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七 蛟

 半ば見とれていた騒速は、顔の脇に伸びた木の枝が、わずかに揺れたことに気付かなかった。茫然と川を見下ろす彼の耳に、轟音のような咆哮を押しのけて澄んだ声が届いたのは間もなくのことだった。


(みずち)ね」


 弾かれたように顔を上げ、綺良と反対の脇を見やった騒速は、枝にとまった黒い(かわ)(かり)の姿を目にした。月光の中、澄まして羽を畳んでいる水鳥は、騒速に向かって数度目を瞬いて見せた。喋ったのが川雁なのは明らかで、しかも耳慣れた声だった。


「台与様」


 驚いて口走り、綺良の方を見やったが、彼女は物の怪のいる川を覗き込んでいる。川雁が来たことも、言葉を発したことも気付いていなかった。


「水に棲む物の怪よ。出雲は水や草木、石までが騒ぎ、暴れる国になろうとしている」


 台与の言っている意味は判然としなかったけれど、奇妙な夢に苛まれたうえ、水の物が眼前で泳ぐ今、反駁する気は起きなかった。森の木立は目下のところ静かにしているが、そう言えば夢の中では木々が吠え猛っていた。


「人が中つ国を治めるようになってから、影を潜めたはずのものだわ」


 台与の宿った川雁は、興味深そうに川の方へと首を伸ばした。


「なぜ此処に来るのでしょう」


 蛟の唸りにかき消されるはずの声も、台与には聞こえたようだった。


「綺良姫を慕っている。山を荒らして水を猛らせる人だと知っているから。――でも自分で姫を探り当てるほどの知恵はないはず。最初はきっと、誰かに差し向けられたのよ」


 台与の言った通り、奥出雲には水の物がいた。そして、黒鉄のための伐採が水を勢いづかせ、水の物に力を与えていたのだ。


「此処へ蛟を差し向けた誰か、とは」

「多分、杵築の物の怪が糸を引いている。まだ詳しいことはわからないけれど、でも」


 いったん言葉を切ってから、台与は静かに続けた。


「金屋子神の娘がいる限り、蛟はやって来る。水が猛る地になればなお強くなる。蛟だけでなく、杵築の物の怪にも力を与えることになるわ」


 騒速は言葉もなく眼下の蛟を見下ろした。水を出られない巨大な物の怪が、不意に尾を大きく振り、水面に波を立てた。川面に散った水しぶきに、白銀の月明かりが絡み合い、珠のように輝いた。




 月が西に傾くまで蛟は吠え続けていた。蒼い体がようやく川下を向いて帰って行った時、騒速は我知らず胸を撫で下ろした。轟く鳴き声のやんだ静かさを目一杯噛み締めてから、綺良に尋ねた。


「あれは、いつから来ているのですか」

「五年ほど前からだ」


 綺良が踵を返し、来た道を戻り始めたので、騒速も後を追った。川雁の姿をした台与は、蛟と一緒にいつの間にか姿を消していた。綺良は全く気付かなかったようで、館まで帰る道すがら淡々と蛟について語った。


「私が川に近寄ると暴れるので、何を目当てに来るのかは早々にわかった。だが止める術はない」

「大声を出す以外に、何かするのですか」


 いや、と綺良はかぶりを振った。苦虫を噛み潰したような顔だった。


「近寄らなければ、危害を加えられることはない。だが、少しずつ体が大きくなっている。元は子どもの背丈ほどしかなかった」

「大きくなったのはなぜでしょう」


 綺良は騒速の顔を眺めた後、言いにくそうに答えた。


「此処は元々水が豊かだ。だからこそ、水の霊に呑まれぬよう森を深く保ってきた」

「黒鉄のために木を伐ったことと、関わりがあるのではありませんか」


 答えはなかった。それが答えだと騒速は直感した。下草を踏み分ける音だけが、しじまの中に響く。


「森を乏しくしては里が危うくなるのに、誰のために黒鉄を造るのです」


 手がかりを自ら与えておきながら、綺良の口は重かった。彼女が多くを語れないなら、自分で事実を探し当てるしかない。足を速めた綺良を、騒速は追った。


「黒鉄を差し出すよう迫る相手は誰なのです。貴方たちが逆らえないというなら、それは杵築の国主ではないのですか」


 沈黙を促しと取って、騒速はさらに続けた。


「逆らえない相手に逆らうために、貴女までが剣を携えているのではありませんか。まだ黒鉄を造り続けているのは、杵築に決心を伝えていないからだ」


 綺良は足を止めた。背を向けたままの彼女に、騒速は言った。


「すぐに黒鉄を止められるよう、智舗と与することは考えられませんか。杵築から里を守るのに加勢できます」

「与した後、其方たちが杵築に敗れたらどうする」


 綺良は騒速のほうを振り返った。


「遠く離れた智舗国に、黒鉄の里を助けることはできない」

「でも止めなければ、山崩れや大水に怯えながら森を拓き続けることになる」

「黒鉄の里にそれがわからないと思うか。神代、黒鉄造りで山を荒らしたために、もっと恐ろしい物に出くわしたことのある私たちが」


 遣る瀬無さすら浮かぶ顔で、綺良は静かに言い、再び歩き出した。言い方はあくまで静かだったものの、声には力が籠もっていた。風はなく、森を出て里の小道に戻ったため、草のさわめく音すらしない。地を足が踏む物音だけが聞こえていた。


「智舗の力は借りない――黒鉄を止めるとしても。里を守るための決め事であって、杵築を陥れるためにすることではないから」


 騒速は綺良がようやく率直な思いを吐露したことに手ごたえを感じた。もっと恐ろしい物という言い方がやや気になったものの、騒速は続けた。


「智舗に与したと伝えなくても、我々の手だけ借りればいい。上手くいってもいかなくても、智舗と手を組んだことは黙っていればいいでしょう。そうすれば、郷里を守るために杵築と相対したとの体裁でいられる」


 これほど里を想っていてなぜ、黒鉄を止めてしまわないのか。水の脅威から里を守るためには、すぐに取るべき選択肢のように思われるのに。蛟の姿を見せたのも、本心では事情を明かし、助けを得たいからではないかと、騒速は目方をつけていた。


「まだ止めない」


 綺良は重々しい表情を浮かべて沈黙していたが、やがて再び口を開いた。


「まだ、言代彦(ことしろひこ)様がいる。あの方なら我らに耳を傾け、山を休めることも聞き入れてくださるやも」

「言代彦とは」

「次の国主となられる方だ。(わた)(はら)で漁をする者も、畑を耕す者も、言代彦さまの言には従う。海も山も司る方だから」


 冷静な声音から、彼女がその場しのぎの何かを言ったのではないとわかった。綺良はまだ、杵築に彼らを理解する味方がいると信じている。だから前触れなく黒鉄を止めることはせず、杵築に話をつけるつもりなのだ。


「その方も、黒鉄のために里が無理を強いられてきたと、知っているのではないのですか。ずっと杵築にいらしたのでしょう」


 一瞬逡巡してから、綺良は言った。


「漁民の様子を見に、三穂埼に行っていることが多いのだ。奥出雲の様子は知らなかったかもしれない」


 三穂埼は、杵築から東に行ったところにある町だと聞いていた。行き来できない距離ではないが、そちらにいることが多ければ杵築の事情に通じることは難しいだろう。いたずらに希望を挫きたくはなかったが、騒速は言った。


「三穂埼からでは、杵築へ働きかけるのは――」

「里の者が杵築に連れて行かれたのだ! 黒鉄を止めるなどと言ったら、何をされるか」


 俄かに声を大きくして、綺良は再び立ち止まった。いつの間にか、山の麓に向かって広がる棚田の只中に来ていた。畦道の真ん中で、綺良は騒速を睨み据えた。


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