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六 咆哮

「悔いの残る別れは辛いな。また会えるとは思うが」


 綺良の慰めの言葉すら、今は苦しかった。慕ってくれていたことが分かった今、ずっと抱いていた狭依への気後れは、身分や賢さのせいではないと悟ったからだった。

 騒速は誰かに、心の大きな一部を占められるのが怖かった。


 心を預けた相手が、彼に同じ想いを返してくれないことが怖かった。拒まれるのが怖くて、だから想いを打ち明けようと思わなかった。恋心に対峙するのを自分で避けていたのだ。行き場を失った想いを抱え、独り取り残されることは、郷里で味わった一度で充分だったから。都で狭依に気持ちを伝えていたら――いやせめて、もっと彼女と関わりを持っていたら。拒まれることを怖れながらも、彼女は騒速のため玉を贈ってくれたというのに。


 どれほど謝って話したくても、狭依はいない。都まではあまりに遠い道のりが横たわっている。誤りを正せる日が来るまで、一体どれほどかかるだろう。御笠を発つ前に、想いを打ち明けているべきだった。狭依の想いを知ったことでようやく過ちに思い至るなど、あまりに情けなかった。

 自分の心を精一杯宥めながら、騒速は言った。


「すみません。取り乱して」

「いや。想う相手に会えないのは辛いことだ」


 綺良の顔に浮かんだ微笑にはやや陰があった。


「綺良殿は、許婚がいるのですか」

「いる。――諍いをしたのは随分前だな。懐かしい」


 目つきにはどこか遠くを見るような趣があった。だが、覚えた違和感の片鱗を騒速がつかむ前に、綺良は新たに言葉を継いだ。


「金屋子神は、金山彦神と金山姫神の子だと話しただろう」

「ええ」

「黒鉄の里長の夫となる者は、二人で一対かのように寄り添って長を支える。神木のそばで会った時からずっとな。金屋子神の親神が、二柱で一つの存在であったように」


 綺良は、受け継がれてきた話を心から信じているようだった。想った人と互いのことを唯一無二と思えたら――その想いを分かち合って暮らせたら、どんなに良いだろう。羨望が滲み始めていた騒速の顔を、綺良が振り返った。


「科戸国もそうだったのではないのか。風読の姫の親神も、二柱で一対だ」


 誰かから教えられた話を、騒速は朧に思い出した。風読の姫は、級長戸辺(しなとべ)の娘を名乗っていたが、級長津彦命(しなつひこのみこと)も風読の親神である。


「聞いたことがあります。級長戸辺命と級長津彦命は、風となってどこへ吹いていくにも一緒だと」

「級長戸辺の娘も、筑紫洲に落ち延びたのか」

「はい。随分前に亡くなりましたが」

「夫はいたのか? あの月読の者か」


 自分が答えて良いものか一瞬躊躇った末に、騒速は頷いた。


「私が鷹彦様に仕え始めるより前に、姫は亡くなりました。辛い想いをされたようで、多くは語られません」


 鷹彦の恋心と心痛がどれだけ強かったか、騒速にはわからない。だが、慕う心が通じなかったり、あるいは相手を失ってしまったら、想いの深さの分だけ、長く癒えない傷を負う。

 考えた時、前触れなく強い怖気が背筋を這った。咄嗟に肩を強張らせる。気づけば綺良も険しい面持ちになっていた。彼女は白銀の月明かりに照らされた空を見渡してから、ごく小さく呟いた。


「来た」


 夜は静かで、風音一つしない。星と月の光が降る以外に、動くものは何もなかった。


 何が、と思った瞬間、地の鳴くような咆哮が響き渡った。騒速は思わず強く眉根を寄せた。姿は見えないが、何の獣なのか、とにかく生きた何かが吠え狂う声が轟く。たちの悪いことにその音は、低い呻きと高い叫びが混ざり合って不快さを齎すだけでなく、奇妙に不気味な冷たさをもって、聞く者の背筋を凍り付かせた。綺良を見やると、吠え声の響いてくる西の空を、厳しい顔つきで眺めている。驚きや恐れはなかった。


「あれは、一体」


 咆哮の合間に話しかけると、綺良は騒速を流し見て答えた。


「私が川に入った日の夜、必ず現れる」


 綺良は高床の回廊から庭に飛び降りると、ついてくるよう目で促した。水に入ったと里の者に告げた理由が、騒速にもわかった。迷惑をかけてしまうと言ったのは、夜中に凄まじい物音が鳴り渡るからだったのだ。

 無意識に部屋の方を見やった騒速を、綺良は穏やかに制止した。


「剣は要らない。心配ない」


 信じていいものか騒速は躊躇った。夜空を這いのぼる唸り声はおぞましく、何かを求め続けてやむ様子がない。危険がないと言えるのかは怪しかった――声の主を相手に、剣が役に立つのかも怪しかったが。


「私も丸腰だ。行くぞ」


 逡巡する騒速をおいて、綺良はさっさと歩きだした。騒速はやむなくついていった。綺良は長の館を出ると、里の細い道を森の方へと歩いて行く。


 月光の中、里は眠っていた。おどろおどろしい轟きさえなければ、棚田と森の美しい静かな里だ。だが、門戸を閉ざした家の点在する眺めの中、いつまでも止まない吠え声が響き渡っている。到底眠りを許さない大声にも関わらず、表に出て来る者はない。綺良と里の者が話していた様子は、緊張はあれど慣れたふうでもあった。今までに何度も、里はこの叫びに苛まれてきたのだろう。


 森に分け入り、川へ近づくと、声はほとんど耳を劈くようだった。背筋に走る怖気も徐々に強くなる。綺良に動じた様子はなかったものの、川辺近くまで来るとさすがに時折耳に手を当てていた。水流を見下ろせる低い崖が川の上に張り出す場所に来ると、立ち止まって待つように手で制した。声が崖の下から響いていることは、梢の震え方からも明らかだ。綺良は先に一人で崖の縁に近寄ると、暫し川を眺めた後に騒速を手招きした。騒速は崖のへりに近寄り、その下を覗き込んだ。


 眼下には、月明かりを照り返しながら流れる川のせせらぎが見えた。清明な水の流れは美しかったが、水面の下には明らかに水ならざる輝きを放つ何かがいて、その逞しい身をうねらせていた。人を上回る身丈があり、人の胴ほどの幅を持った、巨大な蛇か龍にも見えるものが、川の流れに逆らって泳ぎながら、ある一点に留まっている。これほど大きな生き物を騒速は見たことがない。息を吞みながら、淡い水色の鱗に覆われたそれを隅から隅まで見つめた。


 夜の水底でも色がはっきりとわかるのは、全身が仄かに光を放っているからだ。川上を向いた頭は左右に角があり、口元からは体と同じく青白い髭が長く伸びていた。尾は長く、いっそ優美なほど滑らかに水中をうねっている。昏い水の下をうごめく姿は、声のおどろおどろしさに反して奇妙に美しく、騒速は暫し絶句して川を見下ろしていた。綺良が傍らにいることも束の間忘れていた。

 咆哮が短く途切れた時、苦々しげに綺良が言った。


「水からは上がってこられない。だが、近づいて斬ろうとすれば暴れる」


 物の怪が、首にあたる部分をやや竦めたかと思うと、再び凄まじい吠え声があたりを満たした。よく見ると角の根元には、深い青色をした眼がある。水底深くまで光の届く海が、ああした美しい蒼を帯びることを騒速は知っていた。郷里の海が、広く凪ぎ切った時だけに、似た色を見せることがあった。


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