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一 八雲

 素戔嗚の娘を娶った血筋に属し、国主の祖となる男神(おとこがみ)が、出雲国の北部を造った。


 出雲国が小さく作られすぎたと考えた八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)は、四方(よも)の岬を引き寄せてきて出雲の地に縫い付けた。これを国引きと言い、国引きを終えたことを宣言した地を意恵(おえ)と呼ぶ。かつて素鵞(すが)にあった宮は、この時引いてこられた地の杵築に遷された。そして今に至るまで、南に神門水海(かんどのみずうみ)を、西に伊那(いな)()の浜を望む館で政が執り行われている。


 国主の嗣子の言代彦は、同じく国引きで縫い留められた三穂埼にいることが多かったが、不漁の手当てに腐心し、全く表に出てこない。先日三穂埼を訪ねた里の遣いは、門前払いされてしまった。

 一方、国主の次子の水潟彦(みなかたひこ)は杵築にいた。治水や土木に造詣が深い彼はかつて、方々に赴き里の整備を指南した。だがここ数年はもっぱら国主の館にいて、都やその近郊の工事に顔を出す程度だった。水潟彦は建物や堤の造作を考えられるだけでなく、怪力の持ち主でもあるため、自ら作業に手を貸すことがあるという。


 黒鉄の里の遣いは先日、一縷の望みをかけて国主の館も訪ねていた。だが水潟彦は不在だったし、国主は館に籠もったまま、大和からの報せにだけ耳を傾け、祭祀以外では人前に出てこないと言う。里からの遣いも、すげなく追い返されて終わりだった。

 綺良によれば、国主が館に籠もるようになったのは、気性の激しい嫡后(おおきさき)が亡くなった十年ほど前からだ。他の后たちも逝去し、今は一番若い后だけが国主の傍に侍っている。


「后の中で、言代彦様の母君だけは、嫉妬深い嫡后様とも仲良くやっていた。それもあって、言代彦様は大国主様の信も篤いが、ご本人は権勢に興味がないのかもしれない」


 綺良と騒速と、警固の若衆二人とで山を下り、杵築を目指す途上だった。森に覆われた奥出雲を出ると、山々に抱かれた平野に水田が広がっていた。水が張られ、整然と苗の並ぶ広大な田は、碧空を鏡のように映して美しい。田の間を縫って、幅広く雄大な簸河が流れてゆく。

 馬上で綺良は、杵築の事情を語ってくれた。彼女は時折、今の出雲国主のことを、大国主(おおくにぬし)と呼んだ。国引き以来、出雲国を最も大きく拡げた国主だからと言うのがその理由だった。


「反対に、水潟彦様の母君は一番折り合いが悪かった。ご本人も喧嘩っ早いので、大国主様からは疎まれてきた。遠征や、遠国の整備に水潟彦様ばかり向かわされたのもそのためだ。最近はそれもなくなったが」

「どうして疎まれるんだ。国主にまで喧嘩を売るのか」

「国主様は若い頃、兄君たちにひどくいじめられたそうだ。昔された横暴を思い出すんじゃないか。言代彦様は思慮深い方だから、水潟彦様とは反対だ」


 綺良はまだ、言代彦なら物の力が強くなっていることに気づいて、善処してくれるはずだと信じている。だから、騒速を見送った後に三穂埼へ向かうつもりでいた。杵築へ拒絶の意志を表す前に、最後に一度だけ、言代彦へ説明を試みることにしたのだ。

 一方で綺良は、目の前で蛟を退治した騒速や鷹彦に対して、確実に信頼を寄せてくれていた。吉備で船を降りてから、徒歩での旅を続けてきた騒速に、彼女は躊躇いなく自分の馬を譲ってくれた。いま綺良が乗っているのは、村君から借りてきたという馬だ。人とともに働き手となる馬を譲ってくれたのは、紛れもなく深い謝意の表れだった。


「騒速は丈夫(ますらお)だが、水潟彦様はさらに背が高い偉丈夫だ。見たら驚くだろう」

「心しておく。出雲国主や嗣も大男なのか」

「いや。特に国主様は御歳を召されているしな。百はゆうに超えていて、加減が良くないと噂されてから随分経っている」

 驚く騒速に、綺良は興味を持って尋ねた。

「智舗の大王は長寿ではないのか」

「天照様の末裔だから、もちろん長命だ。以前の大王は百歳を超えていた。けれど、それだけ長く生きるのは日嗣(ひつぎ)の巫女だけだと思っていた」


 綺良は何事か考え込んでいた。再び口を開いたのは、早苗を揺らす風が吹き渡った時のことだった。

「同じ只人ならざる者でも、随分違うな。風読の姫は短命だと聞いたことがある」

 風読の話を綺良が知っているのは驚きだった。科戸国は出雲に支配されているとはいえ、此処からは石見国(いわみのくに)を挟んで遠く離れている。


「よく知っているな」

「小さな頃、祭祀で杵築を訪れた時に、大人が噂するのを聞いた。噂になったのは、杵築がひどく執心して捜していたからだ。きっと、捕まえて娘を産ませるつもりなのだと皆言っていた」

 騒速は内心で眉を顰めた。娘を産ませるためだけに――風を読む子どもを得るためだけに、姫を捕らえようとしたということか。そのために一つの国を滅ぼされたなら、鷹彦が冷静でいられないのも当然に思えた。


「子ども心に不思議だった。なぜ襲撃してまで、風読を得ようとしたのか。年寄りに聞いても、山奥の我々に杵築の思惑はわからないと言うだけだ。要衝である穴門の関まで国を拡げる思惑はあっただろうけど。でも穴門国は、交渉で出雲に降った」


 確かに不可思議だ。科戸は決して大国ではなかった。交渉らしい交渉もなく、突然攻め入られた理由はわからない。野分や時化を予測し、天候を読み取れる風読の力は、農耕や漁に役立つ。だが、だったら婚姻でも何でもして、時間をかけて出雲のものにする方法もあった。性急に襲撃を仕掛けたのは不可解だ。風読を取り逃してしまうほどに焦ってまで。


「生まれた国なのに、杵築についてはわからないことばかりだ。でも、郷里を失った鷹彦殿が酷な時を過ごしたことは想像がつく。主命のためとはいえ、物の怪と戦い、里に留まってくれたことには礼を言い足りない。もちろん騒速にも」

 騒速はゆっくりとかぶりを振った。蛟は退けることができたが、杵築へ黒鉄を止めると話すことも、綺良の許婚を取り戻すのも、まだこれからの話だ。

「ありがたいけど、まだ片はついていない。無事に黒鉄の話がつけばいいけれど、今度は俺も鷹彦様も力になれない」


 綺良の微笑は寂しげだった。馬上から遠くを眺めやりながら彼女は呟いた。

「紛れもなく私の仕事なのだから、当然だ。でも役割を果たして、傍らに還りたいと想える相手がいるのは幸いなことだ。そうだろう」

 騒速は黙ったまま頷いた。綺良と同様、自分にも会わねばならない人がいる。胸元で揺れる勾玉が時折肌に触れ、否応なく狭依を思い出させた。再び会うことがどういう結果になるかはわからなくても、離れた先で後悔に苛まれることだけは、二度としたくない。


 水田は相変わらず先まで広がっていたが、遠くには広大な水海が見え始めていた。岸には浜辺のように小さく漣が寄せていた。杵築の南に横たわるという神門水海だろう。水際を辿っていけばやがて都に辿り着ける。波打ち際の手前に、岐路があった。三穂埼へ行く綺良たちと別れる場所だ。綺良が言った。

「水海の際を辿っていけば、杵築に行き着く。国主の館はちょうど此処の対岸だ」

「ありがとう」

 騒速は礼を言った。向こう岸に、ひときわ広い道が北へと伸びているのが見える。水海の岸から国主の館まで伸びる道に違いなかった。


「館で智舗の夷守にも会えるだろう」

 綺良は馬を止めて、騒速に向き直った。笠を大きく上げて、正面から彼を見据えていた。

「ああ」

 短く答えながら、再び会うことがあるだろうかと思う。綺良も同じ疑問を持ったかもしれないが、不意に屈託のない笑みを浮かべて言った。

「無事に還って、心妻(こころづま)に話をつけられるよう祈っている」

 不意に苦しくなって、騒速は一瞬息を詰めた。後悔がひときわ強く胸を締め付ける。ずっと心の裡に押し込めていた狭依への憧れを、閉じ込めたまま遠くへ来てしまった。もし還れたなら、真っ先に会いに行こう。御笠を離れるより、ずっと前にするべきことだったのだから。


「綺良も、無事に許婚と会えるよう祈っている」

 胸の痛みを抑えながらも心から言うと、綺良は穏やかに笑んだ。

「きっと大丈夫だ。金屋子神がついている。夫の目が光を失うまで、飽きるほど見つめ合うのが金屋子の姫なのだ」

 蹈鞴の強烈な火明かりと、片目の見えない村君のことが脳裏に蘇った。火花を散らしながら溶けて流れる黒鉄は、他の炎にはない苛烈さを持っている。燃え盛る火や鉄の輝きに目を蝕まれ、いつか光を失うのも、無理はないことのように思われた。


「許婚の名は赤目(あかめ)と言う。もし館で見かけたら、また会おうと伝えてくれ。十三の歳に蹈鞴で火傷した痕がある」

 言いながら綺良は左の手の甲を指さした。騒速は頷いた。

「必ず」

「頼んだぞ。――達者でな」

 綺良たちに見送られながら、騒速は水海へ向かって馬を進めた。綺良は騒速の姿が見えなくなるまでいつまでもその場に佇み、彼を見守っていた。水海の縁を辿る道に着いた時、とうとう綺良の姿は見えなくなった。騒速は手綱を引くと、杵築の都を遠くに眺めやりながら、馬を並足から襲歩で駆り始めた。


 智舗へ還ろう。

 これほど長く御笠から離れるとは思わなかった。首から提げた勾玉が揺れ、胸元に当たる。消えない胸の疼きを取り除くには、生きて智舗に還るしかないとわかっていた。そのためには、主命を無事に遂げるしかない。杵築で何が待ち構えているかはわからないけれど、確かな動機が騒速の心を支えていた。鷹彦と離れていようと、見通しが不確かであろうと、帰り道に辿り着くためなら、先へ進むことは恐ろしくない。


 傾きかけた陽が水海を薄紅に染め始めていた。水の涼しさを含んだ風がしきりに頬を撫でていった。

 館の門に到着する頃には、初夏の長い日も暮れかかっていた。薄紅に染まる西の空に、夕星が静かに瞬き始めている。背後を振り返ると、遠くに見える神門水海もまた、燃える鏡のように紅色を映しこんでいた。


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