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一 伊那佐

 長兄の腕の中で事切れた尭姫を、祝たちが丁重に運んで行った。


 言代彦の表情は沈痛だった。海と山を治めることについて尊崇を集めていながら、水の物の存在に気づかず、あまつさえ妹を失った心痛は激しかった。国主はというと、御座に座ったまま力なく肩を落とし、打ちひしがれた様子で殯宮(あらきのみや)へ運ばれる尭姫を見つめていた。


 だが、やがて弱々しい動作で立ち上がると、骸について亡者のように歩いて行った。逡巡した末に、騒速は彼の後を追った。思ってもみなかったとはいえ、尭姫が絶命するのを防げなかった。おこがましいとわかっていても、彼女を悼む場に騒速も行きたかった。

 叢雲は依然として空に逆巻き、とうに日は昇っているはずだがあたりは暗かった。雨は止んだものの、鳴神は低く唸り続けている。


 尭姫の骸が運ばれたのは、館の西にある伊那佐の浜だった。吹き寄せる風は強くはないが静かとも言えず、嵐の前のように生ぬるく頬を撫でていく。海が空を切り取る果てに、八色(やいろ)の雲の端は及んでいない。だが、黒雲のそこここから海へと雷が降っていた。


 汀を北へと向かった先に、潮風を遮る壁のような岩が佇んでいた。岩陰には簡素な殯宮があった。まだ新しいところを見ると、先だって亡くなった和香彦のため造られた殯屋(もがりや)なのだろう。春に夫を見送ったはずの殯宮で、今度は尭姫自身が(たま)(しず)めを受けようとしている。


 騒速は尭姫の遺骸と国主、それに祝たちが殯宮へ入るのを浜の上で見送った。祝たちが出てきて宮へと戻り、風が浜の砂模様を変えても、国主は長いこと出てこなかった。死者を悼む時の長さと、茫然と宮へ入っていった八千矛彦の様子を見れば、尭姫を喪った悲嘆の深さが窺えた。


 生暖かい風が頬を打ち、束ねた髪が時折巻き上げられる。宮の後ろに壁のように聳える岩があっても、砕けて散った海風が再び岩陰で合流して緩やかに逆巻いた。


 真昼も近づいたころ、八千矛彦は音もなく殯宮から出てきた。失意に暮れる八千矛彦は、しばらく微動だにせず佇んでいた。風が彼の乾いた肌を撫で、白髪の混じる髪と髭を搔き乱している。脇にいる騒速にも気付いていないかと思われたが、やがて彼はわずかに騒速の方に顔を向けて呟いた。


「国と神宝を奪おうとした物に、姫の命が奪われるまで気付かなかった」

 心からの後悔が声音に滲んでいた。娘の死による絶望のためなのか、大蛇の呪縛が解けたためなのか、国主は先ほどまで纏っていた禍々しいほどの気迫を失っていた。落ちくぼんだ目や痩せこけた頬に、暗さが漂うのは変わらない。だが、他者を屈させようとする意気や力への執着は、最早なかった。


「尭姫様は出雲の人々も、智舗の者もお守りくださいました」

 騒速は考えたままのことを言った。鳥船の妻の多岐(たぎ)()は、夫の帰還を強く願って待っているはずだった。


「国主が物に差し出そうとした国を、あれが人の手に戻した。だが我が手に戻ったのではない。物の力で生かされただけの我が命は、どちらにしろ間もなく尽きるだろう」

 確かに八千矛彦がしたことは、国主の位に就く者が犯してはならない過ちだった。そして彼の言葉通りなら、国主の命は大蛇が操るために長らえたに過ぎない。眼前の老いさらばえた姿を見れば、余命いくばくもなく、国を統べ続けることが難しいのはよくわかった。


「では出雲は、どなたの手にあるのでしょう」

 躊躇いつつも尋ねた時、背後に砂を踏む音が聞こえた。振り返ると、言代彦が歩いてくるところだった。暫し風と砂の音を聞いた後、言代彦が脇にやってきた時、国主は言った。

「出雲国は言代彦の手にある」


 国主は自らの嗣子に、出雲国を引き継ぐつもりだった。悲愴に満ちた目で、国主は力なく言代彦を見据えていた。


 一方言代彦もまた、尭姫を失った深い悲しみと失意の底にいた。彼は険しい顔をして父の八千矛彦に向き直った。

「我らは神宝を物の怪に奪われ、取り戻したのは尭姫と異国の者でした。姫を黄泉へ追いやったのは我々の咎です」

 淡々と、だが重い声で言代彦は言った。面持ちは厳しかった。


「入海が以前と違うことには気付いておりました。ですが、物の仕業と気づかなかったどころか、杵築に大蛇がのさばるのを許した。山の異変を訴えようとした金屋子の姫も助けられなかった。半分は大蛇が仕組んだことですが、半分は私の咎だ。海の様子を探るのに忙しく、山を構っている暇はないと思っていた」

 彼は深い憂いのこもったため息をついた。そして、騒速に向き直って言った。

「黒鉄の姫から聞いた。蛟も其方が相手をしたのだな」

「はい。物の力から中つ国を守るべくして参ったと、お示しするために」


 言代彦は騒速を見据えて頷いた。国主は黙って嗣子の横顔を見ている。

「大蛇の頭はまだ、七つ眠っている。物に呑まれようとした我らが、脅威を抱えながら引き続き国を統べることは正しいでしょうか」

 騒速は耳を疑ったが、どうやら言代彦は本気で口にしているらしい。静かな表情には迷いも揺らぎもなく、真剣に国主を納得させようとしていた。強い眼差しには覚悟と深い自戒が窺えた。


 八千矛彦は力なく口を開いた。

「嗣たる其方に任せる。杵築で国主の血筋を祀り続けることさえ守られればな。言代彦が言うことであれば、出雲の百八十(ももあまりやそ)の神の末裔も、百八十縫(ももあまりやそぬい)の白楯のもと従う」


 国主の静かな言葉からは、出雲の人々同様、彼もまた言代彦へ篤い信頼を抱いていることが窺えた。深く頷いた言代彦は、おもむろに騒速へと向き直った。

「智舗国に物の力は及ばぬのか」

 騒速は考えてから、慎重に答えた。

「智舗で物の怪を見たことはございません。先見と遠見の力を持つ、日嗣の巫女が国を統べておりますゆえ」


 今の二人に詰め寄るのは憚られるが、遣いの立場を見失うべきではない。騒速は淡々と言葉を継いだ。

「智舗の山門大王は、大八洲を侵す物の怪が出雲にいることにお気付きでした。新たな物が迫っても、我が大王なら中つ国を守れるかと存じます」

 静かに告げた騒速を見据えて暫し考え込んでから、言代彦は頷いた。


「承知した。話に応じよう」

 騒速は思わず短く息をついた。深い安堵が胸の奥を満たした。同時に、深い疲れがひと時に解き放たれたような感覚が体を包んだ。

「ありがとうございます」


 黙って様子を見守っていた国主が、音もなくその場を離れた。哀惜に満ちた後ろ姿は痛ましかったが、国を譲ることの悔しさよりは、尭姫を失った悲しみの方が色濃いように見える。言代彦に出雲の行方を委ねることに悔いはないのだろう。

 言代彦もどこか愁いを浮かべて父の立ち去る姿を見ていたが、恬淡としていた。綺良が彼に話を聞いてもらいたがったのも、風格を目の当たりにすれば納得がいった。


「後ほど私の居所に来られよ」

 はい、と答えた騒速に言代彦は小さく頷いてみせた。そして静かに殯宮へ入った。


 二人と別れた騒速は、汀へと歩いて行った。伊那狭の浜は西を向いており、眼の前の海は智舗へ続いている。鈍色の波が寄せる浜辺は今なお薄暗い。黒雲は空を覆い、遠い海の上にのみ空が見えている。その色合いは、日が既に最も高い位置を過ぎ、西へ下り始めたことを告げていた。


 嘶きが聞こえてあたりを見渡すと、宮から逃げ出してきたと思しき馬が浜をうろついていた。叢雲が呼んだ雷で館のあちこちが壊れ、厩も例外ではなかったのだ。見れば、海際に牧を設えたかのように、あちこちを馬が歩いている。どこから逃げてきたのか、遠くには(くたかけどり)もいた。


 騒速は波打ち際を館へと歩きながら、ふと十掬剣を抜き払った。血を拭った剣は、何もなかったかのようにもとの輝きを保っている。父と最後に打った鋼はどこまでも滑らかだった。右手で柄に、左手で刃に触れると、頭上の雲の中を駆けてゆく雷撃と、鋼が微かに呼び合うのがわかる。


 立ち止まって、剣の柄を砂に差した。切っ先を見据えて念じると、すぐさま細長い糸のように連なった電撃が空から剣までつながった。大蛇が自分に降した雷が、何か今まで騒速に通っていなかった道を開いたのだ。これほど容易く、これほど正確に鳴神を引き寄せられるようになるとは。


「鎚彦殿!」


 緩く吹き渡る風の中、不意に名前を呼ばれて騒速は背後を振り向いた。声は言代彦のものだったが、目に飛び込んできたのは水潟彦の姿だ。砂に埋まっていたと思しき、一抱えほども幅のある岩を抱え、今しも投げようとしていた。騒速が身を躱すと、水潟彦は憤慨したように一層腕に力を入れた。


 万力を込めて投擲された岩は、騒速が今しがたまでいた場所を通り抜け、引いてゆく波の向こうへと落ちた。岩が沈んだ場所の遠さは、騒速の背筋を凍らせるのに充分だった。身を躱さなければ確実に、礫に打たれて死んでいた。


 素早く視線を走らせると、肩で息をする水潟彦の後方から、言代彦が駆け寄ってくるのが見えた。

殺意に満ちた水潟彦の面持ちを見て、騒速は砂浜に突き立てていた剣を慌てて引き抜こうとした。だが、十掬剣は先ほど岩礫に飛ばされ、遠い汀で波に洗われていた。天上の暗雲が、伊那佐の浜を中心に渦を巻き始めている。水潟彦は叢雲剣を佩いていなかったけれど、彼が人を殺めるのに刃は要らないのだと騒速も悟っていた。


 自分は死ぬのだ、と思った。八千矛彦と言代彦を話し合いの席につかせたのに、国主のもう一人の子息の腹いせで殺される。長い旅の末、ようやく最後の目的に近づいたと思ったのに。


 初めて感じる強い恐怖が騒速の心を満たした。蛟に挑んだ時にも、大蛇に向き合った時にもなかった恐れだった。御笠に還れば、狭依にもう一度会える――何があろうと会いに行こうと決めていたのに。

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