三 諍い
「多少早く帰ったって、狭依はどちらにしろ怒り狂うわ。貴方といたと知れれば余計に」
しれっと言って、台与は暗がりを選びながら歩き出した。騒速は慌ててついていった。
「だから放っておいていいのに」
「そんなわけには」
歯切れ悪く言う自分が情けなかったが、せめてもと騒速は台与の後をついて歩いた。雲が多くなるにつれ藤の花が見えにくくなり、台与は間もなく飽きたようだ。
「火明かりだけより、月の光のもとのほうが美しいわね」
残念そうに言いながら、台与はまだ藤の枝を眺めていた。彼女の纏う若芽色は、藤の色とよく似合うと騒速は思った。
「藤はまた咲きます」
うん、と煮え切らない口調で台与は頷いた。小さく息をつき、潔く踵を返した。
「短い間だったけど、気が済んだわ。道が分からなくなる前に戻らなくては」
心底安堵して、騒速は頬を緩めた。ええ、と答えた。
「御所までお送りします」
「お願いするわ」
あっけらかんと言い、台与は先に立って歩き出した。軽やかな足取りは、儀礼の時に静々と歩く様子からはおよそ想像がつかなかった。
なるべく庭火の光の差さないところを選んで、台与は人のいない一角から館の回廊へと上った。広大な館の、長大な回廊を確固たる足取りで進み、幾度となく曲がる。やってくる者があれば別の道へ逸れ、何度となく人目を躱しながら、ようやく御所へと辿り着いた。何とか人の目を掻いくぐり通したと、騒速は安堵に胸を撫でおろした。
彼よりずっと元気な様子の台与は、明るく礼を言った。
「送ってくれてありがとう」
「無事にお送りできてほっとしております」
口の端を上げて台与は微笑んだ。
「そなたも鷹彦も、良く旅の支度をしてね。鷹彦はそなたを危険に遭わせたくないと言ったけれど、私は行ってほしいと思っていたの。あの場で名乗りを上げてくれて感謝している」
「ありがとうございます」
心底からの感謝とともに、騒速は礼をした。大王直々の激励を受けるなど、幸せなことだ――自分だけに言葉を向けてもらえるなら、なおさらだった。元々騒速を任じたかったという発言も、彼を励ました。
「腕は申し分ないし、鷹彦からの信も篤い。物の力が蔓延る地へ行くのは大変だけど」
誰にも見つからず戻れた安堵からか、台与は聊か饒舌になっていた。騒速もすっかり警戒を緩め、台与の言葉に聞き入った。
「月読の神宝は、万の神の裔を助けるの。二人でなら物にも抗える」
回廊の脇に焚かれた篝火が、考え込んだ台与の色白な顔に、橙の灯影を落としている。意味を取りかねた騒速は、我知らず眉を顰めた。
吉備へ宿禰を送った後、出雲へ入るのは聞いていた。物が出没していないか探りながら、杵築の鳥船に合流することも。だから物の怪に会う可能性は承知していたが、月読の勾玉に台与が言及したことはなかった。
「どういうことでしょう」
答えは、聞けなかった。
口を開きかけた台与が騒速の背後を一瞥するやいなや、固く唇を引き結んだからだった。彼女の表情から何が起こったかを悟る頃には、騒速にも背後の衣擦れの音が聞こえた。
「台与様、騒速殿」
騒速はその場に突っ立ったまま、猛烈な後悔に見舞われながら瞼を閉じた。投げかけられた声は、よりにもよって狭依のものだ。
どうか夢であってほしいと思ったか、目を再び開けても彼を取り巻く周囲は変わらなかった。気まずそうな顔の台与と、背後の燃え立つような殺気。内心で嘆息しながら、観念して狭依の方を振り返った。
予想通り、歯ぎしりせんばかりに激怒した狭依が、小皿の中の油に浸した灯心を掲げて立っていた。目線にこもった怒気を見て取り、騒速はすべての言い逃れを諦めようと決めた。
「ごめんなさい、狭依」
開口一番に台与が謝った。彼女もまた、言い訳は役に立たないと考えたらしい。
「私が一人でしたことなの――好きに藤を見て回りたくて。騒速は巻き込まれただけ」
狭依は、台与に対しても憤懣やるかたない表情を向けていた。だが謝罪を聞いて、最初の純粋な怒りはわずかに薄らいだように見えた。心もとない火明かりの中、代わって強い寂しさが顔に浮かぶ。理由はわからなかった。言いたいことは沢山ありそうだったが、狭依はひとしきり唇を噛み締めると、ゆっくり口を開いた。
「台与様はどうぞ閨へ。――今宵はもう遅いですから」
すぐに台与に謝られたので、狭依としても怒りのぶつけようがないようだった。
「ええ」
狭依が憤怒を抑えてくれたことに意外そうにしつつ、台与は素直に従った。
「床の支度はできております。後からすぐに参ります」
「ありがとう。待っているわ」
閨へと立ち去る台与を、騒速は目礼をして見送った。台与は申し訳なさそうな顔をしていた。だが、大王と言えど、できることとできないことがある。同じく台与を見送った狭依は、厳しい顔で騒速に向き直った。今にも唇を震わせそうな様子だった。
「これは一体、どういうこと」
「おひとりでいるところにお会いしたので、此処までお送りした次第だ」
「もっと早くにお連れしてほしかったわ」
恨めしそうに狭依が言った。騒速は一瞬迷ったものの、口を開いた。嘘をついても、いずれ台与が本当のことを言うだろう。
「そうしたかったけれど、藤が見たいと仰せだったから」
正直な言葉は、なぜか狭依の顔を一層強張らせた。どこか悲しそうだった表情に、また怒りが戻りつつあった。
「大王が一人で歩くのを止めもしなかったのね」
狭依が言うのももっともだった。だが、台与の望みを断れたかと言えば疑わしい。ひとまず騒速は素直に謝った。
「ごめん。藤見を邪魔立てするのも忍びなく、せめてもと庭にいらっしゃる間はお傍についていた」
狭依は唇を固く引き結んだ。なぜか台与を気遣ったつもりの発言をするたびに、狭依の怒りは増すらしい。梳られた髪と整えられた衣のせいか、激怒した顔も美しかったが、憤りが全て自分に向けられているとなると、さすがに気が沈んだ。
「すぐに此処へお送りするべきだったわ。鷹彦様ならきっとお連れくださったのに」
彼女にしてみれば、勢いで口にした一言だったかもしれない。だが妙に、騒速の心の奥を疼かせる言葉だった。狭依が騒速をはなから当てにしておらず、一方で鷹彦のことは信頼している事実を突き付けていた。
主に比べて、自分が頼りないのは知っている。だが、狭依には言われたくなかった。できることなら誰より彼女に認められたかったから。自身が騒速を最も深く動揺させられると、狭依は知らないにしても。
「ずっと台与様をお探ししていたのよ。采女に訊いても、台与様に頼み込まれて服をお貸ししただけで、他は何も知らなかったし」
台与が見つかったことで緊張が緩んだのか、狭依は今までの混乱を吐露し始めた。だからだろう、騒速の顔が曇ったことに気づいていなかった。
「何かあったら、あらぬ言いがかりをつけられるのは貴方だわ。都の者は脇の甘い人に容赦はしないもの」
責めるような口調で言われて、騒速は深くため息をついた。しおらしい気持ちは失せてしまい、狭依の叱責から早く逃れたいと、そう思った。最早彼女の言い分が正しかろうと正しくなかろうと、どうでもよかった。
「秋津洲でだって――」
「容赦がないのは狭依殿だ」
嫌気が差していることが滲み出た口調になった。彼を見上げる狭依の目の奥に、またも何か言いたそうな光が揺れた。彼女が口を開く前に、騒速は隙を逃さず言った。
「貴方からしたら、愚鈍な田舎者はさぞかし目障りだろう」
突き放すような言い方をしたのは初めてだ。嫌味を言われないよう話を切り上げることはあっても、きつい物言いをすることはなかった。そうしたくなかったからだ。たとえ狭依が騒速を取るに足らない相手と思っていても、自分からは認めずにいたかった。でも、それも無駄なことだった。
「俺は間もなく秋津洲に発つから、狭依殿を煩わせることもない。鷹彦様だけが向かえばいいと思うだろうけれど」
狭依の小さな顔に鋭い後悔の色が差した。
「それは」
華奢な唇を開いて何か言いかけたけれど、先が続かなかった。鷹彦だけが発つべきと思ったのは、図星に違いない。謀議で騒速が同行を申し出た時の、凍り付いたような顔が蘇る。
口を突いて出た言葉は止まらなかった。
「大王が命じて下さった以上は、務めを果たすつもりだ」
思わぬ反撃にあって、狭依は驚き、言葉を失っていた。だが慮る余裕もなかった。自分が器用さに欠けることはわかっているが、狭依に指摘されるのは辛い。よりによって、誰かと出かけるために誂えたであろう衣を着た彼女に。
「山門大王がお待ちでしょうから、さがらせていただきます」
「騒速殿――」
「失礼いたします」
にべもなく言って、騒速は彼女の顔も見ずに立ち去った。静まり返った館の回廊には、まばらに置かれた篝火の爆ぜる音が、時折響くだけだった。次第に足を速めて、騒速は館を出るともと来た道を戻った。だが、狭依と別れた場所から離れれば離れるほど、心はますます重苦しく塞ぐ一方だった。
夜空に棚引く雲の合間から、朧な月影がのぞいていた。




