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十三 和邇

 綺良は笑顔で息をついた。黒鉄の里長が無事だったことに、騒速も安堵の息をついた。落石に巻き込まれて怪我をしなくてよかった。いつの間にか、雷を吐きつくした雲が動き始め、東へと押し流されていくのが見える。騒速は躊躇いがちに言った。


「すまない。とどめを刺せなかった」

 綺良は驚いて目を見開き、本気で言っているのか、と尋ねた。

「蛟が力を失い、小さくなったのを見ただろう。当分悪さはできないだろうし、それに」

 一度言葉を切って、綺良は岩塊に覆われた谷を見渡した。行き過ぎる雲の切れ間から、わずかな星明りが差すようになっていた。

「この川を上ってくることは、もうできまい」


 綺良の言う通り、川面がすべて岩だらけになったために、蛟が泳いでのぼってくる隙間は一寸たりとも残されていなかった。川の造作をごっそり変えてしまったことに、あらためて騒速は思い至った。


 鷹彦が二人の傍に辿り着いた。蛟のあげた水飛沫と雨を浴びてはいたが、格好は乱れておらず、まるで雨の中を歩いただけに見えた。彼は騒速と目が合うなり言った。

「よくやったな。蛟は和邇(わに)に身をやつした」

「和邇?」

 訊き返した騒速に、鷹彦は頷いた。

「遠かったが、和邇に見えた。年を取った和邇に物が宿って、あんな姿になったのだろう」

 和邇ならどこかの水門(みなと)で見たことがあるが、あれが大きくなって物の怪になるとは信じがたい。はあ、と曖昧な相槌を打った騒速に向かって、鷹彦は苦笑した。


「しかし、派手に暴れたものだ」

 呆れた口調ではあったが、どこか面白がっている様子だった。騒速は我知らず肩を縮こまらせた。

「はい……本当に。――鉄を採るのに、障りがなければいいのだけど」

 騒速が心配を口にすると、綺良はあっさりと首を振った。

「此処なら大丈夫だ。黒鉄を産む岩を転がしてくれたから、かえって採れるようになる」


 騒速は何度目かに安心して肩から力が抜けた。ひとまず、里に被害を出さずに蛟を追い払うことには成功したわけだ。深い息をついた騒速に、綺良が声を掛けた。

「せっかく蛟を追い払えたのだ。黒鉄造りで山を荒らして、里を危険に晒すべきではないな」


 はっとした騒速に向かって、綺良は頷いてみせた。

「杵築に送る黒鉄を止めよう。出雲の行く先は杵築が決めることだが、もし智舗に降る時には我々が助けになろう。それでよいか」

 雨はやみ、徐々に広くなる雲の切れ間からの星明りで、綺良の顔はよく見えた。松明に照らされ、黒鉄の真砂のようなきらめきが目に輝いている。強い決意と憂いの両方がそこに浮かんでいた。杵築にいる許婚の身が危うくなっても、里を危機から守らねばならないと決めてくれたのだ。


 騒速は静かに頷き、鷹彦が落ち着き払った声で答えた。

「ありがたい。山を下る際には騒速を警固に同行させる」

 淡々と伝えた鷹彦に、綺良は覚悟を決めた表情で頷いた。

「承知した」

「加えて、杵築から里を守るための手勢を手配しよう。騒速が智舗の夷守(ひなもり)に会えれば、彼の麾下がこちらへ来てくれるだろう。加勢が到着するまでは、私が人質として留まる」


 鷹彦がそう言うと、騒速は一抹の心細さを覚えたが、顔には出さなかった。何が出雲で待ち受けているかはわからないと承知のうえで、今回の任に発ったのだ。鷹彦から離れて一人で動くことも、最初から有り得たことだ。

 声を上げたのは綺良の方だった。

「それには及ばない。鷹彦殿も杵築へ行けばいい」

 鷹彦は綺良に向かってゆるやかにかぶりを振った。

「貴方と若衆は蛟と戦った騒速を見たが、他の人々はそうではない。智舗の遣いを牽制していることを村で知らしめたほうがいい」


 鷹彦は目線で、少し離れたところにいる里の者たちを示した。松明を掲げて近寄ってくる彼らの足取りは、雨で岩が滑ることもあってか覚束なかった。綺良は不本意そうにしたものの、鷹彦が考えを変えないと見ると渋々言った。

「無礼はしたくないが、そう言ってくれるのなら。――せめてその間に、新しい剣を打って差し上げたいが、構わないか」


 蛟の尾に刺さった剣は失われてしまったので、鷹彦には新しい剣が必要だった。彼は微かに口元を綻ばせた。

「ありがたい。大層永く持ちそうだ」

 綺良も満足そうに笑んだ。

「これからの季節は黒鉄造りに向かないが、今ある鋼を打つことなら造作ない。明日から取り掛からせよう」


「綺良姫」

 近づいてきた若衆の一人が、声をかけてきた。星明りだけでなく、月の光も差すようになっていたので、彼らの当惑した顔がよく見えた。

「今行く。誰か館へ走って、火を焚かせてくれ。皆、濡れ鼠だからな」

 元気よく返事をして、一番若い少年が館へと駆けて行った。綺良に促されて、若衆たちも一同も、長の館へ向かい始めた。騒速は鷹彦の脇について歩き、礼を言った。


「ありがとうございました。蛟の尾に剣を振るってくださって」

 鷹彦の役割は綺良を護ることのはずだったが、騒速が苦戦していたのを見て、咄嗟に助太刀してくれたに違いなかった。

「礼には及ばない。若衆たちが剣を使えれば、私も蛟に相対しているはずだった」

 さらりと放たれた言葉には、里の若者たちへの揶揄がいくらか混じっていただろうか。涼しげな目元からは読み取れなかった。騒速は一つ、訊いておきたかったことを尋ねた。


「杵築に行くのは、鷹彦様でなくて良いのですか。人質なら私が」

 不安からではなく、主命を果たすためにそれが最良の手段かを確かめたかった。すると鷹彦は思いのほかあっさりと頷いた。

「良い。此処ならともかく、杵築で自分が何をしでかすかわからぬ」

 不意に眉を顰めた鷹彦の顔を、騒速は黙して見守るしかなかった。

「科戸を葬った国主の都に行くとなればな」


 鷹彦の眼が不意にどこか遠くを見るような色を帯び、騒速は胸を突かれた。冴え冴えと降る月光の中、主の横顔は哀しくも美しい。二度と戻らない人と故郷への鬼気迫る思慕に対し、かけるべき言葉は浮かばなかった。

 だが一瞬のうちに、鷹彦は現れた悲しみをすっかりどこかへ隠してしまった。

「今宵は休め。杵築行きに備えて」


 はい、と答えた騒速に向かって、彼は安らかな笑みを浮かべた。

「名に違わぬ活躍であったな。山門大王も喜ばれるだろう」

「ありがとう、ございます」

 突然褒められてへどもどしながら礼を言うと、鷹彦の笑みは愉快そうな色を帯びた。

「駿馬のように速いが、暴れ馬のように騒がしい。其方の姉は、実にふさわしい二つ名をつけたものだ」


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