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十 閃光

 大蛇の呼吸は落ち着きを取り戻し始めていた。櫛は相変わらず胸元に張り付いたままだが、いつまでも蛇の動きを止められるものではなさそうだ。騒速は叢雲剣の刃を見据えた。足を踏み出すと同時に、裂けそうなほど唇の端を上げて大蛇が笑んだ。


「騒速!」

 叫ばれた声は、鳥船のようにも聞こえたし、そうでない気もした。剣を振り上げても、大蛇は微動だにしなかった。


 何かがおかしいと感じながら剣を振り下ろそうとしたとき、耳を劈く雷鳴が響き、眩い光が一閃した。頭上で物が裂け、崩れる音が聞こえたのとほぼ同時である。そして頭から足元まで、全身を殴られたかのような衝撃が突き抜けた。痛みはないが、体を駆け抜ける力のあまりの強さに声も動きも一瞬失った。


 体の裡と外とを隔てる肌がすべて突き破られたかのような感覚に襲われるも、騒速にとっては眩しくない光が去った後、体は元のままだった。ただ、今までより強く空の稲妻の気配を感じ、同時に体の奥が雷と引き合うような引力を覚えただけだ。雷撃が自分に落ちたのだと悟った刹那には、いくらか明るくなった広間の光景が再び目に飛び込んできた。見上げれば、頭上の屋根と天井が裂け、黒い曇天が千切れた棟木の向こうに顔を出していた。


「な、な」

 動揺する声で我に返った騒速は、後退りながら自分を食い入るように見つめる大蛇を見返した。目を剥いて驚く大蛇に、彼は淡々と言った。

「私は御雷の息子だ。雷で死ぬことはない」


 昏い空に、騒速を励ますように稲光が瞬いた。全身を雷撃で満たした騒速の体は、今や剣などなくても稲妻が呼べそうだった。国主の館だけでなく、都の大半を覆うまでに黒雲が集まっている。

「豊葦原は渡さない。大八洲を統べるのは深緋の巫女だ」


 彼が叢雲剣を一瞥するなり、霹靂神が白く閃き、漆黒の天の原から刀身へと駆け下った。刃から柄へ、柄から体を走り抜けた雷は、一瞬のうちに大蛇の身を灼き焦がした。激しく打たれたかのように胴を仰け反らせたのち、大蛇はよろめきながら恨めし気に騒速を睨んだ。雷を呼べるのは同じでも、打たれて耐える力だけは相手にはないようだった。


「智舗の若造が」

 息も絶え絶えに言った大蛇を、胸元の櫛は相変わらず苦しめ続けているらしかった。引き攣ったように震える手が胸元を掻いている。騒速は静かに言った。

「かつて私を生かしたのは月読の息子だ。其方が敗れたのは、科戸国ぞ」


 赤かがちのように燃えていた双眸は、今やただ暗い(うろ)のような色を浮かべるのみだった。剣の重みに震えていた手が、ついにだらりと垂らされる。


 騒速は音もなく十掬剣を振りかぶると、正面から斜めに大刀を振り下ろし、大蛇の腹を切り裂いた。

 紅い血が迸ったのちに腹から出てきたのは腸ではなく、のたくる一匹の蛇だった。蛟と同じ、薄蒼い鱗に覆われており、胴は女の腕ほども太かった。和邇に水霊が憑けられていたように、大蛇に巣食われた女が佐久姫と名乗っていたのだろう。蛇が体のなかでのたうち回ったのか、女の腹の皮膚は赤く爛れていた。


 長らく物の怪に乗っ取られていた体が床板に倒れ伏した時、叢雲剣もまた床の上に転がった。蒼い蛇はなおも痙攣するように身を蠢かせている。

 骸を見下ろして佇む騒速の傍ら、血の海の脇に立った者があった。顔を上げると、静かな哀しみを湛えた鷹彦がそこにいた。


 いつの間にか杵築に来ていただけでなく、方々に雷が落ち、混乱に陥った館に、どうやってか辿り着いていたのだ。先ほど呼ばれた声が彼だったことに、ようやく気付く。どこで落ち合ったのか戸口近くには綺良もいて、赤目の傍らに跪いていた。


「鷹彦様」

 騒速の呟きに主は答えず、無言のまま剣を抜き払った。黒鉄の里で打たれたばかりであろう刃は鏡のように滑らかで、裂かれた屋根の隙間から差す仄かな稲光を照り返している。


 鷹彦は剣の切っ先を床に向けると、躊躇いなく瀕死の蛇に突き立てた。蛇の喉元に刺さった大刀は、開いた顎から牙ののぞく首と、引き攣る胴とを永遠に切り離した。

 剣についた血を払う彼の面差しは、冷厳なまでに凪ぎ切っている。勝利の喜びも、報復の昂揚も、静かな美顔には一片も見いだせなかった。


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