三 赤目
「私は夷守の麾下です。無事を確かめる必要があります」
「心外です。国主が危うい目に遭わせているかのように言われるのは」
顔を顰めた尭姫に向かって、騒速は静かに首を振ってみせた。
「危うい目に遭われなくても、出雲国に引き込まれようとしているやも知れませんから。鳥船様ほど人望篤い方なら、よもや懐柔されることはないでしょうが」
一瞬虚を突かれたような顔をしたのち、尭姫は憤りをあらわにした。あまりに苛烈な変化だったので、騒速は驚いた。遣いの二人を出雲国が懐柔したのは争いようのない話であり、それは智舗での立場を捨てたことへの表れなのに。
「仕えた者に見限られるなら、その程度の主だったということです」
冷ややかだった口調が急に熱を帯びていた。尭姫が智舗の使者のために激する理由は思い当たらないが、只人ならざる目には強い昂ぶりがあった。
訝しく思いつつも騒速は言った。
「智舗を統べる山門大王は、葦原中つ国に二人といない方です。日嗣の巫女だけが持つ力で国を治め、物の力に呑まれることなく今日まで国を保っている」
「出雲国主の八千矛彦も、二人といない方です。国引き以来、これほど出雲を大きくした国主はない――和香彦様が鞍替えなさったのも、無理からぬこと」
迷いなく名前が出てきたこと、声に力が籠もっていたことから、尭姫と和香彦が近しいことが察せられた。
台与が鳥飛をした日を思い出して、騒速は顔を曇らせた。
「和香彦殿は――」
「春先に亡くなりました。雷に打たれて」
俄かに目を潤ませた尭姫の様子に、騒速は暫し絶句した。単純に、目の前で女に泣かれて動揺したということもある。だがそれ以上に、自分の放った雷が何をしたか、今更ながら悟らされていた。もし吉備や奥出雲で電を呼んでいなければ、台与の言葉があっても自身のしたことと信じられなかっただろう。だが今は知ってしまった。御雷命が自分に持たせた力が何なのか。
「その場を見ていた者が、智舗のまじないで殺められたと言っていたわ」
騒速は険しい顔をしたまま、何も言えなかった。稲妻が和香彦を打たなければ、和香彦の弓は狙いを外さず山門大王の胸を貫いていたかもしれない。彼の言葉を聞くために、台与はぎりぎりまで雉の体に魂を留めようとしていた。台与は豪胆であるがゆえに無茶をするので、矢に貫かれ大けがをすることもあり得た。大王を守るためには致し方ないことだ。きっと智舗の人間ならそう言う。
彼の混乱をよそに、尭姫は堰を切ったように続けた。
「出雲で和香彦様は、新しい位を与えられて、ようやく居場所を見つけたのです。相応しい地位もないまま、危険な任を押し付けた智舗を離れて。その何がいけなかったの?」
暫くの間、悩みぬいた末に、騒速はどうにか答えた。
「和香彦殿には妻子がいました。たとえ大王から賜った位が不満でも、妻や子が智舗で待っていたのなら、帰る理由があった」
夫というのが鷹彦のように妻へ深い思いを抱くものなら、伴侶のもとに戻って然るべきだろう。まして和香彦は子をもうけていた。だが、尭姫は遮二無二かぶりを振った。騒速より数歳年上であるはずのその人は、妙に幼く悲しく見えた。
「あの方が選んだのは私でした」
自らに言い聞かせるように、尭姫は断固として言った。尭姫その人が妻だったと知って驚いたものの、彼女の動揺ぶりが腑に落ちた。最初に現れた時から、どこか上の空で生気のない様子であったことも。これほど悲しんでいるのは、愛する人を失ったからなのだ。そしておそらくは、和香彦もまた尭姫を愛した。
「和香彦様は、智舗で見つからなかったものを、出雲で見いだされた。望んでいたものを手にして、何がいけないの――それが郷里の外だったからと言って」
最後の言い回しは、騒速の胸を強く搔き乱した。
尭姫にとっては、自分が和香彦の唯一の相手だったと、ひとえに信じたから口にした言葉だろう。だが、知るはずのない騒速の過去を、その一言は正確に言い当てていた。生まれてから育ったすべての記憶と決別して、郷里を捨てた彼のことを。茫然とする騒速を見て、尭姫は単に言葉に窮しているのだと思ったらしい。半ば食って掛かるように言った。
「貴方だって、試されたことがないから偉そうなことが言えるんだわ」
試されるも何も、と騒速は内心で独り言ちた。懐柔などなくても、彼は自ら洲を飛び出したのだ。あの夜会った都の武人に、都へ連れていくよう迫った。洲の者たちが、鳥船たちに攻め落とされるよう間諜を働いてまで。
涙ぐんだまま肩で息をする尭姫を、騒速は暫し沈痛な面持ちで眺めていた。和香彦に会ったことはない。だが、彼が台与に矢を向けたこと、そして今の尭姫の様子を見れば、彼の居場所が出雲にあったのは明白だった。智舗での立場を失っても、離れたくないものがあったのだ。
和香彦には智舗での役目も立場も与えられていた。だが彼が居場所を求めたのは出雲の尭姫だったのだ。一緒に生きる人を失って伊伎を離れ、役目がありながらも御笠の都での生き方に煩悶している自分が、和香彦を責めることはできるだろうか。
愕然と立ち尽くした騒速の背後から、近づいてきた足音があった。二組の足音が止まって間もなく、武骨な男の声が言った。
「尭姫様」
騒速も尭姫も、声のした方を振り返った。背は低いが巌のような体躯をした衛士と、年かさの女が立っていた。口を開いたのは、侍女と思しき年かさの女の方だった。
「言代彦様が戻られました。お出迎えにいらしてくださいませ」
兄様が、と尭姫は力なく呟いた。
騒速はわずかに眉を顰めた。言代彦が杵築へ来たなら、三穂埼へ向かった綺良とはすれ違いになってしまったはずだ。頭髪に白髪の混じった侍女がさらに言った。
「その後、佐久姫様が斎の宮でお会いしたいとのことでございます」
「后殿が? 珍しいこと」
佐久姫とは国主の后らしい。尭姫が戸惑いを浮かべると、侍女は宥めるように言った。
「守りのまじないを強めた方がいいと。何か入ってきたようでございます」
尭姫の面持ちが、平静と言い難いほどに強張った。騒速は眉一つ動かさないように気を付けながらも、かつて台与が言ったことを思い出した。杵築の館は、台与が入ってこられないよう拒んでいると言っていた。だがおそらく、まじないを破って入ることができたのだ。期待に胸が高鳴った。
「わかりました。まずは兄様にお会いするわ。――それでは、失礼いたします」
騒速に軽く会釈をして、尭姫はその場を辞去した。侍女が彼女の横について歩き、衛士も二人を追っていこうとした。黙って彼らを見送ろうとした騒速だったが、衛士が脇を通り過ぎた直後にやにわに声を上げた。
「あの」
侍女と衛士が彼の方を振り返った。騒速は努めて声を静めながら、衛士と目を合わせて言った。
「部屋に戻る道がわからない。案内してくれないか」
呆れたような顔をした侍女は、尭姫を追って再び歩き出した。衛士もまた、何を言っているんだと言いたげにしている。侍女と同じく立ち去る気配を見せる。だが、目の前の棟に部屋があるのは承知の上で、騒速は彼に歩み寄った。
「頼む。十三の時に蹈鞴で負った火傷が痛む」
俄かに衛士は目を瞠って棒立ちになった。小声でも聞こえる距離まで近づいてから、騒速は声を潜めて早口に尋ねた。
「黒鉄の里の者か」
衛士は一も二もなく頷いた。握りしめた左手の甲には、蹈鞴で負ったと思しき大きな火傷がある。彼が綺良の許婚だろう。確か赤目と言った。言葉もないままに暫く騒速を眺めまわした後、赤目は用心深く尋ねた。
「なぜ俺を知っている」
「蛟を倒した時、綺良姫から聞いた。貴方が此処にいると」
赤目はさらに目を見開いた。
「いったい、何者だ」
「智舗の遣いだ。黒鉄の里と杵築に棲む物の怪を、主命で退けに来た」
無理もないことだが、赤目はすぐには事情が呑み込めないようだった。辛うじて続きを聞いてくれたのは、綺良の名前を出したからだろう。
「もう一人の遣いの鳥船に会いたい。居どころを知らないか」
赤目は庭を立ち去りつつある下女と尭姫に目を走らせてから、逆の方向へ顎をしゃくって歩き出した。騒速の寝起きする棟がある方向だった。
「其方がいるのは館の西端、先に来た者は東側にいる。警固は西の方が手薄だ」
歩きながらも赤目は神経質そうにあたりを見回していた。やはり国主の館での立場は不安定らしい。智舗の遣いと馴れ合ったりしたら、何を咎められるかわからないのだろう。
「詳しい場所は」
「わからん。俺が出入りするのは斎の宮だけだ」
間髪入れずに赤目は答えた。尭姫を呼びに来たのは、持ち場が斎の宮だからだろう。
「杵築には物の気配はないのか」
「都で見たことはない。だが、入海では魚を食い荒らす物の怪が出るようだ。言代彦様が正体を探っているが、何もわかっていない」
赤目は考え込むような険しい顔つきで呟いた。神妙な口調からは、突然の問いに対しても、できるだけの答えを返そうとしてくれたのが窺えた。
「黒鉄を急かすのは、嗣ではなく国主なんだな」
「そうだ。だが一体、どこまでが国主様の言葉なのか――大国主様は、先ほど尭姫様を呼んだ后とばかり過ごしている。何が国主様の思惑で、何が佐久姫の思惑なのか、嫡后様亡き今、最早わからない」
綺良の言った通り、嫡后の死後、国主の姿も意志も見えなくなったと言うことか。
「佐久姫は自身も表に出てこず、国主様を奥の宮に閉じ込めている。でも、后を訪う者が国主以外にもいる」
騒速は驚愕して眉を顰めた。奥出雲を脅かす国主は后とばかり過ごしている――のみならず、その后は誰かと通じている。里を追い詰めたいのは誰の意志だろう。国主か、后か、密通の相手か。
「后は誰と通じているんだ?」
「わからん。薄々わかっている様子の者も、多くを語らない」
さらに話を聞きたかったが、騒速の部屋に面した庭に着いてしまっていた。
「すまない。持ち場に戻らねばならん」
苦しそうに言った赤目に、騒速は心配ないと頷いて見せた。
「綺良姫は元気だ。また会おうと言っていた」
騒速が告げると、赤目は俄かに口元を綻ばせた。
「何よりだ。黒鉄を止めてくれればなおいいが」
ごく自然に出てきた台詞に、騒速は胸を痛めた。一瞬言葉に詰まったものの言った。
「止めれば赤目殿の身が危うくなる」
「知っている。だが人質とはそういうものだ。そして綺良の務めは里を守ることだ」
緊張は漂っていたものの、赤目の微笑は朗らかだった。綺良がどうしても出せなかった答えを、彼はずっと知っていたようだった。
「あれは目先のことばかり考え、里のことを考えない時がある。それでは困る」
騒速の部屋近くの、渡殿の前に着くところだった。逡巡した末に騒速は言った。
「黒鉄は止まる。間もなく杵築にも知らされるだろう」
赤目は黙り込んだが、面持ちは静かだった。頷いてから騒速に、高床の回廊に上がるよう左手で指し示した。
「聞いて安心した。礼を言う」
「充分お気を付けを」
ああ、と呟いて赤目はすぐに踵を返した。振り返らず足早に立ち去る彼の後姿を、歯がゆさを堪えながら騒速は見送った。何かしてやりたいが、今騒速が赤目にしてやれることはない。鳥船にも会えず、杵築に入り込んだ物の正体もわからない今は。
赤目の命を危険に晒し、夫を亡くした尭姫をさらに苦しめる方向へ、自分が動いているのはわかっていた。だが、智舗の臣下としての務めに徹さなければ。此処では鷹彦に助けてもらうことはできない。自らの行動のよりどころとできるのは、主命と、それを果たして還るという目的だけなのだ。
おもむろに、小さな雀が飛んできて騒速の肩にとまった。ふとそちらを見遣り、雀の黒々とした目と目が合うと、覚えのある不思議な感覚が蘇った。雀の眼には、目を逸らすことを許さない静かな強さが宿っている。
「山門大王?」
小声で囁いた騒速に答えるかのように、雀は澄んだ声で短く囀った。




