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八 作戦

「長の館で村君に会っただろう。黒鉄造りの手を緩め、森を休めたいと言った途端に、あれの子息が杵築に取られた――私の許婚だ。衛士として国主の館に仕えろと言うことだが、実質は人質だ」


 騒速は口を噤んだ。暫し張り詰めた沈黙が舞い降りる。

 綺良と睨み合う間に、視野の端に映った棚田の水面が微かに揺れた。微かな水音すら聞こえるほど、あたりは肌を刺すような静寂に包まれていた。


「もう二年になる。その前にも何度も訴えたが、杵築から鉄を求める声がやむことはない。従っても里のためにならないのはわかっているが、逆らったらまた誰かが連れ去られる」


 動揺を露わにした綺良の面持ちは、先ほどとはまるで違っていた。声にはどこか縋るような音色と、やり場のない怒りがある。事情を解そうとしない杵築と、無力な自分自身の両方に向けられた怒りだ。言葉は堰を切ったように止まらなかった。


「私一人では里を束ねることなどできないんだ。水の物は、私を目指して川を上ってくるだけ、夢に苛まれるのも私だけだ。ならば里の人間を、杵築から守るべきなんだ」


 騒速は絶句した。只人ではない綺良や騒速だけが、草木や石、水が騒ぎ立てる不気味な夢を見る。綺良が川に入りさえしなければ、蛟の声さえ無視していれば、今のところ里に実害はない。着実に水の物、あるいは水害の危機は増しているけれど、里の誰かが理不尽に連れ去られる恐れと天秤にかけて、綺良は前者に耐えることを選んだのだ。誰も、身近な者が連れ去られる危険など冒したくないのだから。綺良が剣を携えるのも、もう二度と里の者を杵築に捕らえられたくないからだろう。


 杵築に従えば、確かに目先の恐怖は避けられるかもしれなかった。ただし、里が壊滅する危険と引き換えだ。綺良もわかっているであろうことを、騒速は言った。


「蛟を見せて下さったのは、里の窮状を明かそうとお思いだったからではないのですか。智舗から来た私に、里が求めていることを伝えるために」


 夕刻の話し合いでは内情を話さなかった綺良が、夜には蛟について話してくれた。それは、只人ではない騒速が綺良と同じ夢を見たからだという気がした。どうにもならない里の現状が、もしかしたら変わるかもしれないと、一縷の望みを抱いたからだと。


「だいいち、里が水や、水の物に呑まれることも、皆望んでいないはずだ」

「その通りだな。だが、智舗の者と手を組んだと知られれば、水より早く杵築が我らを追い詰めに来る」


 今しがたの自分の言葉が虚しく感じられて、騒速は開きかけた口を噤んだ。白々しい言い草というのはわかっていた。苛立ちと悲嘆のこもったため息が聞こえた。


「余所から来て、随分簡単に言ってくれたものだ」


 言い捨てて綺良は、棚田の向こうに見える長の館に向かって踵を返した。騒速はその場に佇んだまま、無言で後姿を見送った。月は、西の地に向かって降りてこようとしている。東の空は間もなく白み始めると思われた。

 騒速はこの里で出会った誰より背が高かった。だが今ほど自分のことが、体も心も小さく感じられたことはなかった。水の物を抑えようとする考えは、綺良にとって到底受け入れがたいと突きつけられた。物の怪の脅威を、里の誰より感じている綺良であっても。何より辛かったのは、それが騒速自身にも納得いかないものになろうとしていることであった。


 騒速は意気消沈して畦道の端に腰掛け、呆然と眼下の棚田を眺めた。どのくらい経ったかわからなかったが、やがて傍らに黒い川雁が舞い降りた。亡者のように生気のない顔を上げて、騒速は台与を見やった。


「できることと、できないことがあります」


 相手が深緋の巫女であるにも関わらず、騒速は恨めしさを込めて言った。


「奥出雲の民を説き伏せることです。里の人々に、智舗の言葉を聞く余裕などない」

「ことの全てが見えていないからよ」


 いつものように落ち着いた声で、台与は言い切った。射干玉のように黒い川雁の羽を、月光が白々と照らし出している。


「綺良殿は知っています。智舗が何をするつもりか」

「黒鉄の姫はまだ、全てを理解したわけではない。私も其方も今日此処へ来て初めて知ったのだもの――森を荒らせば水が力を増し、ひいては物の怪が勢いづくと。きっと杵築の物も水が猛るほど力を増すわ。国主の館には、私を拒むまじないがかかっていて、あちらの物の怪は見に行けなかったけれど」


 台与が言うことは正しいが、杵築にいる里の人質が救われるものではない。荒んだ面持ちで騒速が黙っていると、台与は平静な声で告げた。


「吉備へは自ら鷹彦について行ったのに、出雲では自ら諦めようとするのね」

「咎のない人々を苦しめるために発ったつもりはないからです。謂れなく追い詰められることはどういう心地がするか、私は知っている」


 伊伎にいた時と同じ気持ちを、咎のない人に強いたくなかった。奥出雲から鉄が来なくなったら、杵築はどんな手を打つだろう。また里の者を連れ去るだろうか。


「筑紫洲では、智舗が諸国を説き伏せたから、争いなく洲が統べられた。でも、同じことが出雲で起こるでしょうか」

「起こるわ。人同士いがみ合っている場合でないとわかれば」


 淀みなく返ってきた言葉の根拠は判然としない。騒速は自制を忘れて苛立った。


「山門大王の命であっても――」

「騒速?」


 背後から声がかかって、騒速は弾かれたように顔を上げた。息を詰めて振り返ると、少し離れたところに放ち髪の鷹彦が立ってこちらを見ている。足結(あゆい)はしているものの、髪を括っていないのを見ると、寝床から抜け出てきたところのようだ。白すぎる肌が月下に浮かび上がり、女のように優雅だった。


「鷹彦様」


 驚いた騒速が二の句を次げないでいる間に、鷹彦は傍らまでやってきて、川雁――台与と騒速を見比べた。騒速は慌てて立ち上がった。


「どうして、此処に」

「大王に呼ばれた」


 鷹彦が素っ気なく答えた。いつもの無表情だが、やや不機嫌なのはわかる。蛟の声がやんで寝入ろうとしていたところを、台与に叩き起こされたのだろうと想像がついた。台与が姿を消したのは、鷹彦を呼びに行くためだったのだ。


「其方こそ何をしていた」

「蛟の――あの声を出していた物の姿を見に、綺良殿が川辺にお連れ下さったのです」


 先ほどのやり取りを思い出して苦い気持ちが蘇った。鷹彦は館までの道を振り返った。


「綺良殿は先に帰ったのか」

「はい。私が出過ぎたことを言ったせいで」

「何と?」


 鷹彦の問いに、騒速は暗澹たる気分で答えた。


「杵築の求めに応じて、この里は黒鉄を造り続けていたのです。逆らったら、綺良殿の許婚が連れ去られたと。杵築に従って、水の危険に里を晒すべきではないと伝えたところ、人質のことも考えずに簡単に言うなと怒ってしまわれました」


 申し訳なさで胸が潰れそうだったが、鷹彦は騒速を責めるふうではなかった。


「其方でなくとも綺良殿は憤っただろう」

「そうかもしれません。元より、奥出雲の民に我々がどうこう言うことが無理筋です」


 投げやりな発言に、鷹彦はやや目を細めた。複雑そうな面持ちだった。


「言うようになったな」

「本当にね。でも確かに、綺良姫の心を掴むには訴え方を考えなくては」


 鷹彦は長い髪を肩にかけてから、優美なしぐさで川雁のそばに膝をついた。


「如何様にいたしましょう」

「出雲に働きかけるのは、智舗のためだけではないわ。水が吠え猛る地になってしまう前に、出雲を物から人の手に取り戻すの。でなければ大八洲は、父神様と母神様が葦原中つ国を産む前の、混沌に呑まれてしまう。蛟はそのほんの前触れでしかない」


 台与は時々、臣下の理解を超えたことを告げる。だが自分のし得る理解を全て超えた蛟を目の当たりにした今、拠り所とできるのは台与の言葉以外にない。辛うじてそう思い、腑に落ちないながらも、騒速は足元の川雁に改めて跪いた。


「言葉が響かないなら、行いで示すことだわ。蛟を退けて、私たちの目的が杵築への攻撃ではなく、水の物との戦いだと明らかにするの」


 難しそうなことを、台与はこともなげに言った。目を瞠る騒速の前で、川雁はつぶらな目を瞬いた。


「剣もいいけれど、其方の雷のほうが効く」

「そんな――」

「大丈夫。綺良姫の力を借りられる」


 またもおよそ信じられないことを言って、台与は羽を動かした。ふわふわと前後に動いた翼が、月明かりにさわめく微かな風を送って寄越した。


「杵築にはより手ごわい相手がいるの。綺良姫の許婚のためにも、此処で躓くわけにはいかないわ」


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