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六 后

 水潟彦は、北の奥にある佐久姫の部屋へと向かった。先んじて配下の一人が伝言しに行ったからか、閨には既に明かりが灯り、髪を解いた佐久姫が彼を待っていた。夜着に身を包んだ佐久姫の姿は、朧な火影の中で妖しく艶めかしい。射干玉のように黒い髪と、眩いほどに白い肌の対比が鮮烈だった。瞳の色も至極暗いが、時折強い光に照らされると黒ではなく濃い蒼に見えることがある。水を湛えた暗冥のような、青色をいくつも重ねた色が見えるのだ。


「遅くにすまぬな」


 彼の姿を認めると、佐久姫は滑らかな動作で立ち上がった。出雲で一番の偉丈夫である水潟彦には遠く届かないけれど、女にしては背が高い。


 佐久姫が杵築に来たのは十年以上前だ。素鵞を訪れた父が、彼女を見初めて連れ帰ってきた。元から妻を何人も抱える父だったが、嫉妬深い嫡后が大病をした途端のことだったので、半ば呆れたのをよく覚えている。その暫く後に嫡后が亡くなってからは、張り合いがなくなったのか、言代彦や尭姫の母も相次いで命を落とした。水潟彦の母は、佐久姫が来るより前に落命していた。


 后が只一人となったこともあり、父はここ数年佐久姫を特に寵愛している。兄の言代彦や、妹の尭姫は佐久姫と疎遠だ。二人とも人を嫌う質ではなかったが、佐久姫の方がなぜか言代彦や尭姫を避けた。父は二人を信頼しているけれど、佐久姫が嫌がるので積極的に関わることはない。しかし姫は、水潟彦にだけは親し気に話しかけ、何かと頼ってくれた。だからと言って父と水潟彦が近しくなることもなかったけれど。


「お待ちしておりました」


 佐久姫は大きく口の端を上げて笑んだ。唇の広がり方が、時折得体の知れない生き物のように見えることがある。


 水潟彦は数年前から佐久姫のもとを訪れるようになっていた。兄妹の中でも自分だけに心を開く佐久姫は、水潟彦の心を落ち着かせる相手だった。周りの誰もしてくれなかった扱いを、佐久姫だけは望むまま与えてくれたからだ。


 思慮深い兄のことは一目置いていたものの、彼こそ次の国主と持て囃されるのを見る時、羨ましさがないと言えば嘘になる。当の本人は誉め言葉にそれほど頓着していないようなのも拍車をかけた。自分は人に見られること、評価されることに餓えているというのに。出雲で一番の偉丈夫である彼に、賛辞はどれだけあっても足りないはずなのに。


 それもこれも、亡き嫡后が母を苛め抜いたせいだ。毛嫌いしていた后の子が注目を浴びることすら、嫡后は嫌がった。だから今まで、水潟彦は顧みられることがなかったのだ。周囲の不当な扱いはいつでも腹が立ったが、佐久姫が自分に擦り寄るのを見れば、多少は溜飲を下げることができた。いつまで経っても彼を認めない父へ、少しは意趣返しをすることができたから。


 水潟彦が近寄ると、佐久姫は媚びるような動作で首を傾げた。


「いらっしゃるまで心細い思いでした。またも智舗が遣いを差し向けてきましたので」

「ああ、聞いた」


 佐久姫の言葉を彼はすんなり信じた。国主は出雲を此処まで大きくした男とはいえ、歳は百をとうに超えている。最近では体も徐々に言うことを聞かなくなっているようだし、不安があって当然だ。水潟彦は佐久姫のこめかみに手を伸ばし、漆黒の髪を撫でてやろうとした。だが次の言葉に手が止まった。


「出雲に仕えるよう、国主様が諭しているようなのです」


 不愉快だった。最初にやってきた忍彦にも、次の和香彦にも、父は何の躊躇いもなく位を与えた。和香彦へは尭姫までくれてやる始末だ。言代彦と違って、水潟彦は尭姫と仲が良いわけでもない。だが、美しい腹違いの妹が、あっさりと余所者に娶せられたのは腹が立った。何もせずともそこにいるだけで父から愛される尭姫が、和香彦と夫婦になってますます幸せそうなのにも苛々した。

 結局のところ水潟彦は、大抵の者に怒りを抱くわけなのだが、自身ではそれに気付いていなかった。度の過ぎた憤りや妬みが視力を狂わせることは、なおさら認識しがたかった。


「さっさと斬り捨てればいいものを」


 吐き捨てるように言った水潟彦の肩に、佐久姫が生白い手を載せた。


「皆そう思っています」


 ああ、と彼は呟いた。余所者が何の労苦もなく良い立場につくことを、面白く思う者などいない。


「父上はわかっていない」

「ええ」


 佐久姫がしな垂れかかってくるのはいつもなら嬉しいはずだったが、この夜は怒りのあまりその余裕もなかった。頭に血が上って、憤怒以外に考えが回らなくなる。


叢雲剣(むらくものつるぎ)でお裁きなさいませ」


 耳元で囁かれた言葉は、何の抵抗もなく水潟彦の腑に落ちた。素戔嗚命が出雲国の神宝かむたからと定めた剣は、自分が外敵を裁くのに最も適している。尋常ならざる力を宿す剣で、出雲を侵す者を斬ることは、彼にとって申し分ない武勲になると思えた。


 叢雲剣は館の最奥で尭姫が祀っており、祭祀であろうと鞘から抜く者はない。だが、国主の息子である自分が触れてはならない理由があるだろうか。剣を扱うのに最も相応しい者の一人だ。多少大胆に過ぎるかもしれないが、後に振り返れば、思い切って敵を斬って良かったと判断されるはずだ。遣いが招かれざる客であることは確かなのだから。


「敵を退けたなら必ず敬われます」


 佐久姫が後押しするように囁いた。水潟彦は正面を向いたまま深く頷く。ふと、佐久姫は幾つだったろうと思う。初めて会ってから十年以上経つが、見目が変わっていない。だが、気にすることでもないと考えを退けた。大事なのは、それほど麗しい相手が傍らに侍っていることだ。


「ああ」


 彼にとって佐久姫の存在が当たり前であることを誇示するかのように、水潟彦はしなを作っていた彼女の腕を払いのけた。


「待っていろ」


 佐久姫の方を見もしないで、水潟彦は大股に歩きだした。月明かりがさわめく以外、彼の足音が響くのみだった。部屋を出て回廊を館の奥へ向かい始めた水潟彦を見送りながら、佐久姫は静かな笑みを浮かべていた。

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