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十二 雷鳴

「離れて!」

 蛟から目を放さないまま、騒速は岸辺の綺良たちに怒鳴った。あたりは暗く、見えるのは蛟の姿だけだ。雨音が激しく、自分の声が彼女たちに届いたかも怪しかった。再び剣を振るうと、蛟は角で刃を跳ね返した。腕から肩までを痺れさせる衝撃に騒速は歯を食いしばった。思ったより蛟は体が大きいうえ、動きも速くて手強い。頭も良さそうだ。


 雷は一向に呼べない。遠くで低く鳴る音は聞こえるものの、騒速のそばへ降ってくる気配はない。剣の柄を握り直す間もなく、蛟は騒速に噛み付こうと飛びかかってきた。剣の柄と切っ先とを持って掲げ、蛟に噛みつかせるので精一杯だった。


 雲母の岩から退き、騒速は川床の砂の中で足を踏ん張りながら、じりじりと蛟の力に押された。剣を咥える格好になった蛟は、前肢を雲母に突き、さらに騒速を押しやろうとしている。相手の力に負けないようにするのに必死だったが、分が悪いのは明白だった。蛟の牙から剣を抜き払おうとするが、びくともしない。剣から手を離せば、その瞬間に噛み殺される。焦りが頭を占めた。耳を劈く雷鳴が轟いたものの、やはり遠くの木立に落ちただけだった。


 不意に、蛟が苦悶の声を上げた。力が緩んだ刹那、蛟の歯にとらえられていた大刀を引き抜く。見れば、蛟の尾、後肢の根元に鷹彦が剣を突き立てたらしい。仄かな青い光の中に、鷹彦の姿が一瞬だけ見えた。蒼い鱗に刺さった剣を鷹彦が引き抜く間もなく、蛟は尾を振って暴れた。刀身が、青い光を跳ね返しながら冥闇(くらやみ)の中を舞った。なぜか剣から目が離せなくなった騒速は、足元の雲母の圧を感じながら、これまでに自分が放った雷のことを唐突に思い返した。


 吉備では冠者の剣に雷が落ちた。杵築では和香彦が腰に帯びた短剣に。金気を持つものに雷が当たったのだ――ならば。

 痛みに激した蛟がまたも牙を向いたのと、蛟に突き刺さった鷹彦の剣を騒速が睨み据えたのはほぼ同時だった。その刹那、霹靂神(はたたがみ)の音が鳴り渡り、目も潰れんばかりの白い電光が照り渡った。眩い稲妻が一閃した時、目を開いていられたのは騒速だけで、あとの者は目を瞑って顔を背けていた――蛟を除いては。


 鷹彦の剣に落ちた雷撃は、蛟の尾から頭に向かって走り抜け、蒼い全身を一瞬のうちに包んだ。自らも雷に貫かれたような衝撃を感じながらも、騒速は目を離さず蛟を見据えた。衝撃が駆け抜けた後も、蛟は苦しそうな息を激しく吐きながら、動かなかった。何とかもう一度頭を持ち上げたものの、意識が朦朧としているのを堪えるかのように、唸るだけだった。

 雲母の堰の上に再び立った騒速は、すぐさま剣を水の中に突き立てて暗いばかりの空を仰いだ。遠い漆黒の夜空に閃く稲妻が目に入った。


 ――此処へ。

 念じたと同時に突き動かされるような衝撃が頭から足元まで走った。しかし、天から突き刺さるように降った雷は足元で雲母の堰に跳ね返され、手を伝い、剣を伝って水の中へと駆け下った。川へと走り抜けた雷はさらに、水面に接して並んだ雲母の堰に反射して、何重にも蛟を苛む。震え、叫ぶ蛟を眺めやりながら、物の怪の体が一回り――いや二回り小さくなったのを見て取った。


 剣を川床から引き抜くと、動きの鈍くなった蛟の腹に斬りつけた。斬撃に絶叫する蛟は悶えて水面を叩き、首を翻した。体の向きを変え、川下へ逃げようとする蛟を追ったが、小さくなった蛟の身のこなしのほうが速かった。最後の斬撃は蛟の背を抉ったものの、物の怪は騒速の手から逃れようとしていた。騒速は水中を懸命に駆けた。


「待て!」

 叫んだのと同時に、一際大きな雷鳴が轟き、またも蛟は体中を走る電撃に戦慄いた。もはや人の背丈ほどに縮んだそれは、蒼い仄かな光すら失った。夜目の利かない騒速には、蛟の姿が見えない。水音は確実に遠ざかって行こうとしている。


 焦って遮二無二稲妻を呼ぼうとしたとき、蛟の尾から振り飛ばされた鷹彦の剣が宙を舞った。暗闇の中に微かに雷光を跳ね返す刃に気付いた時にはもう遅く、蛟を離れた剣に向かって雷が駆け下った。剣が飛ばされた先、鷹彦たちのいる岸の反対側、そそり立つ崖に雷撃が走った。蛟は――ぬらぬらと黒光りする別の生き物に姿を変えたそれは、走っても追いつけないところまで離れてしまったのが、照らし出されて見えた。閃光が絶えたのち、再びあたりは深い闇に閉ざされ、小さくなった蛟が逃げ去る水音だけが虚しく響いた。


 肩を落として息をついた騒速は、間もなくめきめきと岩盤の割れる音に我に返った。今宵一番大きな雷は、屹立する岩肌にぶつかっただけでなく、亀裂を走らせ、山を引き裂いていた。罅の入った岩塊が崩れてこようとしている。砕かれた巨岩が擦れ合う音を耳にして、ようやく右岸へ走り出したのとほぼ同時に、左手の岸から雪崩をうって岩々が転がり落ちた。


 必死で逃げた騒速は、対岸の土肌に突き当たったが、岩が崩れ落ちる音は長く続き、なかなかやまなかった。遠雷が微かに照らし出した岩のいくつかは、騒速から剣一振りほども離れていないところで漸く止まった。

 戦慄と息切れに肩で呼吸をしながら、騒速は全くの黒に塗り潰された周囲を見渡した。何も見えない。崩落した岩の下を流れることになった川の流れの音と、弱くなったが降り止まない雨音だけが聞こえていた。雷は川下側に落ちたから、自分よりも上流にいた鷹彦たちの付近に稲妻は落ちなかったはずだ。だが崩れた岩の塊がどこへ転がり落ちたかは、全く見えなかった。


 誰かが岩の下敷きになっていたら、と不安が胸を覆った。ひとまず剣を鞘に収めたものの、騒速は所在なさげに、暫しその場に突っ立っていた。そろそろと歩き出してみたが、最初に触れた岩は大きすぎてよじ登ることもできなかった。登れる岩を手探りで探した末に漸く、何とか岩の一つの上に這い上がることができた。

 遠くの岩の上に揺らめく松明の火影を三つ見つけた時、そしてその灯りを掲げている一人が鷹彦だと気付いた時、騒速は泣きそうなほどに安堵した。体じゅうから力が抜け、思わず岩の上に膝を折り、深く息をついた。気持ちがあらかた静まってから彼は、向こうからは自分の姿が見えていないことに思い至った。気を取り直して立ち上がり、声を張り上げた。


「鷹彦様」

 暗闇をそこだけ光で切り取ったように、松明が三つ寄り添い、鷹彦らの影を浮かび上がらせている。主の名を呼ぶと、全員がこちらを振り返った。よく見ると、さらに遠くの岩陰にも明かりが掲げられていた。物音を耳にした里の者たちが駆けつけてきたようだ。

 最も速く騒速のもとに辿り着いたのは綺良だった。岩の上を軽々と渡り歩いた彼女は、手に持った松明で騒速が怪我をしていないことを確かめた。綺良もまた怪我はなかった。


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