激しく痛んだ。
智舗の者は岸に立ったまま、水の中まで入ってこようとはしなかった。水際に佇んで、突きつけた剣先を動かすことなく、微動だにせず彼を睨み据えている。どう見ても、彼の命は智舗の武人の手の中にあった。そして、相手に命を絶ち切られても文句は言えないことを、彼自身が一番よく承知していた。
こうなって初めて、水潟彦は自分のしたことの取り返しのつかなさを痛烈に思い知った。出雲の状況も、智舗の反応も顧みず、ただしたいことだけをした。彼を駆り立てたのは使命感でも何でもなく、兄妹への嫉妬と、自分への評価を強烈に求める欲望だけだった。その渇望は、彼自身も気付いてはいなかったけれど、配下でも出雲の民草でもなく、父の八千矛彦にだけ向いていた――つまりは叶うことのない望みであったのだ。
瞬きもせず相手を見据えていた水潟彦は、ふとその顔に見覚えがあるような気がした。そんなはずはない、と考えを一蹴したものの、なぜか頭の片隅を叩き続ける、輪郭の判然としない記憶があった。智舗に知っている者などいない。ならばなぜ、こうも胸の奥底がざわつくのだろうか。
――かつて私を生かしたのは月読の君だ。
不意に館で若者の口走った言葉が蘇って、水潟彦は声を上げそうになった。
彼は昔、科戸国を征伐した。級長戸辺の娘が治める里と、月読の息子が治める里が寄り添う小国。月読の里長もその嗣子も、出雲に討たれた。死んだはずのその嗣子に、目の前の武人は瓜二つだった。慄く声で水潟彦は尋ねた。
「月読の息子か」
「如何にも」
冷厳な口調で相手は答えた。声音は静かだが、紛れもない怒りが籠もっている。月読の嗣は、骸を見た限り二十歳にも届かぬ青年だった。眼前の相手はそれより歳を取っているが、あの夜から一体どうやって生き延びたのだろう。疲労と恐怖で頭は混乱を極めた。
「刺客が科戸の谷間で弑したはずだ」
月読の者は訝るように眉を顰めたものの、やがて淀みなく言った。
「死んだのは兄だ。私は智舗へ落ち延びた」
水潟彦は絶句した。この者は、自らが追われた怒りのみならず、血族を失った恨みも負って来たのだ。どう考えても、水潟彦を殺さない理由がなかった。肩が震え、唇がわなないた。
「見逃してくれ」
相手の冷淡な面持ちは変わらなかった。緊迫した沈黙をすぐさま破って水潟彦は喚いた。
「俺は此処から出ず、出雲に戻らない。二度と智舗の者の前に姿を現さない」
波一つなく凪ぎ切った水海で、彼のいるところにだけ微かな漣が立つ。月読の者は答えなかった。長い間、冷たい怒りと、峻烈な蔑みを浮かべた目で、水潟彦を見据えていた。何を考えているかは、わからなかった。彼が沈黙を破るまでに何度か、岸辺の梢を攫う風が吹き渡った。
「山門大王は、敵を殲滅するなと仰せだった」
理解するのに暫しの時間が要った。安堵してもいいのかと思った矢先、智舗の遣いが短く吐き捨てた。
「これほど主命を恨んだことはない」
再び背筋を強張らせた水潟彦をねめつける目には、静かな憤りだけがあった。顔から血の気が引くのがわかる。水潟彦は項垂れ、自身の死を前に言葉を失った。
「出雲を新たに統べる者に関わってはならぬ」
意味を取りかねて顔を上げた水潟彦は、沈痛な表情でこちらを見る相手を目にした。激しい怒りを懸命に抑えながら、怖気がするほど淡々とした声で、月読の者は言った。
「二度と智舗にも出雲にも関わらないなら助けてやる。深緋の巫女の遠見の中にすら姿を現してはならぬ」
一も二もなく水潟彦は頷いた。これほど誰かに従おうとしたことはなかった。智舗の、いや科戸の武人は、暫し何かを探すように水潟彦を見つめていたが、やがて言い捨てた。
「其方を助けたくなかった」
剣を鞘に納めて、月読の者は踵を返した。森へ続く枝垂れを押しのけ、一昼夜を馬で走り通したとは思えないほど、確固たる足取りで歩いていく。水潟彦を振り返ることはなかった。彼には向かうべきところがあった。出雲で傷に倒れた若者のところへ、あるいは智舗で帰還を待つ山門大王のもとへ。
水の中にへたり込んだまま、水潟彦は長いこと微動だにしなかった。静かに泣き始めたのは、日が天道を下ってくる頃のことだった。日が暮れてもいつまでも、出雲一の偉丈夫の涙は止まることがなかった。




