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九 大蛇

 此処にいたのだ、と騒速は思った。奥出雲の八本杉の、裂けた根から這い出てきた八岐大蛇は、女の形をして杵築にやってきた。国主の館の奥深くに入り込み、叢雲剣を取り戻し、再び己の一部とする日を何年も狙っていた。物の――水の力で出雲を呑み込むことを企図しながら。中つ国を狙っていたのは水潟彦ではなく、彼と通じた后だったのだ。


「蛟を奥出雲に送ったのはお前か」

 ひっきりなしに鳴る雷の合間に、騒速は尋ねた。剣をゆらりと構え、言代彦の方を見ていた佐久姫がこちらを一瞥する。

「山が荒れるまで鉄を求めるよう、杵築を唆したのも」


 大蛇は両の口の端を上げて笑った。唇が、まるで裂けたかのように大きく広がり、口の中から血のように赤い舌がのぞいた。

「海で見つけた和邇に水霊(みずち)を憑け、金屋子の娘に差し向けてやった。鞘でこの剣を封じた奴らへの報いにな」

 愉快そうに笑って女が言った。言葉を失った時、誰かが佐久姫の背後で身動きした。はっと目をやると、怒りに顔を引き攣らせた赤目が、大刀を鞘から抜き払ったところだった。


「やめろ」

 咄嗟に叫んだが、遅かった。一瞥しただけで、赤目もまた黒鉄の里の若衆と同じく、剣技に秀でていないことは見て取れた。ただ彼の顔には深い怒りが浮かんでいる。里を苦しめ、綺良を苛んだ物の怪を前に、憤りを抑えようもなかったのだ。佐久姫に駆け寄った赤目は、闇雲に大刀を振り下ろそうとした。


 すぐに身を返した大蛇は、振り向きざまに赤目の刃を受けると同時に、彼の大刀を弾き飛ばした。間髪を入れず、返した剣で赤目の二の腕に斬りつける。必死で後ずさった赤目の傷は深くはなかったが、大きく裂けた肌から瞬く間に血が溢れた。大刀がない中もう一度向かうことはできず、彼は雨に濡れた顔を戦慄かせるばかりだった。恐れの中にも、冷めやらぬ怒りが宿っている。


 騒速がにじり寄ると、大蛇は優雅な仕草でこちらに向き直り、余裕ある笑みを浮かべた。

「可哀そうに黒鉄の里は、何度も言代に談判しようとしていた。すべて阻んでやったが」

 言代彦は驚愕し、眉根を寄せた。里の者が訴えに行ったことは、どうやら彼には知らされてもいなかったらしい。はたと我に返ったように呟いた。


「まさか入海を荒らしたのは――」

「金屋子の娘に懐いた蛟だ。気づかないとは間抜けだな」

 大蛇は騒速に向かって叢雲剣を突きつけると、水潟彦を流し見て言った。

「容易く操られる其方は愚かだが、一つ正しいのは出雲に安穏は要らぬということだ」


 大蛇の顔や手の肌は、眼前で形状を変えて行った。滑らかな人肌であったものが、白く艶やかな鱗で覆われた蛇の肌にみるみる変貌を遂げてゆく。

「戦いで人の死に絶えた国を、水の物が貰い受けてやる」


 軽やかに足を踏み出した大蛇に向かって、騒速は剣を構えた。だが相手は急に体の向きを変え、奥にいた鳥船の方へと向かった。


 丸腰の彼を真っ先に狙ったと気づいた時には既に遅く、慌てて大蛇を追った剣は虚しく衣の裾を掻いた。鳥船との間にはいくらの間合いもない。大蛇が駆け抜けて誰もいなくなった空間の向こうには言代彦がいて、剣を振りかざした異形の女を愕然と眺めていた。


 絶望にすべての考えが止まった時、言代彦の唇が動き、静かな声が聞こえた。

「よせ」

 振り下ろした刃の刺さる鈍い音が、確かに響いた。騒速は鳥船の方を振り返った。国主や言代彦が食い入るように見つめる中で、大蛇は深々と剣を突き立てていた。刃ののめりこんだ傷口から衣を赤い鮮血が伝い、騒速は絶句した。なぜかその血は夢の中ででもあるかのように、妙にゆっくりと落ちていくように見えた。だが、血が床板に落ちる微かな音が聞こえて、今起こっていることが間違いなく現の出来事であると知らせた。


 息を詰めた騒速は、滴り落ちた血を辿って恐る恐る視線を上げた。細い肩に食いこんでいた剣を、大蛇が一息に斜め下へと薙ぎ払い、真っ二つにするかのように振り下ろした――鳥船を庇って、彼の前に飛び出した、尭姫の華奢な体を。


 絶句した騒速の眼前で、傷口から大量の血が流れて滴った。右肩から左の腰まで、胴を大きく斜めに斬った傷は、衣を見る間に赤く染め上げた。


「尭姫様!」

 我を忘れた騒速は絶叫した。尭姫の体は深手に戦慄いているものの、辛うじてまだ立っている。おそらくは激しい痛みに焦点の定まらない目で、正面から大蛇を見据えた。騒速が無我夢中で駆け寄ると、彼女は耐えかねたように半身を預けた。細身を支えた騒速の腕に、絶え間なく温かい血が触れた。尭姫は力なく口を開いた。


「許しません」

 微かだが、確信に満ちた言葉だった。唇の端から紅い血が流れ、顎を伝って胸元へ落ちる。愕然とした国主が唇を引き結び、凍り付いた顔で娘を見つめるのが視野の端に入った。

 声の震えを懸命に抑えながら、尭姫は続けた。

「待つ人がいる方を殺めてはだめ。智舗と戦いが始まってしまう」


「どうか喋らず」

 必死に宥める騒速に、尭姫の悲痛な声が答えた。

「良いの――私ずっと、罰が欲しかった。和香彦様を生かしたのも私なら、殺めたのも私だったから」

 騒速は絶句した。和香彦は尭姫の傍らに、生きていたいと思える場所を見つけたのだろう。一方で出雲に来ず、尭姫に会わなければ、和香彦は今も安穏と智舗で暮らしていたかもしれない。尭姫はそのことに思い至って、誰より苦しんでいたのだろう。和香彦が安らかに生きられる方法を、誰より真摯に考えていたはずの人なのだから。


 掻き乱れる胸の裡を、騒速は必死に落ち着かせた。無意識に尭姫の肩を強く抱いた。

 智舗の者を殺めさせないと、尭姫が決めた。ならば鳥船を守り、自分も還らなければ。そしてそれは、眼前の大蛇を葬らずして遂げられない。生気を失いかけた目で尭姫が睨む女を、騒速もまた見据えた。


 大蛇は忌々し気に尭姫を見ていたが、それ以上斬りつけようとはしなかった。代わりに、姫から離れようとするかのように、わずかに後ずさりした。瀕死の体をおして、尭姫は今にも絶え入りそうな声で尋ねた。

「いつも私を避けた。恐れていたの」

「其方を恐れることなどない」


 傲然と言い放った大蛇から、尭姫は音もなく目を伏せた。

「やはり私ではないのね」

 短く囁いた尭姫は、片手を弱々しく掲げると何かを大蛇に向かって投げた。


 昨日も今日も髪につけていた朱い櫛だと気づいたのは、一瞬遅れてのことだ。あまりに静かで躊躇いのない動作だったから、顔を顰めた大蛇が身を躱す暇もなかった。櫛は大蛇の胸元に音もなく当たった。

櫛の役割を知らなかった騒速にも、間もなく尭姫の行動の意味が知れた。大蛇の絶叫が響き渡ったからだ。同時に巨大な稲妻が、戸口から見える曇天を裂いて走り渡った。


 耳を塞ぎたくなるような叫び声と凄まじい雷鳴が、高く低く鳴り響いた。大蛇が身をよじる間にも大量の血が尭姫の傷から溢れ出す。とうとう立っている力を失った尭姫は、騒速の腕の中で頽れるように膝をついた。足元の血だまりは際限なく広がっている。すぐ近くで、大蛇が胸に張り付いた櫛を取り除こうと、両手で体を掻きむしるようにしてもがいていた。燃える鋼のような眼の色が、爛々と光りながらも激しく揺らいでいた。


「おのれ、奇稲田!」

 素戔嗚命が護った妻の名を、恨めしそうに呼ぶ声が宮を震わせた。


 大蛇退治の前、彼は姫を櫛に変えて身につけたという。奇稲田姫の力は、今も櫛の姿で出雲に受け継がれてきたのだろうか。


 わからないが、櫛は大蛇が尭姫を避けたくなるほどの何かを宿していたのだ。そして尭姫の意志に少しでも沿おうと思うなら、出雲の、豊葦原の前に立ちはだかる大蛇を抑えねばならない。台与の言っていた、中つ国を滄海に還しかねない、物の力に立ち向かわないと。


 尭姫のそばに膝をついた鳥船に、騒速は彼女の体を預けた。尭姫はまだ息があったが、顔は蒼白で、流れ出した血は騒速の腕を真っ赤に染めていた。十掬剣を手に立ち上がった騒速を、悶え苦しみながら大蛇が見やった。煮えくり返るような憎しみが、赤い目の炎を苛烈に焚いている。


「思いあがるな! ずっと待っていたのだ、彌雲(いやくも)が空に再び立つ日を」

 騒速は答えずに切っ先を大蛇に向けて構えた。戸口の方に誰かが駆け寄ってきた足音がした。低い雷の音が途切れずに鳴っている。大蛇はさらに吠えるように言った。


「叢雲を阻めるのは級長戸辺(しなとべ)の娘だけだ! 剣などで私に勝てると思うな」

 途端に鼓動が跳ね上がり、騒速は瞠目した。級長戸辺の娘とは、すなわち風読のことだ。

「科戸国の姫か」


 大蛇は苦しそうな呼吸を抑えながらも笑った。邪で、心底愉快そうな笑みだった。

「そうだ。こやつらを唆し滅ぼさせた」

 ああ、と騒速は内心で嘆息した。出雲はその頃から、物に捕らわれ始めていたのだ。鷹彦の定めは、あの時から今までつながっていた。八岐大蛇が中つ国から人を滅ぼそうとした、その意図によって。


「雲を払う風を制すれば、恐れるものなどない」

 不思議なほど強い怒りが腹の底から湧き上がって、騒速は血に塗れた剣を構える大蛇をねめつけた。

持って生まれた風読の力のために、姫君は郷里を追われ、民も国も失った。そして流転の末に亡くなった。騒速には、姫がそれほどの憂き目に合わねばならなかったことが、納得しがたかった。級長戸辺の娘に生まれたと言うだけで、追われなければならなかったことが。そして、彼女のために奔走した鷹彦も、何一つ救われなかったことが。


「思いあがったのは其方だ。風読は長らえた」

 叫んだ騒速に相手はすかさず言って返した。

「征伐した奴の手落ちだ」

 水潟彦を大蛇が顎で示した。呆然と床に膝をつく水潟彦に、最早大蛇の台詞は聞こえていない。





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