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二 佐久姫

「和香彦殿」


 こわごわと振り返ると、国主の(きさき)佐久(さく)(ひめ)が立っていた。


 話したことはほとんどない。だがこうして向き合うと、吸い込まれるような目をしているのが良く分かった。佐久姫の眼は、和香彦をやや見下ろす位置にある。年上のはずだが、結い上げられた髪は隅々まで射干玉のように黒かった。黒く見える瞳は、よく見ると深い蒼色をしている。幾度も重ねられた蒼が濃紺を成し、光に照らされた時だけ本来の蒼を取り戻す。背中を微かな怖気が走った。


「――佐久姫様」


 佐久姫がどこからやって来たか、知る者はない。十数年前、国主が山里で見初めて連れ帰ったとだけ聞いた。以来、常に国主の隣を占め続けている。不思議なことに国主との間には、一人の子も産まれていなかった。


 妖しい眼光で、佐久姫は雉を見やった。雉の方は相変わらず和香彦から目を逸らさなかった。


「射てしまいなさいませ」


 揺るぎない口調で佐久姫は言った。視線は冷たく、躊躇いは微塵もない。


「智舗のものは(まが)つもの。貴方はすべてを捨てられたのでしょう」


 智舗から来た彼を試すような言い方だった。ここに居ついてはならなかったと咄嗟に悲観した彼を、責めるようでもあった。いずれにしろ、動揺する彼を更に追い込むには充分に強い語調だった。


 佐久姫は思わせぶりな仕草で、こちらへ歩いてくる尭姫を一瞥した。軽い足音が聞こえるほど、妻は近くにきている。佐久姫は今一度和香彦を流し見た。


「貴方と私しかあれの声を聞いておりませぬ」


 佐久姫が言外に伝えようとしたことは、和香彦にも知れた。


 今ならまだ、なかったことにできる。誰も雉の言葉を聞かなかったなら、和香彦の立場が揺らぐこともない。何事もなかったかのように暮らしていけるかもしれない。八年もこうして生きて来られたのだから。この声さえ封じてしまえば、もっと長く。


「深緋の巫女に背くつもりか」


 台与の声を聞きながら、和香彦は胡簗(やなぐい)に残った矢に手を伸ばした。素早く丸木の弓に番える。


 なぜ、年若い台与が表に立っているのだろう。日の巫女が退いたのだろうか、それとも死したのだろうか。深緋の巫女などと言う大層な二つ名は、昔なかった。あの娘が、ただその身に生まれついただけで(よつぎ)に選ばれ、手厚く育てられていたのが、和香彦は羨ましかった。


 不穏な雷が、一際騒がしく轟く。尭姫が長いこと忘れさせてくれていた思いが、心の奥に爪を立て始めていた。


「矢を下ろせ」


 雉の声は俄かに鋭くなり、和香彦は一瞬だけ手を止めた。


 日の巫女は、いついなくなったのだろう。


 もし混乱が長く続いたなら、出雲への使者にかまけていられなかったのかもしれない。智舗は広大な領土を束ねていたが、それは傘下の小国の打算の結果だった。不思議な力を持つ巫女に逆らうより、大国からの恩恵を享けた方が良い。


 だが、安寧の時代に力を蓄えた国々は、やがて現状に満足しなくなる。大王の力が弱まればきっと内乱が起こると、囁く者もいた。日の巫女の死後、本当に大乱が持ち上がっていたとしたら。


 いや、と和香彦は考えを打ち消した。


 弓弦を引き絞る。だからこそ台与が、早々に嗣に指名されたのだ。日の巫女と同じく台与ならば、力への畏れで国を束ねられるはずだから。


「和香彦様」


 最早数歩の距離にいた尭姫が、ただならぬ様子で弓を構える彼に声をかけたのと、彼が弓弦から手を離したのは同時だった。矢は雉の胸元を狙っていた。雉は興奮して羽を広げ、嘴を大きく開けたが、その絶叫は和香彦の耳には届かなかった――佐久姫にも、尭姫にも聞こえなかった。


 空からまばゆい(いなづま)が一閃し、耳をつんざく霹靂神(はたたがみ)の雷鳴が轟いた。雷は空を切り裂いて雲居から地へと駆け下り、瞬きするにも満たない刹那に高天原(たかまがはら)から葦原中つ国へ達した。


 稲妻は和香彦の身を貫き、彼の魂を裂いた。矢が弓を離れる瞬間に体は大きく震え、狙いを狂わせた。何が起こったかを悟る前に、彼は四肢をわななかせて焼け焦げた床に崩れ落ちた。


 言うことを聞かなくなった身が仰臥した時、ひどく遠くに尭姫の悲鳴が聞こえた。まぶたすら動かすことができず、和香彦は目を見開き、左手に弓を握ったまま震えていた。弓弦を解き放った時の、両の腕を広げた格好で。


 視野に霞が掛かったようだが、傍らに立った佐久姫がこちらを眺めているのがわかる。開いたままの眼はやがて潤み、ほんのわずかの間焦点を結んだ。


 佐久姫の勝ち誇ったような笑みが見えた。蒼い双眸が仄かな光を湛え、彼を見降ろしている。口の端に浮かぶ妖しい微笑が、和香彦の見た最期の光景だった。


 自分は誤ったのだ。


 雉を討っても救われないとわかっていて、佐久姫は彼を唆した。顔に浮かぶ歪んだ悦びがそう語っている。駆け寄ってくる尭姫には、あの笑みが見えていない。妻にどうしても、この者の顔を見せなければならないと思ったが、動かぬ体では叶わなかった。


 尭姫が肩を揺すった時、和香彦は既にこと切れていた。


 尭姫の涙も泣き顔も、彼の眼には映らなかった。濁った和香彦の眼は今や、そこに宿る命のないままに、自らを屠るべく雷を放った天雲に向けられているだけだった。


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