一 山越え
嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ
我が髪結の漬ぢてぬれけれ
舎人娘子
冠者の前に雷を落とし、鷹彦を火傷させたことを騒速は平謝りしたが、台与も鷹彦も大して気にしなかった。剣を投げられて黙っている相手ではないと示せた、と台与は言った。鷹彦は、自分は只人ではないので、火傷はすぐ治ると言った。結果として良かったが、電が暴発しないよう充分気を付けろ、とも。
「冠者の図体がでかく見えたのも、あの髪もまやかしだ。立ち上がったら主の頭が天井につかえるような広間を、作るわけがなかろう」
辛辣だったのは宿禰で、騒速のような迂闊な者が雷の力を持っているのは甚だ不安だと言った。自分だけが活躍する場のはずが、見せ場を奪われて憤懣やるかたないのがよく分かった。
宿禰が今後の段取りを冠者の臣下たちと話し合う間、騒速と鷹彦は智舗へ先に帰ると言って吉備を発った。出雲へ向かうことはおくびにも出さずに砦を離れ、国境の山へと分け入る。明らかに身なりのいい男が二人、大した供もつけずに歩いているのは目立ったが、幸い正体を見抜かれることはなかった。
吉備と出雲を隔てる山々は思ったよりなだらかで、早々に出雲国へ足を踏み入れることができた。とは言えこの山並みは出雲の辺縁で、杵築の都からは遠く離れているために奥出雲と呼ばれている。
台与は、奥出雲の中でも、黒鉄の里と呼ばれる村々に向かうよう、鷹彦と騒速に伝えた。を通じた遠見で、奥出雲の中でもどこに向かうべきか見えたのだと言う。言伝のために鳥飛をしたところ、期せずして吉備冠者に会うことになった、とも。
黒鉄の里については鷹彦の郷里でも知られていたらしく、道中かいつまんで説明してくれた。
「出雲の大河、簸河の上流にあるのが黒鉄の里だ」
はあ、と騒速は目の前に差し掛かった枝を脇にのけながら答えた。細々と続く道を、藪を掻き分けて二人は進んでいた。一応道はあるものの、季節柄、枝葉に覆い尽くされているところも多い。鬱蒼と茂る木立の上からは、強い陽光が注いでいる。藪を漕ぎながら歩いていると、瞬く間に額に汗が浮かんだ。
台与は、杵築にいた物の怪が、水に由来する禍つ物だろうと見立てていた。昏く青い眼の奥に、水の揺らぎが見えたらしい。出雲の水の源を知っているかと尋ねられて、鷹彦が答えたのは簸河だった。出雲国を拓いた素戔嗚の治めた、暴れ川として知られていた。
「黒鉄の里では、伽羅国の石ではなく、簸河の砂から黒鉄を造っている。生み出される量は石からの鉄に及ばないが、澄んだ鋼が打たれると言う」
「砂から?」
振り返って訊くと、鷹彦は顔を顰めながら頷いた。先ほど騒速が脇に押しのけ撓らせた枝が、彼に当たったようだった。
「――申し訳ありません」
「よい」
静かに言ってから、鷹彦は髪についた木の葉を払った。だが、立ち止まった騒速の前に進み出ると、今度は先に立って歩いた。
「簸河に起こっていることを黒鉄の里で探る」
「どうやって?」
騒速は鷹彦に尋ねた。台与の命と言えど、できることとできないことがある。聞いたこともない土地へ出向いて、見たこともない物の正体を探るのは、控えめに言って途方もない任だ。
「当地に入り込んで事情を探れば、何かしら手掛かりがあるだろう」
「山門大王のお考えなのですか」
鷹彦は涼しげに頷いた。
「奥出雲行きを話した謀議で決まった。あの時は簸河の源としかわからなかったが。行き先が黒鉄の里に絞られて助かった」
騒速は今までにない、微かな苛立ちを覚えた。先日宿禰に耳打ちされたことが気になって、ある疑いが頭をもたげていた。
「宿禰殿が大王を唆し、鷹彦様に無茶を押し付けたのではありませんか」
鼻持ちならない宿禰は、鷹彦が苦境に陥るよう仕組んだかもしれない。欲のない鷹彦は、それでも淡々と台与の命に従ったのかもしれない。
しかし鷹彦は騒速の疑念をよそに、呆れたように息をついた。
「違う。奥出雲へ私を向かわせたいと、鳥飛の日に仰っていた」
宿禰の思惑に沿ったわけではないと知って、騒速は少しだけ安心した。
台与は、鷹彦と話がしたいと引き留めた時すでに、水の物の怪や簸河について聞き、当地へ彼を差し向けることを考え始めていたと言う。
「最初は、鳥船殿に杵築まで同行し、その後奥出雲へ向かうことを言い渡された。だが、杵築に足を踏み入れることは可能な限り避けたいと伝え、断った。私にとっては、平静を保っていられぬ場所だ」
前を歩く鷹彦の顔は見えなかったが、苦い笑みを浮かべていることは分かった。
「敵を殲滅すべからずと大王は言う。だから私は、国主のいる杵築に近寄らない方が良い。それで奥出雲から入ることになった」
合議と同盟で国を拡げた智舗は、どんな国であれ武力でねじ伏せることはしない。力で従えた国は力にしか従わないから、と言うのが台与の言い分だった。内乱を平定し、熊襲からの侵攻を退ける以外、国力を費やすべきでないという合理的な思惑もある。
「大王は、里へ辿り着けば、するべきことがわかると仰せだっただろう。杵築と同じく、水の物が根を下ろしているはずだと」
騒速は戸惑いながらも頷いた。相変わらず見当もつかない話だったが、台与の言葉なら信じられる。彼女は他の何人たりとも持ち得ない、先見と遠見の力を持っている。並の理では解しきれないことも、台与だけは見通している。
「深緋の巫女様が仰ることですから」
低く呟くように言った騒速を見て、鷹彦は苦笑した。
「宿禰の言うことなら気にするな。万一死ぬ時が来ても、其方に苦労をかけはしない」
騒速は慌てて反論した。
「そんな心配をしたわけでは――聞いていらしたのですか」
「ああ。鞆の浦で、あれの誘いを振り払ってくれたな」
驚いて目を瞠ると、こちらを振り返った鷹彦は穏やかに口の端を上げて笑んだ。滅多にないことだった。
「耳を欹てなくともよく聞こえた。宿禰はもとから私に聞かせるつもりだったろう」
言われてみれば、船上で宿禰と同じ声量で喋っていれば、話が聞こえても致し方ない。騒速の驚きをよそに、鷹彦は至極冷静だった。
「私には、都生まれの者のような後ろ盾はない。だが、この任で手柄をあげれば、其方に縁談を見繕うこともできるだろう。相手の家がまずまずであれば、生きていく心配をすることはない」
「縁談など」
騒速は呟くように言った。まだ到底考えられないことだった。鷹彦は面白がるように首を傾げた。
「決めた相手がいるのか。訊いてみたことがなかったが」
「おりません」
この手のことに話が及ばないよう、騒速はいつも注意を払っていた。触れてほしくない混乱した気持ちがあったのだ。手が届かない相手に憧れていたからだと、今ならわかる。叶わない片恋だとわかっていても、他の人に目が向けられるほど諦めがつくのは、まだ先のことだった。
「念のため訊くが、相手は山門大王ではないな」
騒速は静かにかぶりを振った。宿禰の揶揄いも、主は聞いていたらしい。
「ありえません」
「ならば良いが。恋心を持たぬ相手を慕うのは詮ないことだ」
台与は恋心も、虚栄も持たない。だから特別な力を持つし、臣下は彼女に従う。
ええ、と答えながらも話を変えたくて、騒速は鷹彦に尋ねた。
「吉備冠者は、私たちが出雲へ向かうことを良く思わないのではありませんか」
「察しがいいな」
鷹彦は当たり前のように頷いた。
「吉備を怒らせて良いのですか?」
大和で出雲に対抗するためと称し、智舗は吉備の協力を取り付けた。その智舗が、ほどなくして出雲を自らの一部にしようとしたと知れば、吉備からの信は失われるだろう。智舗が出雲を降らせることができたなら、大和に集う勢力は吉備と、出雲を従えた智舗の二つになる。吉備と協力しての出雲への圧力が、結局は大和での自国の立ち位置を追い込んでしまう。
「良くはない。だが結局のところ、吉備は智舗の要求を呑まざるを得ない」
理由は自分で考えてみよと言いたげに、鷹彦は片眉を上げてみせた。
「穴戸関を塞がれたくないからですか」
「そうだ。黒鉄の石を仕入れるには、智舗に従うほかない。智舗と出雲が手を組む方が、吉備にとってはより深刻な事態だ」
「のちに智舗が出雲を自らの一部にしても、穴戸の航路は変わらず確保できるはずだと」
鷹彦は再び頷いた。
「そういうことだ。大和でも、智舗と対立しないに越したことはない。出雲を従えるのに協力した吉備を、智舗も暫くは丁重に扱う」
「暫く、とは」
「先のことは明かされていないが、大王はいずれ吉備も手中に収めようとしていると思う。山門大王の見通しのすべてはまだ、我らに分かち合われていない」
騒速は頷いた。台与は国土を拡げることに積極的だった。智舗が大乱の残した傷から立ち直ってすぐ、出雲にどう探りを入れるか考え始めた。同時に大和での趨勢に目を光らせ、同盟には至っていないものの伊予とも交流を深めている。
台与にとって出雲は、大八洲を智舗のもとに治めるための、最初の段階でしかない。黒く強い光を秘めた瞳には、騒速がまだ見ぬ智舗の姿が見えているようだった。
日の神の末裔である深緋の巫女には、常人では及ばぬ長い寿命が具わっている。しかし、長寿をもってしても遂げ切れるか判然としない勝負に、うら若い台与は迷いなく智舗の命運を賭けようとしていた。




