三 言代彦
言代彦は慄然として、浜に仰向けに横たわる青年を眺めていた。出雲国で一番の偉丈夫と闘って、智舗の遣いが勝った。言代彦の傍らには国主もいたし、誰の目から見ても明らかな形で、水潟彦は敗れていた。
御雷の息子を名乗った遣いは、まだ生きているだろうか。考えが頭に上った時、汀に垂れこめていた彌雲が切れ、雲間から光が差した。同時に、静けさを切り裂いて鶏鳥の声が響き渡る。声の主である足元の鳥を見やると、堂々と首を伸ばし、両の羽を広げていた。容赦なく静寂を終わらせ、耳の奥に突き刺さる鳴き声は、常には朝を告げる力強さとは別に、言代彦には不気味に聞こえた。
予感を裏付けるかのように、鳥がくちばしを開き、同時に澄んだ少女の声がした。
「刃によらず話を試みた私の臣下を、殺めようとなさいましたね」
瞠目する言代彦の前で、鶏鳥はまっすぐに彼を見据えていた。その目は彼自身と同じ、只人ならざる目である。逸らすことを許さない強い力に満ちていた。言葉からして、宿っているのは智舗の大王だろう。
「御雷の息子は斎の姫の遺志に沿って大蛇を斬り、葦原中つ国を守ったのに」
「ああ。申し訳ないことをした」
言代彦は静かに頷いた。相手の口調に微塵の容赦もないことを悟ったからだった。
「弟の過ちの贖いはしよう」
彼の掌中には、尭姫の遺した櫛が握られていた。素戔嗚命が神代に作ったと言われるものだ。山を森で覆い、田畑に数多の種をまいた神は、木々の息吹をこの櫛に込めた。あるいはまた、奇稲田姫を護る八重垣の木で作った櫛に、木の霊を閉じ込めたとも言われる。櫛を握りしめた言代彦に、山門大王は言った。
「これより先、顕露事は日嗣の巫女にお委ねを。貴方様は幽事をお治めなさいませ」
傍らにいた父がこちらを見たが、言代彦は鶏だけを見て答えた。
「承知した。葦原中つ国を物の力から守り、弥栄の世を迎えられよ」
「言代」
傍らにいた八千矛彦が不意に口を開いた。縋るように彼の腕を掴む。
「私は天下造らしし国主だが、これから先は其方の助けが要る。其方が言えば出雲の長たちは従う」
「ならば他ならぬ私が智舗に従ったと、長たちにお伝えを」
言代彦は、初めて言葉を交わした山門大王が、どうあっても秋津洲を諦める気はないと既に悟っていた。物から大八洲を守ることも、智舗国を拡げてゆくことも、この少女は成し遂げる気でいる――今、その一端を叶えようとしている。
「幽事を治めるのに、中つ国に住まう必要はない」
「どこへ行くと言うのだ」
言代彦は答えないまま、国主と鶏から離れた。厩から逃げ出した馬がうろついていたのを捕まえ、誰にも何も告げずに騎乗し、ひたすら馬を駆った。
三穂埼に着く頃には、灰色だった空はほとんど晴れていた。天を下る日が黄金色に辺りを照らし出している。海を眺めながら馬の手綱を引いたとき、伊那佐から彼を追ってきていたもう一頭の馬の足音も止まった。
「言代彦殿」
背後からかかったのは鳥船の声だった。彼は武人だが、今は剣を佩いていない。顔つきは険しいが、目つきは同情的だった。
大蛇を招き入れたのは父の八千矛彦で、神宝を持ち出したのは水潟彦だ。その責めを負わされる言代彦に、哀れみの目を向けたのかもしれない。しかし言代彦は杵築から遠ざかり、物の怪の跋扈を許してしまった。入海を物が荒らすのにも気づかなかった。
彼は穏やかな入海の水面を眺めた。下馬すると、鳥船を見ながら海を背にして立った。
「出雲の長たちは智舗の大王に従う。引き換えに、出雲国主の血筋を杵築で祀ることを許せ。祀りかたは杵築に仕える者たちが伝える」
いつか弟が話した大社について、言代彦は思いを巡らせた。ひと抱えもある丸太を三本束ね、それを一つとして九つの柱で支えた、天を突くような高床の社を造ると言っていた。社までは長い階を設え、四方を見渡せる造りにするのだと。
若い頃から幾度となく聞いた話だった。水潟彦の配下なら、工法も含めて詳しく聞かされているはずだ。鳥船は言代彦の言葉を聞き届けると、静かに頷いた。
言代彦は尭姫の櫛を咥え、手を打つと、掌を下へと向けて地に跪いた。
出雲を拓いた素戔嗚命は、今は地の下の黄泉に住むと聞かされていた。草木もけものも人も、いつか中つ国から黄泉へ去る。言代彦の場合は、去りかたが他の者とは少し違うだけだ。山を治め森の息づきを知るとされた言代彦は、櫛を手にした瞬間にその方法を知った。
足元の地から、見る間に草木が萌え始め、芽が開き、蔓が伸びた。青々と伸びる草に混じり、芽吹いた木々は言代彦の眼前で太く逞しく育って行く。鳥船が目を見開き、驚愕しながら後ずさった。やがて、言代彦の立つ場所だけではなく、鳥船の足元、いやそのさらに遠い四方からも、地を破って数多の青い芽が顔を出した。草が点々と生えているに過ぎなかった岬を、櫛の喚んだ森が覆い尽くそうとしている。
鳥船は異変を察して馬に飛び乗った。出雲の森を知らない彼であっても、この森に留まれば体を呑み込まれてしまうことは察したらしい。物の力なくしては有り得ない、速すぎる木々の伸長と、生い茂る緑のただならぬ迫力から。
水は出雲になくてはならないが、それら物の力は国主が注意深く治め、時折宥めてやらねばならない。先ほど大蛇を斬ったことで、暫くは水の物も鎮まるはずだ。だが、言代彦の魂を呑み込んで茂るこの森もまた、長く出雲の水を治めるのに役立てることができるだろう。水と森の力を常に拮抗させることで、この国は保たれてきたのだった。
言代彦の足の下から芽吹いた杉が、彼の体を呑み込みつつあった。最早手足や胴からも草芽が萌え出し、動かすことは出来なくなっている。口に咥えた櫛もろとも、彼の体は杉の幹の中に封じられた。両眼が完全に木肌に覆われる前に、馬上からこちらを振り返った鳥船と目が合った。言代彦はわずかに頷いて見せた。
あとは智舗の大王が決めることである。




