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四 出立

 吉備へ発ったのは、翌々日のことだ。暁月(あかつきづく)がまだ西の空に浮かぶ頃、騒速は厩で初老の下男と馬具を支度していた。


 鷹彦が屋敷に人を召し抱えたがらないため、下働きの数は少ない。唯一の下男と、炊屋(かしきや)で働く年かさの端女(はしため)だけが、小ぢんまりした家を切り盛りしていた。彼らだけでは手が回らないことも多かったので、旅支度も騒速の仕事の一つだった。


 鐙と鞍を馬に載せようと言う時に、下男が戸外からの物音を聞きつけて様子を見に行った。彼は首を傾げながら、小さな(わらわ)を引き連れて戻ってきた。大王の館で見たことのある顔だ。童も騒速を覚えていたらしく、目が合うなり軽い足音を立てて駆け寄ってきた。


「騒速様に、お遣いです」


 突き出された小さな拳へ手を差し出すと、童は鮮やかな翠の勾玉を置いた。大振りで、丸みを帯びた部分に空いた穴には赤い紐が通されている。月読の勾玉のような透き通った白ではなく、若竹か常盤のような緑をしていた。


「ありがとう。誰からだ?」


 見たこともない上質な翡翠と、完璧な磨かれようから、台与以外ありえないとは思いながらも、一応尋ねた。童は困ったような顔で首を傾げた。


「さあ……」


 間抜けな様子に半ば呆れた時、童は目を伏せてもぞもぞと言った。


「内緒だそうです。でも、お詫びにと」


 はあ、と騒速は返事にもならない返事をした。台与のとばっちりで狭依に叱責されたことへの埋め合わせだろうか。品を下賜するというのはどうも台与らしくない。臣下に報いるには必ず地位か名誉か、賛辞を用意するからだ。


 だが、内密にしたいと言うのなら台与なのだろう。大王が臣下に何か贈ったとなれば大ごとだから、要らぬ騒ぎを呼ばないよう計らったに違いない。


「あと、草枕の無事をと」

「そうか」


 騒速は赤い紐を首に掛け、勾玉を衣の中にしまった。肌身離さずつけていないと失くしそうだ。いっぽう、到底、騒速が持てるはずのない代物なので、人に見せない方が良いだろう。あらぬ疑いをかけられたら困る。


「御礼を伝えてくれ。主命を果たして必ず戻ると」


 童は頷くと、身を翻してさっさとその場を辞した。まだ曙になるかならないかの刻限だと言うのに、遠くまで遣わされて大変なことだと騒速は思った。東の空が赤く染まる頃には鷹彦も起き出してきて、佐賀関の水門(みなと)へ向けて、まだ誰もいない御笠の都を発った。




 佐賀関を出て暫く航海すると、船は(とも)(うら)と呼ばれる水門に着いた。水主によれば、佐賀関に続き、迫門の内海も潮の満ち干が激しいという。強い潮に乗って舟を進めれば、さほど労せずして旅程をこなせるという話だった。鷹彦が月読の勾玉の力を借りて、時々案内の者とともに、細かな潮の流れの様子を見ていた。


 迫門の内海の西と東から押し寄せる潮流は、鞆の浦で互いに出会う。潮が満ちる時は二つの流れが鞆の浦でぶつかり、引き潮ではここを境に水が分かたれてゆく。海の満干を見計らって流れに乗ろうと、多くの船がこの浦に停泊して潮を待っていた。内海へと張り出した岬が両の腕を広げたような入江の水門には、潮待ちの船が多数浮かんでいる。


 春霞の立ち込める朝方、騒速は冷たく凪いだ薄明の中で大きく息を吸った。潮の匂いは、朧な影を横たえる洲々の淡い気配を含んでいる。薄青から薄紅(うすくれない)、紅へと変わる空を背後に、海に浮かぶ洲影は美しかった。半ば眠ったままの中つ国に、遠く柔らかな波音だけが揺らいでいる。


 舷に立って海を眺めながら、騒速は艫にいる八女宿禰を横目に見た。寝起きが悪い彼は、顰め面で霞の向こうを睨みやっている。

 水主(かこ)たちが忙しく出立の準備をする脇に佇んでいると、宿禰は近寄って話しかけてきた。


「其方は船の揺れが何ともないのだな。伊伎で育っただけのことはある」


 見れば宿禰の顔は、朝の薄い光の中でもやや蒼ざめている。声も心なしか覇気がない。船上で彼が無口だったのは、船酔いをしていたためらしい。


「私は洲育ちですが、暮らしていたのは山です」

「とは言え海の近くにいたのだろう。私には、潮の匂いすら耐え難い」


 見るからに嫌そうな顔で彼は言った。反対側の舷で涼しげに海を見やる鷹彦とは、どこまでも対照的だ。


「宿禰殿は、山門(やまと)近くからいらしたのでしたね」


 山門は山あいにある要害で、智舗の旧都だ。宿禰はその近郊の出身と聞いていた。


「ああ。大王と同じだ」


 山門は台与の出生の地だ。母がお産で亡くなったために生後間もなく伊都へ転じたが、生まれた地にちなんで山門大王と呼ばれた。深緋の巫女の二つ名は、母の血に濡れて産まれたことから、名乗り始めたらしい。

 宿禰は不意に興味深そうに騒速を流し見た。切れ長の目には妙な妖しさがある。


「鳥飛の後に大王に呼ばれていたな。何を言われた?」


 騒速は少し驚いた。青息吐息と見せて不意打ちに、こんなことを尋ねるとは、油断のならない相手だ。


「鳥飛から戻った時、最初に私の姿が見えたので、思わず名前を口走ってしまったと」

「藤見に出かける段取りでもしたのかと思ったが」


 宿禰は信じていない様子で片眉を上げた。鎌をかけて、何か言わせようとしているのだろう。騒速は小さく息をついた。藤見のことは思い出したくない。


「何のことでしょう」


 我ながらけんもほろろな対応だったが、答えてやる気はなかった。宿禰の話を流せれば、狭依にも金輪際、脇が甘いだの何だの言われなくて済むだろう。


「藤見の夜、大王によく似た采女を連れていたな」


 訝るような面持ちで、八女宿禰は騒速の顔を眺めた。何も表さずただ静かに、騒速は宿禰の顔を見返した。


「深緋の巫女は恋心を持たぬ。想いを寄せても無駄なことだ」


 釘を刺すように彼は言った。何でよりにもよって宿禰からそんなことを言われなければならないのかと思ったが、顔に出すことは控えた。


「存じております。大王に片恋など、大それたことは致しません」

「ならば安心した。――首に下げているのが誰からの貰い物か知らんが」


 衣の首筋からのぞく紐を、宿禰は目ざとく見ていたようだ。詮索好きに半ば呆れながら、騒速は素っ気なく言った。


「誰から貰った物でもありません」


 台与といたのを見られたことは、気にならなかった。無事に送り届けたのだから、あとは素知らぬふりをしていれば良い。(はなむけ)の勾玉も、出所を言わなければ誰に知られることもない。


 騒速にとっては、狭依の様子の方がずっと気がかりだった。狭依はあの夜、鮮やかな衣を着け、髪も丁寧に梳っていた。誰と出かけるつもりだったのか気になったし、冷たい物言いで動揺させてしまったことを後悔していた。

 おもむろに宿禰は、まったく別のことを口にした。


「月読の裔は、出雲に報いを与えようとは思わないのだな。杵築に着くのが遅い道程を選んだとは」


 騒速と鷹彦は、吉備まで宿禰を送り届けた後、奥出雲へ向かうよう命じられている。奥出雲へは、鳥船とともに出雲の水門の宇禮保に向かい、それから南下する道もあった。


 しかし台与は、吉備から山越えさせることを選んだ。宿禰に警固をさせるためだが、冷静さを保ちがたい杵築を通ることは避けたいと、鷹彦が言ったためだ。


 出雲は郷里を滅ぼした仇だが、鷹彦は積極的に戦いを望んでいない。杵築は彼にとって、辛い過去を蘇らせる。だから避けたのだろうと感づいてはいたが、騒速は淡々と返した。


「智舗の臣下として行くからでしょう。大王は敵を殲滅すべからずと仰せです」


 反乱があっても、台与は首謀者だけを罰するのが常だった。血を流すことは極力控え、従来の勢力を温存したうえで従わせる。そのうえで監視を続け、反乱の芽を摘みながら宥めすかすことを是とした。出雲に関しても同じ方針を踏襲したいからこそ、冷静に事に当たれる鳥船を差し向けたのだ。


 つれない騒速に、八女宿禰は挑発を続けた。


「あれは出雲よりも、熊襲に一矢を報いたいのかもしれぬ」


 騒速は息をついた。

 熊襲は、風読の命を奪った。何らか禍根が残っても当然だが、報いの是非を宿禰と論じる必要はない。黙然とする騒速の前で、宿禰は薄い笑みを浮かべた。


「風読の娘を亡くして以来、あれはやむなく生きているだけだ」


 長身の騒速より、八女宿禰は頭一つ背が低かった。だが態度は自信と驕りに溢れ、傲然とこちらを見上げている。船酔いの影はすっかり掻き消えていた。冷然と見つめ返しながら、騒速はゆっくりと口を開いた。


「それがどうしたというのです」

「そう怒るな。其方の主は、長らえようとしていないと教えただけだ。都で誰に従うべきか、見誤るのは得策ではない」


 八女宿禰は、騒速を味方につけたいと思ったのだろうか。台与と騒速の様子にあらぬ疑念を抱いているにしても、つくづく大王に擦り寄るための手段を択ばない輩である。


「ご忠告痛み入ります」


 冷ややかに言われて、宿禰は面白くなさそうな顔をした。


「つまらん奴だな。先のない主に仕えても、見通しに明るいことはないぞ」

「何とでもおっしゃってください」


 呆れてため息をつくと、八女宿禰はふんと鼻を鳴らした。


「俺は大刀(たち)を持たぬ。知恵一つで生きてきたからだ。だが大刀を携える者と手を組むことはやぶさかではない。都で生きていくには何が賢い手か、よく考えることだ」


 宿禰は足早に立ち去った。苦々しい思いで、騒速は甲板を遠ざかる後ろ姿を見送った。


 郷里では、体が強ければ何とか生きていけた。だが人の野心が蠢く都では、事は単純に運ばない。歳が重なる前に、生き抜くだけの知恵を身につけねばならない。そうわかっていても、知略を鍛える方法は、よくわからなかった。


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