六 冠者
瞬きするより短い間に、ひとつの影が背後から空を滑るようにして現れた。優雅に体を翻したそれは、宿禰の目の前の床に降り立った。一羽の鳥だった。見れば、広間へ導かれる前に庭の桂に止まっていた鷹である。
騒速は目を瞬いた。
どういうつもりでわざわざ、おどろおどろしい光景の中に飛び込んできたのだろう。当惑する騒速の前で、鷹は悠然と、子どもの背丈ほどもありそうな翼を畳んだ。濃い灰色の翼とともに、白い胸に刻まれた縞模様が見える。琥珀色に縁どられた黒い瞳が、一瞬だけ騒速を見た。
鷹はいそいそと冠者に向き直った。吉備冠者が興味なさそうに鷹を一瞥した時、耳慣れた澄んだ声があたりに響き渡った。
「来たわ」
ぎょっとして息が止まりそうな騒速の前で、鷹は続けた。
「筑紫洲は智舗国を統べる山門大王、またの名を深緋の巫女とは私のこと」
どこからどう聞いても、いつもの凛とした台与の声だった。冠者は目を細めて鷹を見やった。
「遣いの者が失礼をしたようね。主として非礼をお詫びするわ」
鷹が飛び込んできたことも、あどけない少女の声で喋り出したことも、吉備冠者には驚くに値しないようだった。静かに鷹を矯めつ眇めつしただけだ。
「まやかしか」
「此処にいるのは本物の鷹よ。でも話しているのが私なのは、貴方ならおわかりのはず」
背筋を伸ばすように首をすっくと上げて、鷹は冠者を見据えた。冠者は眉根を寄せたものの、先ほどまでの殺気はいくらか緩み、黒髪も広がるのをやめていた。
「唐突に飛び出てきたな」
「吉備冠者との繋がりをみすみす逃したくはありませんから」
台与は淀みなく告げた。
「言い方に難はあったけれど、吉備と智舗が手を組めば、大抵のことが御せるのは真と思っているわ――大国出雲の趨勢であっても。互いに利を分け合うことすら、しかねるのかしら」
八女宿禰が膝をついたので、騒速は慌てて倣った。鷹彦が跪いたのとほぼ同時だったが、膝が床に強く当たって、場違いに大きな音を立てた。
幸い、冠者は気にした様子がなかった。
「吉備に利はあるやもしれぬ。だが借りを作るのは、誰が相手でも虫が好かん。大和で権勢を誇るのは、吉備だけでよい」
「出雲と争って力尽きてしまったら、元も子もないことです。それに、智舗と手を結び、穴戸を通れるようにしておくことは無駄ではないはず」
話が穴戸関に及ぶと、緊張が再び高まった。冠者は俄かに語調を強めた。
「俺たちを相当なうつけと見ているようだな。穴戸の片岸は智舗だが、対岸は出雲に降った穴戸国だ。お前たちだけで好きにできると思うな」
「智舗国だけでも、穴戸を塞ぐだけの船は出せます。万全を期すなら、穴門国を握る出雲と手を組むべきでしょうけど」
台与がさらりと言った後半には、深い意味があった。吉備冠者はふと口を噤んで、まじまじと台与を眺めた。常人を超える体躯を持つ冠者が、自身より遥かに小さな鷹を食い入るように見つめ、あまつさえ鷹が喋っている光景は、奇異を通り越してやや滑稽ですらある。
だが冠者は至って真剣だった。騒速は息を詰めて様子を見守った。何を考えているかは、彼でも分かった。
台与がちらつかせた智舗と出雲の同盟は、吉備にとって何としても避けねばならない事態だ。
智舗が吉備への脅しに、穴戸塞ぎを持ち出すだけならまだいい。もしも吉備に見放された智舗が出雲と手を組んだら、その時こそ黒鉄を運ぶ道を断たれる。迫門の内海で覇権を握る吉備ではあるが、内海を塞ぐことは容易ではない。一方智舗と出雲にとって、穴戸を塞ぐことは、赤子の手をひねるより簡単だ。
吉備にとっては、背筋の冷える話である。出雲にとって、目障りな吉備を押さえることができるなら、智舗と手を組む意味がある。借りを作りたくないのは吉備と同様だろうけれど、それでも良いと彼らが判断したとしたら。
宿禰の挑発でひたすら気を張り詰めていた吉備冠者が、台与を前にして俄かに冷静な考えに耽りつつあった。暫く黙っていた冠者は、やがておもむろに口を開いた。だが、発した言葉は騒速の予想とは違っていた。
「山門大王の魂は、この鷹に宿っているのか」
冠者の目は今や余裕を取り戻し、何か新しいことを考え付いたように見える。嫌な予感がした。
「ええ」
取り澄まして答える台与の声ははっきりと響いた。
「鷹が死ねば其方はどうなる」
尋ねる声には明らかな扇情があった。
「息絶えるでしょう。残念ながら」
淡々と答える台与をよそに、騒速の胸には急激に焦りが募った。宿禰に怒りを煽られ、台与の一言で同盟に納得させられるのは、矜持が許さないだろうか。だが此処で台与を傷つけても得はないはずだ――普通ならば。
騒速の考えの及ばない方法で、冠者は台与を葬ってしまうだろうか。台与の魂は、すぐに鷹から抜け出せるだろうか。以前の鳥飛のように、狭依が引き戻してくれるだろうか。だが、もしそばに誰もおらず、鳥飛から戻る助けがなかったら。
既に冠者は、剣を鞘から抜くところだった。宿禰がやにわに立ち上がる。冠者が抜き放った剣の刃が鈍い光に浮かび上がったのと、騒速が剣の柄に手をかけたのはほぼ同時だった。
吉備冠者は剣の切っ先を地に向けると勢いよく振りかぶり、鷹を狙って投げた。そのように見えた。
剣が台与の前に突き刺さる刹那は、騒速の眼には映らなかった。目を見開いていたのに、あたりが眩しく見えなかったのだ。
曇り空から突如轟いた雷鳴は、目をくらます閃光とともに、冠者の剣に向かって天を裂いた。広間の屋根を幾重かに突き破って到達した稲妻は、台与の眼前に突き刺さった刃に落ち、地まで床を貫いた。
一閃した光が絶えた後に、焼け焦げた大刀が姿を現した。黒ずんだ剣は、吉備冠者の図体にしては小さい。先ほど冠者の膝に乗っていた時よりも、明らかに短く見えた。
絶句した騒速はやがて、以前台与が出雲へ飛んだ時と、同じ衝撃が体を貫いていたと気づいた。剣の柄に手を伸ばしかけた自分は、刃を抜き放つより先に、雷を呼んでしまったのだ。茫然としていると、落ち着いた声が響いた。
「控えよ、騒速」
台与の声に我に返り、は、と騒速は短く答えた。後に続けるべき言葉を、彼は知らなかった。面持ちを強張らせた騒速の代わりに、台与が言った。
「伝えそびれたけれど、騒速は鳴神の血を引いています。稲妻が誤って放たれたようで、失礼をいたしました」
顔を上げると、吉備冠者は驚愕した顔で剣を眺めていた。電に焼かれた大刀と、雷撃に引き裂かれた木の床とを穴の空くほど見つめている。そ知らぬふりで台与は続けた。
「剣を我が身から離して稲妻を避けるとは、吉備冠者殿でもなければ思い至らぬことです。金気は雷を集めるから、稲妻が剣に落ちた。大刀を投げてくださったおかげで誰も怪我をせずにすんだわ」
あっけらかんとした口調は、彼女が騒速の落とした雷とともに、冠者の投げた大刀についても何ら問題と思っていないと告げていた。冠者が自身を護るためでなく、脅しで剣を投げたのをわかっていて、彼女はしれっとこの場を収めようとしていた。
相手の非礼はなかったことになり、同時に騒速の招いた落雷も責めを負わない。ついでに宿禰や台与の挑発も。
鷹を見つめる吉備冠者の目は、冷たい警戒に満ちていた。近くに刃を突き立ててやったのに、相手がこれほど穏やかなのは面白くないようだ。冠者はゆっくりと口を開いた。
「礼を言われることではない」
「頼もしいことです」
嬉しそうに台与は返した。
「騒速はまだ雷を操れるわけではありませんから、いつどこに稲妻を落としてしまうかわからないのです。でも、温羅殿が剣を投げて収めてくださるなら、心配は要りません」
横目を走らせて盗み見た宿禰は、笑いを堪えていた。冠者を暗に脅している鷹の姿が可笑しいらしい。相手はと言うと、至極気に入らない様子で暫く台与を眺めやっていた。だが、おもむろに鷹彦を一瞥して口を開いた。
「そこの者」
は、と短く鷹彦が答えた。冠者は返事を聞くなり、顎で自分の大刀を指し示した。
「剣を俺の元へ持て。智舗が真に吉備と手を組むつもりがあるならな」
は、と眉一つ動かさずに答えて、鷹彦は静かに台与の前へ進み出た。そして屈み込むと、床板に突き刺さった剣を一息に引き抜いた。珍しいことにわずかに口許を歪めていたが、音もなく立ち上がると、吉備冠者の前へ進み出た。柄の近くと鋒とを両手で捧げ持ち、神戸を垂れて冠者へ差し出した。
「此処に」
静かに言った鷹彦を、これまた気に入らないと言った風情で冠者は眺めていた。だが、いつの間にか元の長さに戻っていた髪を荒々しく掻いてから、吉備冠者は一思いに剣の柄を掴み、ひらりと鞘に仕舞った。
「山門大王とやら」
「はい」
警戒の緩まぬ低い声のまま、冠者は言った。
「出雲を抑えるのに手を貸す。大和では、馴れ合うこともないが争うこともない」
「目指すところを共にできるとは慶びにたえません」
台与の声は、冠者の不機嫌な面持ちをよそに明るく響いた。胸を撫で下ろした騒速が、宿禰の忌々しげな視線に気付いたのは、鷹彦が冠者の前から戻ってきた時だった。宿禰の目線を追い、鷹彦の手元を見た騒速は、息を呑んだ。雷に焼かれたばかりの剣を掴んだ手は、普段の眩いほどの白色を失い、真っ赤に焼け爛れていたのだった。




