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五 鳥船

 館が寝静まった頃、騒速は寝床から這い出た。よく晴れた夜で、白銀の月明かりは目に眩しいほどである。松明はほとんど焚かれていないものの、これなら充分に目が利く。迷った末に帯剣しないで行くことにして、枕元に剣を置いた時、再びどこからか雀が現れた。騒速の意を確かめるかのように、雀は剣の柄に止まった。


「害意ありと見做され、捕らえられたら困ります」


 驚きながらも騒速は言った。今まで台与は、一度姿を消したら同じ姿で現れることはなかったが、今日は昼に続き夜にも現れた。出雲に飛んでくるまで相当な時を費やしたうえ、雀に宿ったまま、どこかに長い間身を潜めていたのだ。帰るのは一瞬とは言え、これほど長く鳥飛をしていて良いのだろうか。台与が誰とも会わない日などそうそうないし、何より狭依は心配して許さないと思うのだが。


 雀は小首を傾げたけれど、やがて納得したのか剣の柄を離れた。先に回廊へ出て、手すりに止まって騒速を待ち構えている。騒速が回廊に出ると、待ちかねたように先へ飛んだ。少し離れた手すりに止まり、再び彼を待つ。まるで先導するようだと思っていると、やはり騒速が近づくたびに雀は離れて少し先へと飛んだ。


 衛士の姿は見当たらない。注意深くあたりを見渡しながら、雀について歩を進めていく。館も都も静まり返っており、遠海から響く漣の音だけが聞こえていた。


 雀は迷いなく回廊を進み、騒速は館に着いた日に歩いた道を通った。それもそのはずで、騒速は次第に館の入り口に近づいていた。外へ続く大きな門は、今いる棟から見て、何もない広大な庭を挟んだ向こうに立っている。その庭へ続く門の前を横切って、雀は飛んだ。小さな羽を追って門の脇へ行くと、外側の壁に沿って疎らながら篝火が焚かれている。


 騒速は開け放たれた門の口から姿が見えないよう、壁の陰に身を潜めた。庭を挟んで向かいにある門の両側には衛士が控える。冴え冴えと月光が照っているので、開いた門の前を横切れば見つかってしまうだろう。


 だが雀は門の向こう、騒速がやってきた棟の向かいにある回廊へと飛んでいく。そしてそのまま、回廊の奥の闇へ姿を消してしまった。追っていけばまた待ち構えているだろうか――けれど、追うには衛士に見咎められることなく門の口を横切らねばならない。壁に張り付いて息を潜めながら、門の間口の幅を何度となく目ではかった。到底一瞬で走り抜けられる距離ではない。


 騒速は長いこと躊躇っていた。衛士の位置は遠く、彼らの目線がどこを向いているかはほとんど見えない。交代の時を狙うべきかと思い始めた時、不意に館の外から微かな物音が聞こえた。馬の蹄の音と、人の話し声だ。物音を聞くに、外門に到着した者は一人ではない。間もなく門が開けられ、外に向かって口を開けた扉から五、六名の集団が広い庭を横切り、こちらへ向かってくるのが見えた。


 遠目にも毛並みと体格の良い馬は、帰り着いた者の身分の高さを示していた。騒速は先頭の馬の背に、ひと際大柄な男の姿をみとめた。見たこともないほど逞しい体躯で、騒速よりも背が高い。綺良の言っていた国主の次子、水潟彦だろうと見当がついた。


 彼らは庭を横切り、騒速が壁の裏に身を潜める内門に向かって歩いてきた。馬に乗ったまま、館の奥へ向かおうとしているらしい。騒速のいる壁際は月影が落ちており、姿は見えないはずだ。だが、万が一にも存在を気取られないよう、ひたすら息を潜めた。心の臓が胸を破りそうなほどに鳴り、その音が聞こえないか戦々恐々とした。彼らは馬上で何事か言い交しながら近づいてくる。


「馬丁は寝ているだろうな」

 水潟彦と思しき声が尋ねた。力強くよく通る声だった。


「おそらく。我々で鞍を外しておきます」

 配下らしき男が淡々と答えた。助かる、と水潟彦は労うように言って、続けた。


「誰か佐久姫のところへ。俺が行くと伝えろ」

 一行に漂う空気は奇妙な緊張を帯びた。表情は見えないものの、配下たちが目配せしあう様が目に浮かぶようだった。遠慮がちに一人が言う。


「佐久姫様も、既にお休みではないでしょうか」

 昼に聞いた后の名前だ。水潟彦が夜中に彼女を叩き起こすのは、明らかに不自然だ。配下たちの不穏な空気は、それをわかってのことだろう。


「俺の訪いを拒む相手ではない。あれの侍女を叩き起こして伝えよ」

 やや苛立ちながらも自信に満ちた様子で、水潟彦は言いきった。はい、と逡巡しながらも一人が呟く。

「頼んだ」


 遠ざかっていく水潟彦の声が、馬の蹄の音に混じって消えた。騒速は眉を顰め、今聞いた中身を反芻していた。この刻限に、女の(しとね)を訪ねることの意味は騒速にも分かる。だが、父の妻を訪ねると言うことはつまり、后に密通しているのは水潟彦なのだ。


 道理で赤目も后の相手を知らなかったはずだ。いくら人が噂を好むと言っても、軽々しく口にできる内容ではない。


 混乱しながらも茫然としていた時、砂を微かに撫でるようなごく小さな物音がした。足元に目を落とすと、いつの間にか戻ってきていた雀がこちらを見上げている。騒速と目が合った雀はすぐさま羽を広げ、再び門の東側へと飛んだ。雀を目で追った騒速は、自分の寝泊まりする棟と門を挟んで反対、東側の棟の回廊に目を留めた。


 月明かりが照らす手すりの傍らに、体格の良い壮年の男が、険しい顔で佇んでいた。騒速は息を呑んで彼を凝視した。間違いない――智舗の夷守、鳥船だ。


 ずっと探していた姿が不意に現れ、驚愕と安堵がどちらも強烈に湧き上がる。生きていてよかった。怪我をしている様子もない。一方で、顔には色濃い疲労が浮かんでいる。

 物音を聞きつけて様子を見に来ただけなのか、水潟彦たちが遠ざかるのを見送った後、鳥船は踵を返して立ち去ろうとした。焦った騒速は、まだ遠くに水潟彦たちの姿が見えているのも構わず呼び掛けた。


「鳥船様」


 大声ではないが、決して小声でもない。鳥船は庭を振り返ったものの、暗がりに潜む騒速の姿は彼から見えない。彼を何とか引き留めねばと意を決した騒速は、開いた門から衛士に見られる危険を顧みず、鳥船のそばに駆け寄った。門に沿って庭を横切り、鳥船のいる回廊を見上げる。水潟彦たちの姿は庭の反対側から厩のある区画へ消えようとしていた。

 目が合った鳥船は大きく目を見張った。


「騒速――杵築にいたのか」

 やはり鳥船は、彼が来たことを知らされていなかった。素早く頷いて騒速は言った。

「鷹彦様が奥出雲で加勢を待っておられます。何人か手勢を差し向けてくださいませ」


 鳥船はすぐに事情を理解したようだったが、緩やかにかぶりを振った。

「手勢と引き離されているのだ。あれらが何処にいるか、知らされていない」


 薄々予想していたことだったが、騒速は歯噛みした。出雲国主の腹は最初から決まっていたのだ。遣いは一人ずつ隔離し、懐柔に屈するまで互いに話をさせない。出雲に寝返った忍彦も和香彦も、従わなければいつまでも軟禁されていたことだろう。


「懐柔を躱すことに日々汲々としている」

 鳥船は自嘲気味に笑みを浮かべた。

「国主は智舗に降る気はなく、遣いを帰す気もない。大王の案内がなければ、其方が来たことも知らなかった」


 いつの間にか、回廊の手すりに止まっていた雀を一瞥しながら、鳥船が呟いた。暫く姿を消していた間に、鳥船を見つけ、連れてきてくれたらしい。

「吉備は智舗に与したとお伝えください。多少の揺さぶりにはなるはずです」


 驚いた顔をしたものの、鳥船はどこか安堵したように言った。

「頼もしい。警固の任も成功裏に終えたのだな」

「それでも難儀したら、鳥船様も黒鉄の里へ。国主の誘いに抗う役は私が引き受けます」

 早口に言うと、鳥船は穏やかな笑みを浮かべたが、静かにかぶりを振った。

「今私が消えれば大事になる。手勢を脱走させ、何人か山へ向かわせることとしよう。何とかして探し出す」


 雀が励ますように小さく鳴いた。もしかしたら、既に手勢たちの居場所を把握しているのかもしれない。あたりに油断なく視線を走らせてから、鳥船は続けた。

「其方はもう戻れ。今宵は明るすぎる」

智舗への忠義も、騒速に万一のことがあってはならないという配慮も、かつて見た働きぶりと同じだ。騒速はひそかに懐かしさを覚えながら、小さく頷いた。


「また参ります」

 鳥船が頷くのを見届けてから、騒速は元来た道を戻った。早足に戻る間、誰かに行き会うことは幸いなかった。


 部屋に辿り着くと、安堵のあまり深い息をついた。床に膝をつき、座り込む。朝から晩まで、真に気の休まることがない暮らしは骨が折れた。国主は鳥船から順を追って、智舗の者をねじ伏せようとしている。しかも、奥出雲を追い詰めようと黒鉄を求める動きの根源ははっきりしない。国主かもしれず、国主を操る后の佐久姫かもしれず、もしかしたら后と通じる水潟彦かもしれない。


 尽きない考えをやめてようやく顔を上げた時、床に横たえた十掬剣が目に入った。雀はまた、知らぬ間に姿が見えなくなってしまったと思った。


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