十 杉
綺良は里を出て山を下った。道は狭いながらもなめらかに均され、よく手入れされている。一方で、道を一歩外れると、苔むした翠の地面と、木立や蔦が生い茂る深い森が広がる。綺良と騒速以外に人の気配はなかった。
「本当は、黒鉄の砂が最も多いのは里から外れたところだ。だが地形が厳しく、伐り出した薪を運ぶのに遠いのだ。だから、伐った木を集めやすいところで黒鉄を造る。騒速も知っている通り、黒鉄造りには大量の炭が要るから」
騒速は馬上から周囲を見渡した。斜面は入り組み、時折急に落ち込んでいるところもある。里は平地にあったため、大量の砂や薪を運ぶにも都合が良さそうだった。
「神代、奥出雲の民は黒鉄のために森を拓きすぎた。そのため、山に潜んでいた物を呼び覚ましてしまった。蛟より遥かに大きく恐ろしかった」
騒速の相槌を待たず、綺良は淡々と続ける。
「八つの谷と、八つの丘に体が伸び、背には木々が茂っていた。八つの頭を持つ大蛇、八岐大蛇と伝えられている」
川べりや棚田では暑いほど照っていた陽光が、梢が頭上を覆う森の中には届かない。どこかひやりとした初夏の空気が、綺良の声を静寂の中に吸い込み、閉じ込めていく。
「八岐大蛇が暴れ出せば、里の一つや二つは消えてしまうので、巫女を喰わせて宥め透かしていた。だがある時、大蛇に毎年娘を喰われていた老いた夫婦のもとに、素戔嗚命が訪れた」
綺良がこちらを見たので、話を聞いているしるしに騒速は小さく頷いた。
「その年の贄になる巫女は奇稲田姫と言った。素戔嗚命は姫の姿を櫛に変え、その櫛を身に着けて大蛇と戦い、退治した。姫は素戔嗚様の妻になった。奇稲田様が遺されたという杉の櫛は、出雲の神宝の一つだ」
やや急な坂を降った先に、杉の巨木だけが居並ぶ開けた場所があった。丈夫が数人で抱えても手が届かないほどの逞しい幹が目に入り、騒速は頭上を見上げた。まっすぐに伸びた幹は八本ある。鬱蒼と茂る枝葉は空を覆い隠し、肌寒いほどに濃く涼しい影を地面に落としていた。雑多な木の立ち並ぶ森と隣り合いながらも、そこだけ何者も侵すことを許さない厳かな静謐さがあった。
「見事な杉だ」
感嘆すると、ああ、と綺良は言った。
「金屋子神の神木は桂だが、杉の木も此処で丁重に祀ってきた」
綺良が一番奥にある杉のもとへ馬を歩かせたので、騒速も続いた。
「素戔嗚様は大蛇の頭を切り落とし、地に埋めさせた。その上に杉を植えると、物の力を吸って振り仰ぐような大樹となった。その後、此処から近い素鵞に宮が設けられ、出雲国が造られた。以来、素戔嗚様に従った民の末裔が森を育み、山を治めている」
奥出雲の民のことだろう。綺良は続けた。
「巫女だった奇稲田様を継いで、国主の娘が斎を代々執り行い、大蛇の尾から取り出された叢雲剣を守っている。剣が暴れ出せば雲を呼び、雨を降らせて人里を押し流す」
語り慣れた様子から、幼い頃から何度も聞かされた話だろうと想像がついた。最奥の木の傍らに着くと、綺良は馬を降り、騒速にも下馬するよう促した。
「こちらへ」
鞍を降りて、綺良に誘われるまま木の根元へと近寄った。地を這う根は騒速の腰まで高さがある。幾重にも分かれて広がる根の奥に分け入って、綺良は地面に屈み込んだ。
「見てみてほしい」
綺良が指し示した木の根には、大きな裂け目ができていた。焦げ茶色の樹皮が剥ぎ取られ、その下の幹も抉られたような跡がある。既に風雨の染みや土埃がついているので、できてから歲月が経っているのだろう。だが樹の齢から見れば新しい傷といえた。裂けた木の根の下の地には、子どもが通れるくらいの穴が口を開けている。騒速は地面に膝を折り、屈み込んで根の下を見やった。だが、もとより光の少ない巨木の下で、穴の奥には光が差さず、奥は見通せない。
「これはいつから?」
騒速は立ち上がりながら尋ねた。
「子どもの頃だ。十年以上経っている」
「蛟が現れるより、随分前だ」
考え込む顔をしながら、綺良は頷いた。
「多分蛟は、此処から出てきたのではない。大蛇とは違うように思う」
「では、杉が傷ついた理由は」
「わからない。只人ではない誰かの見立てを聞いてみたかったのだが」
綺良は残念そうに息をついた。騒速は急に申し訳なくなった。
「役に立てなくて、すまない」
「いい。本当は、私がわかるべきなんだ」
梢を見上げた綺良の顔に、一抹の憂いが浮かんだ。今までの強気な態度や、溌剌と働く様子からは想像もつかないほど、儚く弱々しい面持ちだった。見てはいけないようなものを見た気がして、騒速は咄嗟に木の根に目を落としながら言った。
「山が荒れるにも関わらず、杵築が鉄を求めるのは――」
「物の力が強くなっているからだと思う。なぜかはわからないが、出雲が拓かれた時に大蛇を鎮めた杉が破られたのだもの。智舗の大王が正しければ、此処を抜け出た物の怪が杵築へ行ったのだ」
続きを引き取った声は沈んでいた。綺良は泣いてはいなかったけれど、銀の星を集めたような目は潤み、答えを求めるように樹上を見上げている。今度は目を逸らさないまま、騒速は無防備な横顔を眺めていた。
「出雲は杵築へ都を移すべきではなかった。今でも素鵞に宮があれば、言代彦様に杉の様子をお伝えすることもできたのに」
綺良は里を率いる立場にある。だが彼女にもわからないことはあって、しかも答えを誰にも求められないために、言いようのない心細さに苛まれていたのだ。
騒速には、先見や遠見の力がない。台与の受け売りでものを言っているだけだ。だが、綺良の切実な焦りを目の当たりにした今、出雲が物の力に呑み込まれようとしていることは確かと思われた。杵築の都はそれに気づいておらず、奥出雲を物の力から救える気配がないことも。
「俺には、出雲に起こっていることを見抜く力がない。鷹彦様や、里の人々にも」
騒速は静かに言った。わずかに眼を赤くしながら、綺良はじっと騒速を見据えた。
「だけど、目の前の物の怪と戦うことはできるかもしれない。勝てるかどうか、やってみなければわからないけれど」
綺良は驚きに目を細めた。
「どういうことだ」
「言った通りの意味だ。剣か雷か、俺の使えるものであれば使って戦ってみる」
綺良は今度は大きく目を瞠った。
「戦えば死ぬかもしれない。蛟はもう、人を超える丈になっている」
「知っている。この目で見たから」
騒速は苦笑した。不思議と心は安らかで、動揺も恐怖もなかった。
「里を物の怪から守りたいんだろう。出雲国すべてに起こっていることは如何ともしがたいけど、蛟なら相手にできるかもしれない」
「私はそう望んでいるけれど、どうして騒速が手を貸すのだ」
一瞬考え込んだものの、騒速はゆっくりと答えた。
「誰かが謂われなく追い詰められるところは見たくない。人によってであろうと、物によってであろうと。理由なく追い詰められることの辛さを、郷里で知ったから。だから俺は故郷から、智舗の都に逃れた」
洲を出たかったのは、追いつめられずに暮らせる地と、傍らにいさせてくれる誰かを見つけたかったからだ。御笠の都で、騒速は安寧を手に入れた。だが、傍にいることを互いに許してくれる誰かは、騒速自身の恐れからまだ得られていない。胸を刺す痛みに堪えながら、唇を引き結んだ。生きて都に還り、騒速自身が狭依と向き合わなければ、痛みは取り除けないとわかっていた。
「でも蛟が去り、杵築が物の力と戦うなら、綺良たちは追われなくてすむ。そうするために、山門大王の手を取ってもらいたい」
身じろぎもしないで耳を傾ける綺良の前で、騒速は続けた。
「物に呑まれそうな地を、豊葦原のかたちに留められる人は、たぶん山門大王だけだ。俺たちは物の力と戦うために来たことを、里の人々に知ってほしい」
肩を強張らせたまま、綺良は暫し騒速を食い入るように見つめていた。騒速を信じていいものかどうか迷っている。でも、漆黒に星を撒いたその目には、希望も浮かんでいた。物の怪から里を守れる手立てがあるなら、何もできずに呑まれるよりは試したいと。
長いこと二人で沈黙していたのに、騒速は背後から別の者が近づいていることに気づかなかった。誰かが地上の小枝を踏む音がしたのと、振り返った騒速が声を上げたのはほぼ同時だった。
「鷹彦様」
静かな面持ちの主が、杉の根を挟んで騒速の後ろに立っていた。
「話は聞いた」
「いらしていたのですね」
驚いた騒速が呟くと、鷹彦は静かに頷いた。
「其方が綺良殿と連れ立っていなくなったと、皆が訝しんでいた」
「すみません」
騒速は間髪入れずに謝った。里の者たちからしたら、余所者の騒速が長を――許婚がいる綺良を連れ出したと怪しみたくもなっただろう。嫌みの一つも言われたかもしれない鷹彦に申し訳なかった。だが主は、よい、と鷹揚に呟いてから二人を見比べるようにした。
「蛟を討つなら早い方がいい。私も行くが、あれを呼ぶには綺良殿に水に入ってもらわねばならない」
「構わない」
静かに、だが決然と綺良が言った。
「其方らの支度が整い次第、あれを呼ぼう。いつにすればいい」
揺るがぬ口調で尋ねた綺良に、騒速は間を置かずに答えた。
「今から最初に、雷の鳴る夜に」
言ってから騒速は、主の方に向き直った。
「鷹彦様さえよろしければ」
「問題ない」
彼は悠然と言った。優美にすら見える涼し気な目元に、久々に剣を振るうことへの昂揚が幽かに漂った。




