二 死闘
咄嗟に雷を呼ぼうとした。
だが、水潟彦が剣を佩いていないためなのか、十掬剣が傍にないためなのか、何度願っても雷撃は降りてくる様子がなかった。騒速は半ば絶望しながら、自身と、飛ばされた剣との遠さを目の端に捉えた。すぐそばに迫っていた水潟彦から間もなく拳が飛んできた。すんでのところで避けたものの、当たれば顔が砕けていたのは間違いなかった。
騒速が抗弁する間もなく、水潟彦は次々に拳を繰り出して、体勢を立て直す隙すら与えなかった。彼の腕が鼻先や体の側を掠めるたびに、動きの力強さにぞっとした。殴られるのには伊伎で慣れていたが、水潟彦の与えようとする打撃は田舎の喧嘩好きのそれではなく、出雲で一番の偉丈夫のものである。そしてまた、貴人にありがちな、優雅な武芸しか知らない者とも全く違っていた。
「水潟彦!」
言代彦が呼んでも、弟は彼の方を見もしなかった。水潟彦は荒々しく言った。
「出雲は何者にも降らない」
彌雲から雷鳴が轟いた。叢雲剣はないのに、どうしたことだろう。だが、考える間もなく身を翻した。飛んできた腕を横合いから殴ると、鈍い音がして水潟彦が体の均衡を崩した。
隙を逃さずに左手で殴り掛かった時、水潟彦は手のひらで騒速の拳を受け、そのまま騒速の手首を捻ろうとした。途端に激しい嫌悪を覚えて、騒速は全力で水潟彦の手を振り払った。拳を受けてから手首を捻るのは、騒速をいじめていた郷里の者がよくやった手口だ。鉄が打てなくなる怪我をさせようと考え出したらしく、実際何度かは忌々しい思いをさせられた。突如湧き上がった鮮烈な怒りに任せ、騒速は水潟彦に向かって蹴りを入れた。
ああ、そうだ、と騒速は思い出した。殴られ罵られることのない場所を見つけたくて、自分は伊伎を離れた。自分の言葉が聞かれ、姿が顧みられる地を探して。
御笠の都で、望みは叶えられた。大王の期待に応えれば、これからも立場は与えられる。主命を果たすのは容易ではなかったけれど、此処まで何とか辿り着いたのだ。それが、ただの理不尽な暴力によって踏みにじられようとしている。あとは、任を果たす力を誰よりくれた人のところへ、還るだけだと言うのに。
嫌だ、と何かが胸の奥で囁いた。胸元の翡翠の勾玉に、無意識に手をやる。あの日、騒速を智舗の船のもとへ駆り立てた衝動が、もう一度だけ胸の奥に宿った。
蹴りでよろめいた水潟彦に、騒速は今一度殴り掛かった。水潟彦の腕力は強かったけれど、速さなら騒速に分がある。したたか肩を殴られて水潟彦は呻いたが、すぐに憤怒をあらわに反撃してきた。今度は身を躱すのが遅れて、二の腕に強い衝撃が走った。横合いに倒れそうになったのを何とか立て直し、充分な力ではなかったものの一撃を返した。胸倉への打撃に苦しそうな声を上げた水潟彦だったが、騒速が歯向かえば歯向かうほど、彼の怒りと戦意は焚きつけられていた。毒づく声が低く響いた。
「思い上がるな――生きては帰さぬぞ!」
雲は頭上でますます逆巻き、厚く重く空を覆っていた。上空の色合いを映す海もまた、昏い灰色に濁っている。
最早目はほとんど水潟彦の姿しか捕らえていなかったけれど、どこかで視野の端に人の姿が見えた。言代彦だけでなく、騒ぎを聞きつけた者たちが浜にやってきたらしかった。
だがその中の誰も、殺気に溢れた殴り合いに割って入ることはできなかった。騒速もまた、誰かに勝負を止めさせ、決着を自らの手から奪い取られるのはごめんだった。水潟彦と騒速、どちらかが砂の上に倒れるまで、拳を止めることはまかりならなかった。
どのくらいそうして殴り合っていたかわからない。腕も顔も生傷だらけで、何度か骨の罅割れた音がした。水潟彦もまた、痣をこしらえ、動きがぎこちなくなっている。だが、二人ともまた拳を上げられないほどではない。曇天のために刻限は判然としなかった。風は徐々に強くなり、伊那佐の浜にますます雲を集めている。鈍色の海から轟く波音も大きさを増した。砕け散る波しぶきを時折海風が吹いて寄越す。その潮の滴の中に、雹が混じり始めたことに、騒速ははじめ気付かなかった。
ばらばらと子どもの拳ほどもある霰が降り始めた。それらが電の気配を帯びていることに、騒速は闘いながら気づいた。腕や頬に当たった雹は騒速に雷撃の微かな切片を伝え、満身創痍の体を仄かに励ますようだ。水潟彦の殴打を腕で防ぎながら、頭上の雲を見やった。稲光は見えないが、霰を降らす雲の中には鳴神が潜んでいるのだ。
考えた時、不意に氷柱のように尖った氷が降ってきた。微弱な雷を纏ったその気配を悟って、騒速は氷柱をよけることができた。だが水潟彦は、天の原から降った刃のような氷柱に頬や腕を切られた。身をよじって氷柱を避けながら、海の方へと後ずさった水潟彦を騒速は追った。力にはまだ余裕があるものの、水潟彦も疲労と怪我が極限に達している。
叢雲剣はどこにあるだろうと、騒速はふと考えた。雲は浜に最も厚く引き寄せられているが、水潟彦は剣を持っていない。
思いながら拳を見舞おうとしたものの、考え事で隙ができたためか突き出した腕を避けられ、さらに体勢を立て直す間もなく顔を殴られた。口の中に、金気を含んだ血の味が広がるより前に、騒速は突き飛ばされ、汀の漣のなかへ仰向けに倒れた。生ぬるい潮が髪を濡らし、塩気を含んだ飛沫が頬にかかる。
肘で体を支えて身を起そうとするも、水潟彦がすぐさま馬乗りになって顔を殴った。脳裏まで突き抜けるような衝撃が走り、考えも痛みも何もかも感じ取れない刹那があった。一瞬遅れて頭の割れるような痛みと、次の殴打がやって来る。口から流れた血が波間を紅く染める。遮二無二身をよじっても、偉丈夫の水潟彦が体の上にいては逃げられなかった。痛みに呻きを上げた騒速は、自分の苦悶の声に続いて水潟彦の哄笑を聞いた。出雲国主の次子は、あるいは弟は、苛烈な悦びを浮かべて笑っていた。
打撃と激痛に翻弄されながら、騒速は身を起こそうと虚しい抵抗をしたが、腕は波を掻くばかりだった。だが、塩水の合間に砂ではない冷たい何かを探り当て、ふと指を止めた。
先ほど雲から降ってきた氷柱だった。水潟彦もまた、見つけた氷柱を手に取り、痛みに朦朧とする騒速の首筋に突き立てようとしていた。血と波に呼吸を塞がれそうになりながら、騒速は必死で氷柱を砂から拾い上げ、視野も覚束ないまま水潟彦の体へと突き立てた。鋭利な氷は肌をたやすく貫き、水潟彦の二の腕に深々と刺さった。痛みに呻いた水潟彦を、騒速は突き飛ばして押しのけた。
視野がまともに見えなかったが、水潟彦はすぐに怒り狂って騒速を襲いに来るだろう。焦燥が頭を満たした時、足の裏に氷柱と似た、だがそれより強い気配を感じた。何か、雲の中の雷と呼び合うもの。ふと目をやると、鈍い光を放つ刃が砂の中に埋もれている。争いが始まる前に水潟彦の岩に吹き飛ばされた、十掬剣だった。
水潟彦は猛然と騒速の方へ駆けてきた。拳が自分に向かって振り上げられ、突き出された時、騒速は身を躱そうとしなかった。代わりに腕を掴んで強く引き寄せた。焦点の定まらない目で水潟彦の肩越しに昏い空を眺めながら、騒速は口の端に微かな笑みを浮かべて囁いた。首に提げた玉が、微かに揺れる。
「相手が悪かったな」
耳を劈く霹靂神の雷撃が一閃した。白く眩い光にあたりが満たされる。汀に落ちた雷は、水面を伝って一瞬で数多の筋に分かれたかと思うと、瞬く間に姿を消した。稲光が掻き消えた刹那に、その後にもまだ、波音の狭間には鳴神のもたらした雷鳴の残響が聞こえていた。その後は暫し風の鳴る音と、汀に寄せる潮の音だけが響いた。騒速も水潟彦も、掴み合った格好のまま微動だにしなかった。
稲妻は天から十掬剣までを貫く間、騒速の、そして水潟彦の体を駆け抜けた。雷に打たれた水潟彦は、目を剥いたまま声にならない苦悶の響きを漏らしていた。騒速を殴りかけた腕に、最早力は入っていない。それを確かめてから、水潟彦の腕を掴んだ手を離した。
唯一の支えを失った水潟彦の体は、あえなく漣のなかに崩れ落ち、横向きに転がった。瞼は苦しげに閉じかけ、声も出ない。息はあるが、騒速にもう一度殴り掛かれるようになるには、暫くかかるだろう。騒速は荒い息をどうにか保ちながら、砂と波の下から十掬剣を拾い上げた。
汀から浜へとよろめきながら歩いた。遠巻きに勝負を見ていた人並みが見えたが、最早誰とも判別がつかない。視野がひどく霞んだ。闘いの最中から感じていた痛みが、我に返った今、確かなものになりつつある。髪を束ねていた紐が切れ、後ろ髪が肩に流れて落ちた。
遂に足を踏み出すこともできなくなって、騒速は砂の上に剣の刃を刺し、膝をついた。手足も頭も、どこがどのくらいかもわからないくらいに痛む。そして途方もなく疲れていた。呼吸が胸を通るたびに、あばらからひどい激痛がする。上半身すら支えられず浜の上に肘を突いたが、間もなくそれにも耐えられなくなって横ざまに倒れた。体の下になった腕がひどく痛み、少しでも楽になるかと思い空を見上げて仰臥した。傷口から血が溢れるように流れ出し、痛みも、意識が遠のくことも、止められそうにない。
厚く垂れこめていた叢雲は、どうしたことか瞬く間に薄くなりつつあるようだった。
ふと右手に何かが触れて、騒速は目だけを向けた。小さな雀が、力なく横たえられた指にとまっていた。視線を手に長く留めることもままならず、視野の端に一瞬とらえただけだったが、途端に微かな安堵を覚えた。台与はことの次第を見ていたのだ。ならば、闘った相手も、どう決着したかも、還ってあらためて伝える必要はないだろう。それに、浜にいた者たちの前で片を付けたから、誰も結果を歪めることはできないはずだ。
気がかりは一つだけだった。晴れゆく空を仰ぎながら、騒速は掠れた声で尋ねた。
「狭依殿は元気ですか」
言った声は波音に掻き消されて、自身にもほとんど聞こえなかった。切り傷だらけの唇を騒速は噛んだ。体から流れる血だけが温かく、漣に濡れた体は、雲を吹き払う風の中でただただ寒かった。
騒速はようやく、自分の力で任を果たせた。だが、それも詮無いことだった。
物の怪の前でも身が竦まずにいられたのは、還りたい理由があったからだ。なのに任を終えたところで、理不尽な暴虐に見舞われ息絶えるとは。郷里で耐え切れなくなろうとしていた暴力に対し、此処では闘い抜くことができた――なのに、誰より会いたかった人に会うことが、もう叶わない。
「お会いしたかった」
雀が指をつついた。瞼は重く、疲労と痛みの波に屈して騒速は目を閉じつつあった。手の上にいる雀の足の重みも、波音も、徐々に雲間から差す日の光も、すべて遠ざかっていくようだ。どこまでも深く意識が落ちていく感覚に見舞われながら、自分の目と浜の眺めを瞼が隔てるのに任せた。
最後の光を失うその刹那に、鋭く響く鶏の声が聞こえた。
なぜかそれは、山門大王の声のような気がした。日の神の末裔である彼女が宿るのに、暁を迎えて鳴く常世長鳴鳥とこよのながなきどりより相応しいものは、きっとないと思ったからだった。




