七 国主
翌朝、寝床にいた騒速の顔に雀が突進してきた。何だ何だと目を瞬いて飛び起きる間にも、雀はけたたましく囀り、髪や肩をつついた。あたりはまだ暗いのに、何が起こったのだろう。鳥船は無事だろうか。顔を顰めて床から這い出ると、騒速は暗い屋外を見やりながら寝起きの声で尋ねた。
「どうしたのです」
言い終わるのとほぼ同時に、目に入った外の光景に、騒速は愕然とした。部屋が暗いのは、陽が昇る前だからではない。空がどす黒い雲に厚く覆われているからだった。回廊から顔を出して上空を見上げると、雲が群がっているのはこの館を中心にしてのことだ。伊那佐の浜の方は雲が灰色や白に棚引き、未だ暗い西の空の青や紺色もわずかに見える。東を見やれば、暁の紅や黄金色が空を染めている。八色の雲が立つ空を眺めながら、暫し騒速は棒立ちになった。雀の羽が頬に触れて我に返るまで、初めて見る禍々しい雲に目が釘付けになっていた。
騒速は鳴き声に急き立てられて髪を束ねながら、雀が昨日より一回り小さくなったのではないかと思案した。見間違いだろうか。今の雀が目いっぱい胸を膨らませても、昨日の大きさに届かない気がする。だが尋ねている暇はない。
羽を広げて床板の上を跳びはね、急かし続ける台与を横目に剣を引っ掴んだ。剣を佩いたのとほぼ同時に雀が部屋を飛び出し、騒速は後を追った。
小さな翼は館の奥を一路目指している。国主のところへ向かっているのだろう。昨夜の話から、鳥船もそこにいると騒速は確信した。そして台与の焦り方を見るに、抜き差しならない状況に陥っているに違いない。深緋の巫女が取り乱したところを、騒速はまだ見たことがなかった。
炊屋で煮炊きをする煙が漂うほか、人が起きている気配はない。大勢いた下男や下女とも、今朝はすれ違わない。強張った面持ちで走っていく騒速を止める者はなかった。祝や衛士たちと険しい顔つきで話し込んでいる尭姫に行き会うまでは。衛士の中には赤目もいた。
「騒速殿」
回廊を駆けてくる彼を認めて、尭姫は微かに目を瞠った。深刻そうな顔をしてはいるが、昨日ほどの刺々しさはない。しかし脇を飛んでくる雀を見ると、呆気にとられたような表情を浮かべた。常盤色の衣に、昨日と同じ朱い櫛が良く映えている。
「その雀は――」
「え?」
尋ねかけた尭姫に、騒速はわざと、そらっとぼけた呟きを返した。尭姫は訊いても無駄だと思ったのか、問いを引っ込めた。
「鳥は此処に入れないはずなのに」
言いながら彼女は、騒速が腰に帯びた剣に素早く目を走らせた。帯剣していることを咎められるかと思いきや、尭姫はすぐに目線を剣から外した。
「怪しい者を見ませんでしたか」
早口に尋ねられて、今度は騒速が唖然とする番だった。息せき切って走る余所者の自分より怪しい者など、いるはずがない。
「いえ」
短く答えたものの、何を言っているんだと思ったのは滲み出てしまった。尭姫はばつが悪そうな表情を浮かべたが、先で待つ雀を追って駆けていこうとする騒速を見て怪訝そうにした。
「どこへ行かれるのです」
「智舗の夷守のところへ」
騒速は迷いなく答え、戸惑いを露わにする祝や衛士たちの合間を縫って先へ進もうとした。尭姫は、およそ止まる気のない彼の歩みを見てぎょっとしたように目を見開いた。
「此処より奥には国主しか」
「そこに智舗の夷守もいるかと」
立ち塞がろうとした尭姫から身を躱して、雀を追った。狙って赤目の横を通り抜けると、彼は驚いたふりをして身を退け、道を空けてくれた。騒速は脇目もふらず回廊を駆け続けた。
気のせいか台与の動きは昨夜より敏捷さを欠いている気がする。長く鳥飛をしているため、消耗しているのだろうか。尭姫たちの様子も気がかりだった。まだ曙の頃だというのに、皆緊張した様子で頭を寄せ合っているのは不可解だ。鳥船に何かあったのではないか。
辿り着いた最奥の宮は、向かって右に入口があった。見上げるような高さの板を並べ、金物の縁取りをあしらった扉である。人一人で開ける大きさではなかったが、騒速は引手に手を掛けて足を踏ん張り、全身の重さをかけて扉を引いた。尭姫たちが追いかけてくる足音が近づいてきたが、辛うじて追いつかれる前に扉の隙間に身を滑り込ませることができた。再び力いっぱい扉を引いて隙間を塞ぐ。尭姫や祝たちの力では、少なくとも暫く開けることはできないだろう。
扉の中には、広大な空間が広がっていた。一抱えはあると思われる太い柱が八本、真四角の空間の四辺を成している。中心には、とりわけ太い柱が一本まっすぐに立っていた。柱の向こう、広間の突き当たりには、一段高くなった御座がある。その御座に向かって座る鳥船の後姿もあった。剣は佩いていない。扉の蝶番は滑らかで、音もなく開き、閉まったためか、鳥船はこちらを振り返ることもなく前を向いたままだ。
騒速は息を詰めて、御座にいる男の姿を食い入るように眺めた。
出雲国主の八千矛彦であろうその男は、お世辞にも体格がいいとは言えない。痩せて骨ばった体は、正装し、丁寧に下げ鬟を結っていても、痛々しいほどの不健康さが際立った。髪にも眉にも髭にも、少なくはない白髪が混じっている。目つきは鋭く、天下造らしし国主と言われるだけの迫力は確かにあったけれど、大きく落ちくぼんだ眼窩は黒ずみ、肌は乾いて艶がない。ぎらつく眼光もどこか、残り短い命にしがみつき、何としても地位を維持したいという執心が透けるようだ。
加減が悪くなって久しいとの噂は本当だったらしい。だが病どころではない、不穏な何かが国主を押し包んでいる。まるで、死していく魂を無理やり体につなぎとめているかのような生気のなさ。
御座の脇には身分の高そうな男が控えているが、他には近衛が一人いるだけだ。男は扉から滑り込んできた騒速を見てわずかに眉を顰めた。男の眼は、物静かで思慮深そうだが、どこか憂いを湛えている。体つきは逞しく、短剣を一つ腰に佩いていた。
国主の昏い双眸も、間もなく騒速の姿を認めた。露骨に顔を顰めた八千矛彦は、ゆっくりと口を開く。眼前の二人を見て誰かが入ってきたことに気づいた鳥船もまた、こちらを振り返った。
「智舗の者か」
なぜか目敏く見て取って、出雲国主は呟いた。呟く前に、騒速が剣を佩いた腰帯を一瞬見やった。
「何をしに来た。其方は呼んでいない」
「存じております」
広間の端に声が届くよう答えてから、騒速は早足に鳥船の方へ歩み寄った。昨夜と同じように鳥船の疲れは色濃いが、怪我はない。
「智舗の山門大王より遣わされました、御雷命の息子の鎚彦と申します」
「来るな」
鳥船の制止も構わず、騒速は進み出ながら名乗った。
「智舗の夷守は、出雲国主の誘いに屈することはございません。山門大王に降る気がなければ、鳥船様をお帰しください。代わりに私が留まりますゆえ」
八千矛彦は何も言わず、面倒くさそうに臣下の男を見やり、顎で騒速を指し示した。男は無言でうなずいた後に騒速の方を向いた。静かだが、深く響く声で言った。
「出雲へ誘おうとしていたのではない」
騒速は眉を顰めた。懐柔でないなら何だと言うのだろう。そう言えば、雀はどこへ行ったのか。台与があれほど急いで鳥船のもとへ導くなら、何か理由があると思ったが。
おもむろに八千矛彦が再び口を開いた。
「剣を寄越せ」
反射的に警戒を顔に滲ませ、騒速は肩を強張らせた。だが、逸る気持ちを紙一重のところで抑え、大刀の柄を握りたい手を止めて尋ねた。
「何ゆえでございましょう」
「出雲の神宝が消えた。昨夜盗んだ者がいる」
驚いて言葉を失いながらも、大蛇の尾から得られた叢雲剣のことだと直感した。斎の司である尭姫が祀っているはずのもの。彼女が朝早くから、赤目や祝たちと頭を寄せ合っていたのはそのためだったのだ。
「いつまでも出雲の臣下に加わらぬこやつが盗み、手勢に持ち去らせたのだ。手勢が杵築から逃げ去ったのは確かめている」
国主がぞんざいに鳥船を顎で示しながら言い、その後騒速に目線を移した。
「あるいはお前に隠させたかもしれぬ」
鳥船は、約束した通り手勢を奥出雲へ向かわせてくれたのだ。だが、神宝が消えた時と重なったために、あらぬ疑いを招いてしまった。焦りを押し隠しながら騒速は言った。
「私ではございません。これは郷里の洲で打った鋼で、神宝と言えるような代物ではございません」
八千矛彦は鼻で笑った。
「神宝とは思っておらぬ。だが寄越せ。――言代彦」
はい、と傍らの男が答えた。ではこの男が、綺良が直訴しようとしていた言代彦なのだ。近衛とともに立ち上がった彼は、騒速より背丈が低く、力では充分に勝てそうだった。しかし、四方を壁に囲まれた此処では逃げ場がない。扉の向こうには尭姫たちが待ち構えている。




