八 叢雲
考えながらも、剣を渡してはならないことを直感的に承知していた。剣を取られれば、決して館から出られなくなる。後先考えず敵の懐へ飛び込んでしまったのは手痛かった。結局自分はいつまでも騒がしく詰めの甘い青二才のままだ。言代彦はこちらへ向かって歩いて来ようとしている。剣を佩いた言代彦と、丸腰の鳥船を見比べ、鳥船を背後にして言代彦の方を向いた。
ふと、この建物はどこにあっただろうかと考えた。西へ抜ければ、伊那佐の浜はすぐそばのはずだ。浜へ逃れればあるいは、追っ手を振り払うことができるだろうか。考えるより先に、騒速は剣を鞘から抜き払った。
「よせ」
鳥船が切羽詰まった口調で呟いて立ち上がったが、騒速は無視した。鳥船がわずかに後ずさる足音がした。八千矛彦の言葉に従っては、智舗に還ることは叶わない。近衛や言代彦に多少の怪我をさせてもここから逃げようと決めた、その時だった。
先ほど閉めた扉が勢いよく開け放たれた。人が群がって開けたかと思いきや、扉に手をついて中に入ってきたのは一人の男だった。扉に突いた手は太く逞しく、背丈は騒速より頭一つほども高かった。明るい中で見るのは初めてだが、間違いなく昨夜見た水潟彦だ。騒速は思わず息を詰めて彼を眺めた。
背が高いというだけでなく、水潟彦の筋骨隆々とした体躯は異様な迫力を放っていた。浅黒い肌も、彫りの深い顔立ちも、整然と結われた射干玉のように黒い髪も、彼の持つ力を鮮烈に象徴している。彼の顔に浮かぶ激しい怒りが、そう見せているのかもしれなかった。傍らには彼を追ってきたのか尭姫がいて、なぜか蒼白な顔をしている。彼女の目線を追って、水潟彦の剣に目をやった騒速は、さらに息を呑んだ。
細やかな装飾が覆う鞘に比べ、中に収まる剣の柄は、格段に古い。そして、いっそ禍々しいほどの威容を纏っている。尭姫の動揺、剣の持つ迫力、先ほど国主が語ったことを合わせれば、それが出雲の神宝――叢雲剣だとすぐに知れた。
水潟彦は、騒速が抜剣しているのを見ると瞠目した。さらなる怒りを滾らせ、剣の柄に手を掛ける。尭姫が縋るような目をしたが、水潟彦は気にも留めなかった。
「出雲国主八千矛彦に向かって剣を抜くとは」
「おやめください。斎の鞘から出してはならないものです」
焦燥に駆られた尭姫が、巌のような水潟彦の腕を掴んだ。外の空を指さし、ほとんど叫ぶようにして言った。
「既に剣が雲を群がらせているでしょう」
先ほど尭姫が神妙な顔をしていた理由が、騒速にも理解できた。叢雲剣は丁重に祀られ、鎮められていなければならない。それが勝手に持ち出され、怒りのままに抜かれようとしているために、剣に呼ばれた雲が空を覆っていたのだ。
綺良は八岐大蛇が水を呼び、山を暴れさせると言った。それは、大蛇が尾に潜ませていた叢雲剣による力だったのだろう。奥出雲の山、簸河で大蛇が牙をむけばそうなった。だが、杵築で叢雲剣が解き放たれたら何が起こるだろう。おそらくは誰も知らない。だが都は、神門水海や入海に囲まれている。雲を呼び、大水を招く水の物の怪が暴れるのに、不自由がないのは明らかだった。
不意に水潟彦の背後の空に、稲妻が一閃した。照らし出された空が紫色に染まる。胸の奥で雷に呼応する疼きを覚えながら、騒速は眉を顰めた。物とは、水潟彦のことだったのだろうか。人の姿をして杵築に入り込んでいるとだけ、台与は言った。国主の后を通じて国主を操っていたのだろうか。そして今朝、叢雲剣を手にしたのだろうか。
目まぐるしく考えを巡らせながら、騒速は剣の柄を握り直し、言代彦と水潟彦を見比べた。言代彦が、水潟彦を恬淡と見据えながら言った。
「控えよ、水潟彦」
声は聞こえたはずだが、弟は耳を傾けなかった。鈍く遠雷の音が響いた。
「兄上も父上も、生ぬるい。智舗に降る気などないのに、遣いを迎え入れるとは」
水潟彦が険しい顔で言い放った。
言代彦は何も言わず、顔色も変えなかった。国主は顔を顰めて水潟彦を睨んでいる。動揺した様子はなく、叢雲剣から目を離さないまま、吐き捨てるように言った。
「その剣を抜くまでもない相手だ」
「ならば斬り捨てても変わりはない」
一層反感を抱いた様子で、水潟彦は語調を強めた。眉を顰めた言代彦が、彼に歩み寄ろうとした。
「叢雲剣は武器ではない。神宝だ」
「兄上はわかっていない」
ほとんど怒鳴るようにして水潟彦が言った。
「丈夫にしか扱えない剣を俺が手に取ろうと言うのだ! 間違ってなどいない」
激高した彼は、勢いに任せて剣を鞘から引き抜いた。
「水潟彦!」
国主が叫んだのと、巨大な稲妻が空を走ったのはほぼ同時だった。宮の中までも真っ白に照らし出した雷光は、磨かれたばかりのように艶やかな刃に跳ね返り、一際まばゆく閃いた。騒速以外、誰一人として目を開けてはいられなかった。絶望した尭姫が悲嘆と諦念を込めて叫ぶ声が聞こえた。だがそれも、間もなく光の後を追った雷の音に掻き消された。
雷の音が響いた後、昂揚と戦慄を湛えた水潟彦の顔が目に入った。剣の力の大きさに慄いてはいるが、手放す様子はない。歓喜からか傲慢からか、口元にゆっくりと笑みが広がった。
「相手をしてやる」
水潟彦は騒速に向き直った。尭姫が華奢な手で頭を抱えたのを視野の端にとらえながら、騒速もまた彼の方に向き直った。水潟彦の立つ戸口と、騒速のいる場所には充分な間合いがある。だが、偉丈夫の水潟彦にとってはほんの数歩だろう。体が大きい分動きは鈍そうだが、何分力が強い。騒速は覚悟を決めて剣を構えた。猛る狂気に囚われた水潟彦は、目を逸らさないまま騒速の方へ一歩を踏み出した。
水潟彦が物の怪ならば、手段を選ばず退けるしかない。剣であろうと、雷であろうと。自分に走り寄りながら剣を振りかぶる水潟彦の動きは、妙に遅く見えた。ぎらつく刃を見据えて、胸の奥で空と呼び合う感覚を騒速は手繰り寄せた。
しかし、叢雲剣の切っ先を見据え、雷を呼ぼうとしたものの、どうしたことか電が降ってくる気配はなかった。空に満ちる雷の気配は手に取るようにわかるのに、剣の先に稲妻を落としたいとはっきり念じても、何も起こらなかった。ひそかに焦燥に襲われながらも、そうとなれば剣で闘うしかないと騒速は唇を固く結んだ。不思議な力には頼れない。自分の腕だけで事態を切り拓かねばならない。
息を詰めた瞬間に、水潟彦の斬撃を受けた。巌のような体から繰り出された一撃は重く、腕から肩まで強い痛みが走る。背丈も重みも敵わない相手から、全身の重みをかけられて、騒速は懸命に後ろ足で踏みとどまった。背後の鳥船が離れた微かな物音を聞いてから、自身も後方に飛びすさって刃を流した。剣を構え直す間にも、水潟彦はさらにこちらへにじり寄ろうとする。
不意に再び稲光が一閃して、眼前の水潟彦は動きを止めた。白い光が消えると、両開きの扉のうちの閉じていた一枚が大きく開け放たれていた。先ほど水潟彦が引いたのと逆の扉だ。開いた戸口には、ただ一人の人影が佇んでいる。
「水潟彦様」
高らかな呼び声が響くと同時に、水潟彦が戸口を振り返った。
暗い曇天のもとに目を凝らすと、背の高い女がいるのが見て取れた。
一人であの扉を開けられるはずがないが、戸を引き放った手を垂らしているのは間違いなくその女だ。いつの間にか降り出した雨に漆黒の髪を濡らし、生白い肌を光らせていた。目の色は深い水底のように昏いが、奥には仄かに蒼い光が宿るようにも見える。どこかでその色を見たことがある気がした。
「お待ちを」
水潟彦に言った女が纏う衣は、下女たちの衣より数段豪奢に誂えてある。たぶん尭姫と同等か、それより上等なくらいに。
「佐久姫」
水潟彦の呟きに、騒速は十掬剣の柄を握る手に力を込めた。彼女が国主の后なのだ。国主を唆し、水潟彦と通じていた相手。
国主が怪訝そうに口を開いた。
「何をしている」
妻が一人で扉を開け放ったのを見て、彼は戸惑いを隠せない様子だった。佐久姫は悠然と国主を無視すると、水潟彦へ滑らかに歩み寄った。
「どうした、来るな」
水潟彦が制止しても、佐久姫は歩みを止めない。至極当たり前のように傍らに立つと、彼が柄を掴んだ手に両手を重ねた。
「よくぞ剣を解き放ってくださいました」
水潟彦の顔が徐々に驚愕に歪んだ。何かに気づいた様子の尭姫が、恐れを露わに言代彦へと駆け寄った。やがて騒速にも、佐久姫の指が強い力で水潟彦の腕にめり込んでいることがわかった。異様な気迫に気圧された水潟彦が振り払おうとしても、佐久姫は手を離さない。
「奇稲田が黒鉄の里に打たせた鞘のせいで、長く剣に触れられなかった」
水潟彦の腰にある鞘を、佐久姫は嫌悪を込めて一瞥した。剣の柄から彼の手を引き剥がし、万力で手中に奪い取る。驚く水潟彦を見つめる顔には、薄く酷薄な笑みが浮かんでいた。昏い蒼が重なって黒を成していた瞳の色が徐々に変貌する。黒鉄の里で見た、蛟の目と同じ色を湛えていた瞳が、色を変えていく。蒼を重ねた黒から臙脂へ、それからほおずきのような紅へ。
熱く滾る鉄のように紅い、燃えるような眼だった。苛烈な光が揺らめく瞳を眺めながら、騒速はただ佐久姫――正体を現した物の怪を前に絶句していた。




