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十一 暗夜

 数日後に雨はやってきた。鷹彦とともに河原に着いたのは、黒雲が空を覆い始めた黄昏時だった。綺良は水際にいて彼らを待っていた。砂の流れが変わっては困ることから、蛟を迎えるのにはどの砂取り場よりも遠い場所が選ばれていた。蛟が暴れれば、こぢんまりとした堰は跡形もなく崩されてしまう。

 綺良は岸の奥から騒速らを見守ることになった。綺良を護る役に鷹彦が就き、川の中で騒速が蛟を迎え討つ算段だった。里の若衆が何人か、綺良の護りに名乗りを上げて川岸に来ていたが、綺良いわく、とても腕は期待できないとのことだった。


「うちの若衆は足手まといになるだろう? 帰らせたほうがいい」

 身も蓋もない事を、綺良は言った。雨が次第に強くなり始めていたけれど、まだ本降りにはなっていない頃のことだった。

「随分厳しい言いようだな」

 率直な感想を口にしながら、騒速は若衆たちがこちらを見ていないことを目の端で確かめた。川べりに焚いた火の脇で、彼らは何事か話し合っていた。火はまだ雨に消されず燃え続けている。


「里長を余所者二人が預かるわけにいかない。立ち会ってもらったほうがいい」

 実際そうだった。あとで謂れのない疑いを抱かれるくらいなら、退治の場に居合わせてもらったほうがましだ。先日、鎮めの杉へ案内されて以来、里の若衆たちは騒速に対する敵愾心を募らせていた。綺良は呆れていたが、彼らは綺良の昔馴染みであると同時に、里にいない許婚の仲間でもある。責任感に燃えるのも無理はないだろう。


 雨が目元を打って、騒速は片目を瞑った。その日初めての遠雷が聞こえると同時に、胸の奥に覚えのある疼きが宿った。綺良は申し訳なさそうにした。

「里の者相手に気を遣わせてすまないな」

「いや、来てくれて有り難いよ。堰も造ってくれて助かった」


 浅い川床に築かれた急ごしらえの堰を、騒速は一瞥した。橙色の火明かりが、雨粒に叩かれて無数の環が広がる水面と、黒光りする雲母の岩を照らし出していた。川下に足を向けたかすがいのような形に、雲母の岩が並べられている。石で囲った中に蛟を誘い込んで相手にするため、騒速が頼んだものだ。綺良がすぐ若衆たちに作業を指示してくれて、今宵に間に合った。


「それに彼らは、許婚に代わって綺良を護ろうとしているんだろう」

 言った途端に、無造作に括られていた綺良の髪がほどけて肩に流れた。綺良はあちこち見渡したものの、髪を結っていた藁は弾けて暗がりへ落ち、見つからなかった。

「許婚が杵築で綺良を想っている」


 言うと、綺良はやや驚いたような顔で騒速を見た。

「どういうことだ?」

「霧は誰かのため息が積み重なったものだ。霧で濡れた髪が解けるなら、誰かに想われていると言うことだ」

 御笠の都では皆当たり前に信じていたことを、騒速は答えた。綺良は感嘆したような顔をした。


「はあ」

「今日は霧雨というには強すぎる雨だけど」

 騒速が苦笑すると、綺良はふと屈託のない笑みを浮かべた。雨の雫が伝う面立ちが、少々あどけなく見えるくらいに。解けた漆黒の髪は、濡れて首筋に纏わりついている。

「そうだといいな。聞かん気の強い娘だと、向こうは今も思っているだろうけど」

 綺良が諍いのことを懐かしそうに話したのを思い出し、騒速は胸が痛んだ。綺良のための心痛だったか、自分自身の痛みか、どちらも含まれていたかは定かでない。


「綺良はどんな諍いをしたんだ」

「賢く、長らしく見られたくて、許婚の揚げ足取りばかりしていた。当然相手は面白く思わないので喧嘩した」

 苦笑する綺良の横で、騒速は暫し何も言えなかった。

 狭依は、賢く見られたいと思っていただろうか。何もしなくても、働きぶりを見れば聡明さは一目瞭然だったのに。だが、騒速から狭依にそう伝えたことはない。賢さを目の当たりにするたびに引け目を感じて、半ば避けていた時すらあった。

 狭依から騒速に話しかける方法はずっと限られていた。騒速から心を開かない限り、狭依と落ち着いて話すことはできなかったのだ。


 思案に沈む騒速をよそに、綺良は懐かしそうに続けた。

「気を惹きたいならやり方を変えろと怒られた。その後すぐに杵築へ行ってしまったが」

 日は落ち、あたりは薄闇に包まれている。火影に浮かぶ綺良の横顔は、黄昏れた川辺ではなく、どこか遠くを見ている。先程よりも近くで雷が鳴った。胸の奥が騒めく。

「綺良が賢いのは知っていたから、そう言ったんだ。役割を果たしている姿を、ずっと見ていたから」

 やや目を細めて、安堵したように綺良は頷いた。

「長の務めは生まれた時から知っていた。役割が立場を与えてくれたしな。だけど、役目を果たしたいと本当に思ったのは許婚に会ってからだった」

「そうか」


 地位は必ずしも居場所ではない、と狭依が言ったのを思い出して、何度目かに胸が苦しくなる。鷹彦の麾下と言う務めは、ずっと前から与えられていた。今回も、吉備と出雲で鷹彦を助けるのが役目だ。仕え始めた時から、役割を果たして期待に応えたい思いは変わらない。だが、無事に任を遂げて還りたいとこれほど強く思ったことはなかった。


 還ったら、狭依に伝えなければならないことが沢山あった。首から提げた玉に、騒速は衣の上から触れた。

 いつか狭依の傍らを居場所にできる日は来るだろうか。まだ何も話せていないけれど、無事に還って会う時にはその話ができるだろうか。侍女の任は、務めより大切な人に会うまでのことだと狭依は言っていた。ならば――


 考えた時、宵闇を引き裂いて咆哮が響き渡った。背筋に走った怖気を抑えて、騒速は剣の柄に手をかけた。同時に、雨に打たれて弱々しく揺らいでいた焚き火が消える。雨雲の覆う夜空から星月の光は差さなかったが、困ることはなかった。騒速は息を詰めて川下を見据えた。蒼く光る物の怪が射干玉の闇の中を、こちらに泳いでくるのが見える。まだ遠いが、逞しく左右にうねる動きから、間もなくそばに辿り着くものと思われた。森も山も闇に沈み、蛟の姿は暗冥(あんめい)から這い上がってくる禍つ物のようだ。仄かに放たれる青い光が、蛟の周りの水面だけを幽かに闇の中に浮かび上がらせている。


 綺良が短く呟いた。

「来た」

 慄然とした騒速の耳に、鷹彦が剣を鞘から抜き払う音が聞こえた。先日磨いたばかりの刃が、わずかな熾火の光を照り返す。騒速は小さな火明かりを視野の端に捉えながら、自分も剣を抜いた。大刀から、目に見えない微弱な震えが伝わってきたかと思うと、近くの峰に稲妻が光った。


 以前よりずっと強く、雷の気配が感じ取れるようになっている。和香彦や吉備冠者から台与を護ろうとした時より遥かに。だが、呼ぶことはできるだろうか。実際のところ、何も確信はなかった。雷を呼ぶことができればいいが、できなければ剣大刀で立ち向かうだけだ。恐れはなく、騒速はひたすら淡々と迫りくる蛟を眺めていた。物を退けなければ、此処から先へ進み、智舗へ還る道は拓けない。


 騒速は川に足を踏み入れ、黒雲母の岩で拵えられた堰の上に歩いて立った。雷を通さないという石を足元にすると、綺良が以前指摘したとおり不穏な圧迫感があった。だが剣を振るうには支障はない。

 先ほど空に走った稲妻の音が、遅れてやってきた。頬の上を奇妙に心地よい緊張が走る。その感覚は顔から足までを伝ったが、雲母に跳ね返されて足元にたまった。やはりこの岩は雷を通さないらしい。膝まで濡れた足の肌に、一瞬雷撃の気配が滞留した。


 蛟は吠えながら身をうねらせ、騒速の目の前までやってきた。角の生えた頭から少し離れたところと尾の近くに、先日はなかった肢が生えている。体も一回り大きくなったように見えた。胴はもう、浅い川床には沈み切らず、水面の上に鱗に覆われた背が覗いている。四肢をついて川床で頭をもたげた蛟は、深い青をした目で騒速を見つめた。全身を包む薄蒼さが幾重にも重なったような、複雑で底の知れない色合いだ。降りしきる雨を透かして、双眸の奥に揺らめく光を見た騒速は咄嗟に悟った。この物の怪は、意志を持っている。

 言葉を解するかはわからなかったものの、騒速は口を開いた。雨は蛟にも騒速にも強く叩きつけている。


「金屋子の姫は手に入らぬ。水底へ帰れ」


 荒い息を吐いていた蛟が再び吠えた。青い炎が燃え盛るかのように、目が爛々と苛烈な輝きを放つ。同時に眩い白光があたりを包み、間髪を置かずして雷鳴が轟いた。雷が落ちた先は、頂きに近い峰だった。雷雲は徐々に近づいているが、騒速からは依然遠かった。


 吠えた蛟は、構えを取るように一瞬頭を後ろに引いた。騒速が剣を構えたのと同時に、蛟が顎を開いてこちらに飛びかかってきた。飛び退いて脇に避けた騒速は、目一杯大刀を振って蛟の胴に切りつけた。だが、相手の鱗は思った以上に堅牢で、大した傷がつかない。息を呑んだ間に蛟は身を翻し、再び牙を向いて飛びかかってきた。体勢を立て直し、今度はひたすら深く胴を抉ろうとした。蛟の咆哮が苦しそうに悶えたところを見ると、先程よりはましな斬撃が伝わったようだ。


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