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二 奥出雲

 暫く歩くと、木の間隔がまばらになった。伐られたばかりの真新しい切り株が多くなったためだ。運ぶには重い木が多数伐られていることから、人里に近づいているのは明らかだった。


 株の切り口から見て、伐られた木々は太さも高さも申し分ない。そして、長く山で暮らした騒速から見れば、危険に思われるほど間を空けずに、多すぎる数の木が伐採されていた。木を伐れば斜面が脆くなると、山に住む者は当然知っているはずだ。なのにこれほど木を伐るとは妙だった。むかし智舗の各地で、堰や堤の整備に駆り出されていた鷹彦も、騒速の言に頷いた。


 その時おもむろに、一歩先を歩いていた鷹彦が足を止めた。何事かと声をかけようとすると、騒速を振り返って目配せし、黙るように告げた。何か物音を聞こうとしているらしい。鷹彦は耳に手をかざしたが、暫くすると再び歩き出した。今度は騒速にもはっきりと聞こえた――幼い子の泣き声だ。


 鷹彦を追っていくと、声は徐々に近くなり、一緒に沢の水音も聞こえてきた。間もなく崖沿いに流れる川と、声の主が見えた。小さな男の子が、向こう岸――水際近くまで崖が迫っていた――に座っている。年の頃は三つか四つだろうか。川は浅く、流れも穏やかだから、一人で対岸へ渡ったのだろう。その後はぐれたことに気づき、泣き出したのかも知れない。


 辺りに人はいなかったので、騒速が子どもをこちらへ連れてくることにした。川越しに子どもを呼んでも、泣くばかりで答えは来なかったからだ。

 男の子の傍らに膝をつくと、相手は見知らぬ男が怖いのか一層激しく泣き始めた。身を竦め、騒速と距離を取って後ずさりする。


「どうした。迷ったのか」


 ひとまず尋ねてみたものの、子どもはより大声で泣くばかりで、答えなかった。体の大きな騒速が来たことで、心細さに加え恐怖で泣いているようだった。


「ひとりか」


 子どもはかぶりを振るばかりだ。騒速は途方に暮れた。この年頃なら、そもそもまともに言葉を操れるかどうか怪しい。見ず知らずの大男相手に、落ち着いて受け答えができるとは思えなかった。


「ひとまず向こう岸へ渡ろう。道を教えてくれ」


 らちが明かないと思った騒速は、激しく泣き続ける子を抱き上げようとした。対岸を歩きながら、住む場所を聞き出して送り届ければいい。これまで来た道に里はなかったから、川下に向かえばいいだろう。

考えた時、唐突に鞘から剣を抜き払う音がした。騒速はすぐさま立ち上がり、背後を振り返って剣を抜いた。音を聞くに、鷹彦の剣ではない。


 向こう岸に目を走らせると、川下に小柄な人影が目に止まった。抜身の剣を突きつける姿は、目を凝らすまでもなく女だった。騒速と同じ年頃だ。体は大きくないものの腕には鍛えられた様子があり、大刀を掲げる姿も板についている。


 質素だが品の良い衣には襷をかけ、豊かな黒髪は無造作に後ろで束ねて括っていた。強い警戒の浮かぶ顔から、暫し騒速は視線を逸らせなかった。只人ならざる強い眼光に加え、黒い瞳に複雑な輝きを見て取ったからだ。やや面長で、醜くはないが決して美人でもない。なのに、どこか見つめずにいられない目をしている。


 対岸の鷹彦は女を用心深く眺めていたが、柄に手を掛けただけで剣は抜いていなかった。

 互いに構えを解かないまま睨み合った後、低いがよく通る声で女が言った。


「その子から離れよ」


 異様な緊張に気を取られたのか、現れた女を知っているのか、子どもは泣くのをやめた。目の端で見やると、食い入るように彼女を見つめている。危害を加えるつもりがないことを示そうと、騒速は数歩子どもから離れた。


「泣き声を聞いて様子を見に来ただけだ」


 言うと、女は騒速と鷹彦、それに子どもを用心深げに見比べた。硬い表情からは、信じたとも疑ったとも判別がつかない。


「剣を置け」


 束の間逡巡したものの、鷹彦が微かに頷いたのを見て、剣を足元に置いた。砂利だらけの地面に剣が触れた音を聞くと、女はすぐさま鷹彦にも目線を向けた。


「其方もだ」


 鷹彦が剣を鞘から抜いて足元へ置き、剣から後ずさって数歩の距離を置いた時、女は剣を掲げたまま、川を横切って子どものもとへ歩いて行った。足取りを見れば、鷹彦が剣を置けと目配せした意味は知れた。剣の持ち方は身につけていても、戦い慣れていないことは一目瞭然だったのだ。子どもと騒速、鷹彦を忙しなく見やる目線は警戒に満ちていたが、その実隙だらけだった。


 女が川の中ほどまで来ると、子どもは立ち上がって彼女に駆け寄った。


綺良姫様(きららひめさま)!」


 走り寄った子どもが抱きつくと、綺良(きらら)と呼ばれた女は驚いた顔をした。同時に、安堵したような笑みを浮かべる。


「怪我はないか。あの者たちは?」


 子どもは無邪気に頷いてから答えた。


「わからない。さっき来た」

「何もされなかったか」


 子どもは頷いた。綺良は姫と呼ばれるのに違和感のない落ち着きと風格があり、子どももまた全幅の信頼を預けているように見えた。


「旅人か。この子と何をしていた?」


 幾ばくかの緊張を残しながら、綺良は騒速に尋ねた。


「泣き声が聞こえたので、何事か確かめただけです。とても何があったか言える状態ではないようでしたが」


 綺良の口の端に、不意に勝気な笑みが浮かんだ。


「この子がよく泣くことは知っている」


 剣を掲げる手は動かなかったものの、警戒心が緩んだのは伝わって来た。


「何用で此処を通った」

「人を探している」


 すぐに言葉を返すと、綺良は顔を顰めた。


「誰を」


 声音を鋭くした綺良へ、今度は鷹彦が答えた。


「黒鉄の里の長を」


 只人ではない綺良は、きっと黒鉄の里か近くの里長の係累だろう。にわかに表情を固くしながら、彼女は言った。


「黒鉄の里長には、遠国の知り合いなどいない」


 騒速の言葉が訛りを持っていることを指摘して、姫君は言った。


「知っている。だが智舗の大王の命で、話さねばならぬことがある」


 鷹彦が淡々と続けると、綺良は考え込む表情のまま黙して彼を見つめた。足元にしがみついた子どもが、不思議そうに彼女を見上げている。


「智舗とは、先だって杵築に使いを寄越した国か」

「如何にも」


 鳥船は既に杵築に着いたらしい。頷いた鷹彦を見て、綺良の表情は怪訝さを増した。


「杵築へは国主と話をしに使者が遣わされた。だが我らは黒鉄の里長と話がしたい」

「何の話か、里には心当たりがない」


 落ち着き払って言い切る綺良に、鷹彦はあくまで淡々と返した。


「無理もない」


 綺良は沈黙したまま、鷹彦に向かって構えた剣を動かさなかったが、やがて言った。


「話はひとまず聞こう。着いてこい」


 緊張を解かないまま、彼女は剣を鞘に収めた。そして、子どもとともに鷹彦のいる岸に渡ると、川下へ向かって歩き出した。騒速は地に置いた剣を慌てて鞘にしまうと、彼女たちを追った。先に追いついていた鷹彦の隣に並ぶと、前を歩く子どもが騒速を恐るおそる振り返って見上げた。しかしすぐさまふいと顔を背け、綺良にくっついて歩いた。


 顔を上げると、こちらを見ていた綺良と一瞬目が合った。その時彼は、遠目に綺良を見た時の不思議な印象の正体を悟った。


 綺良の目は騒速や鷹彦と同じく黒いが、銀の砂を散らしたように煌めいていた。微かな光にも複雑な反射を織りなして、見たこともない珠のように、瞳の奥には無数の細かな輝きが息づいているのだった。


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