四 雷撃
目の裏に、火花が散るような白光が一閃した。同時に、脳髄を打つような衝撃が、頭から足までを駆け抜ける。体じゅうが突如滾るような熱に晒され、波が引くように冷めて行った。
我に返った騒速は、すぐさま台与に目を据えた。周りにいる大勢の貴人も、固唾をのんで彼女を見つめている。
台与の白い衣手が裂け、裳と同じ朱色に染まったのは、その刹那だった。
彼女の目は、遥か出雲へ向いていた。誰一人知らない場所で、戻らない遣いと話していた台与が、衝撃を受けてよろめく。
皆が身構え、隣にいた鷹彦は腰を浮かせた。矢が刺し貫いたかのように、強い力が台与を襲ったのがわかる。背筋を伸ばして立ち、右の腕を前へと掲げていた体が揺らいだ。髪の上の宝冠が、きらと光を跳ね返す。
まったく不意に、台与は彼の名を口走った。
「――騒速?」
艶やかな唇から零れた名を、耳にしたのは数名だった。囁きはごく近くの者にしか聞こえず、それも狭依の叫び声にほとんど掻き消された。
「台与様!」
素早く立ち上がった彼女は、歳下の大王の体を支えた。そのままゆっくりと床に座らせる。台与の眼は、まだ遥か彼方を見やったままだ。だが、腕が力を失って垂れるのと同時に、巫女の魂もまたここへ――御笠の都へ還りつつあることが窺えた。黒い瞳が、広間を見る光を取り戻しつつある。
「お戻りください」
大王の両肩を包むように抱き、狭依が呼び掛けた。落ち着いてはいるが、強い懸念と静かな焦りがある。鳥船と鷹彦は、立ち上がって台与に近づいた。
鷹彦が脇に膝をついたとき、台与の眼はすみやかに焦点を結んだ。鷹彦に、安堵したように微笑む台与を見て、騒速もまた肩の力が抜ける思いがした。
十七歳の台与より、騒速は二つ年上だ。だが、今年三十になる鷹彦は、白皙の美しい顔もさることながら、冷静沈着な様子がいつも騒速を安心させた。台与が、鷹彦を見て安心する気持ちはよくわかる。
品の良い紅を引き、盛装した台与は、眩いほどの生命に溢れていた。白の衣と朱の裳、胴に巻かれた倭文布の帯は、明るい肌や、黒々とした瞳、緑髪の瑞々しさを一層引き立たせていた。歳より幼く見えるのは、一様に長命な日の神の末裔だからだ。
右の二の腕には血が滲んでいるが、深手ではないようだった。痛みにやや顔を顰めて、台与は両肩を抱えていた狭依から身を引いた。狭依が血を止めようと傷口を押さえた時、台与は広間を見渡して口を開いた。
「和香彦は出雲国主に仕えていた」
凛とした声が響くと、広間の緊張が否応なく高まった。隅にいた、和香彦の縁戚に視線が集まる。台与が突然怪我を負ったことから、半ば明らかだったが、彼女はあらためて言った。
「私を射ようとした」
張り詰めた沈黙の中、狭依がどこかへ走り去った。侍医を呼びに行ったのだろう。騒速はふと主の顔を見やった。鷹彦の面持ちはやや険しいが、眼の奥には静かな憂いが潜む。初めて会った時から変わらない。
四年前、騒速の郷里で巻き起こった叛乱を、鳥船や鷹彦たちが鎮圧にやってきた。死を恐れず猛然と戦っていた鷹彦は当時、抜身の刃のように近寄りがたかった。だが乱の平定後、騒速を都へ連れてきてくれた。以来ずっと、彼に仕えている。
聞けば、それまで手勢も持ちたがらなかった鷹彦が、初めて召し抱えたのが騒速だった。冷静で寡黙ながら、智舗で最強の武人と謳われる鷹彦を、騒速は尊崇していた。
大王から直接目を掛けられ、鳥船に信頼されているからだけではない。鍛錬の手を抜かず、権力に興味のないところも、慕う理由だった。単に自分を拾ってくれた相手を崇めているのではなく、敬うべき誰かを見つけたと確信があった。髪をみずらに結わないのも、故郷で後ろ髪を束ねていた時のままと言えばそうだが、鷹彦と同じだからでもある。
狭依が連れてきた年取った侍医が、台与の傍らに屈みこんで傷を見た。一同を見渡した鳥船が、よく通る声で言った。
「傷の手当てにあたる。皆々一度さがられよ」
貴人たちは、戸惑いながらも腰を上げた。憶測と不安を囁き合い、ぞろぞろと広間を出て行く。影のように台与に付き従う、宿禰だけが広間に残った。
侍医は、台与に何事か言い聞かせていた。狭依が安堵の表情を浮かべたところを見ると、大した傷ではないのだろう。彼女たちを見守っていた鷹彦だったが、騒速の隣に戻ってくると低く尋ねた。
「大王は先ほど、そなたの名を呼ばなかったか」
やや下にある主の顔に向かって、騒速は頷いた。剣でも弓でも勝てたことはないが、図体だけは彼の方が大きい。
「そう聞こえました」
どこまでも静かな面持ちの鷹彦が、ほんのわずかに眉を顰めた。
鷹彦の郷里は、科戸国という。秋津洲にあったが、彼が十八のころ、出雲に滅ぼされた。
鷹彦は、同じ国にいた級長戸辺の娘と共に、智舗へ落ち延びた。しかし八年前、日向大王とともに、姫も亡くなった。以来鷹彦は、伊伎で出逢った時のような、何者も寄せ付けない空気を纏うようになった。騒速を召し抱えてから少しずつ、その鋭さは減じてきたとのことだったが。
とは言え、台与が鳥に魂を宿らせて出雲に行くと言い出した時は、その顔にもただならぬ緊張が走った。鳥飛と呼ばれるその術は、誰もが手掛けられるものではない。初めてその策を打ち明けられた時、鷹彦は露骨に険しい顔をした。
「大王自ら、出雲へ向かわれるのですか」
あまりに厳しい口調だったので、鳥船は窘めるように鷹彦を見やった。だが鷹彦は意に介さず、台与もまた同様だった。
「他にできる者がいないもの」
平然と言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。儀礼では君主然と振る舞う台与だが、内輪の話では驚くほど年相応の表情や言動をする。傍らの狭依が、心配そうに息をついた。
大王の居所には、鳥船、鷹彦と騒速だけが呼び集められていた。鳥船は、台与が最も信頼を置く武人である。鷹彦は秋津洲の出身で、多少なりとも出雲について知っていることから、出雲の話をするときはよく呼ばれていた。
「智舗の使者に、還って来ない理由を質すわ。一族郎党も含めた一同の前で」
微かに眉を顰めた鳥船に、台与は宥めるように言った。
「出雲への使者は日向大王の、すなわち私の遠縁よ。血族でない大勢の者もいる前で、状況を明らかにしなければ」
言外の意味を察したらしく、鳥船は押し黙った。鷹彦の顔からはいつも通り考えが見えない。騒速は普段通り、思ったままの疑問を口にした。
「使者の出自と、皆の前で質すことと、どういう関わりがあるのです」
傍らに座る鷹彦が呆れたように呟いた。
「――騒速」
見かねたように狭依が口を挟んだ。
「縁戚の台与様が、穂積彦殿や和香彦殿を質すのは、彼らの縁者が反発します」
狭依は、鳶色の目を持っている。今はその目を頂く小さな美顔に、しかつめらしい表情を浮かべていた。本来侍女が同席する場ではないが、台与にも武人たちにも明晰さを認められる彼女なら、違和感はない。それに狭依は身像の姫君で、館にいる大抵の者より身分が高かった。
先だっての内乱で身像が叛旗を翻していたら、智舗はどうなったかわからない。身像は、彼らにとって好機とも言えたはずの乱の間も傘下に留まり、今や智舗になくてはならない存在となっている。その様子は、台与が狭依に絶大な信頼を置く姿と重なった。
狭依は台与の即位で任を解かれ、身像に戻るはずだったが、台与の強い希望で都へ連れて来られた。実際彼女は頭の回転が速くて、台与の望むものを一瞬で察する才がある。よく立ち働くので周囲の評判も良い。
常には取り澄ましている狭依だが、時たま見せるあどけない笑顔は群を抜いて可愛らしい、と騒速は思っている。台与の前で的外れな言葉を繰り返す騒速には、同い年と言うこともあってか、しばしば厳しかったが。




